忘れ得ぬことどもII

映画「引っ越し大名!」

 昨日(2019年9月4日)の朝に観に行こうと思っていて、結局マダムにつきあうことにしたために行けなかった映画を、今日観てくることにしました。取り立てて映画好きというわけでもなく、むしろ滅多に行かない私が、2日続けて映画鑑賞というのはずいぶん珍しいこともあるものです。
 で、私が観たかった映画というのは、『引っ越し大名!』でした。
 しばらく前に他の映画を観に行ったときに予告篇を見て、なんとなく面白そうだと思ったのですが、その後書店で原作本を見つけたのでした。そのときはかなり時間があったのに、持ってきた本を早々に読み終えてしまって、手持ちぶさたをかこっていたもので、ついその原作本を買ってしまったのです。
 原作本のほうは『引っ越し大名三千里』というタイトルで、作者の土橋章宏という人は馴染みがなかったのですが、前に映画化された『超高速! 参勤交代』のタイトルには聞き憶えがありました。なるほどその種のポップな感じの時代小説を得意とする作家であるようです。
 引っ越し大名と呼ばれたのは直基流越前松平氏前橋松平氏)2代目の松平直矩のことです。播州姫路越後村上、また姫路、豊後日田出羽山形、そして奥州白河と、53年の生涯のうち5回も転封を繰り返した不運な人でした。家督を継ぐ前にも2回引っ越していますので、全部で7回です。土橋氏に先んじては、杉本苑子氏が彼を扱った本を書いています。
 もともと大名の転封の際には莫大な費用がかかるものですが、直矩の代で5回もそれを繰り返した越前松平家は、一気に借金まみれの大赤字体質に転落しました。もともと国替えというのは、大名家とその領地との心情的な一体感を阻んで、幕府に反抗しないようにとの意図ではじめられた施策と言えますが、それと同時に、参勤交代と同様、大名家を財政的に疲弊させるという意図もあったでしょう。

 直矩は徳川家康の次男であった結城秀康の孫にあたります。結城秀康という人は徳川家にとってどうにも扱いに困る存在であったようです。何しろ将軍位を継いだ秀忠の兄になるわけで、本人にそのつもりがあれば徳川家の継承権を主張してもおかしくないのです。秀康が庶出で秀忠が嫡出といった立場であればともかく、両者とも家康の正室の子ではありません。
 家康の正室はふたり居て、まず若い頃に今川義元の姪をめとっています。瀬名氏、あるいは築山御前などと呼ばれている女性です。彼女は家康の長男である信康を産んでおり、信康が健在なら誰も文句の言えぬ跡継ぎであったはずなのですが、残念なことに織田信長から武田との内通を疑われて切腹させられてしまいます。後ろ盾になるはずの今川家もとっくに亡びていますので、信康を救おうとする者は居なかったのでした。
 ふたりめの正室は豊臣秀吉の妹の朝日殿で、秀吉が天下をとってもなかなか挨拶に来ない家康を懐柔するために、なかば人質のような形で輿入れしました。輿入れしたときすでに44歳で、家康とのあいだに子はできていません。
 従って、秀康以降の家康の子はすべて側室の産です。その意味では秀康と秀忠はまったく同じ立場でした。秀康が後継から外されたのは、家康が嫌っていたというそれだけの理由です。しかもその嫌った原因というのは、赤ん坊の頃に見た目がよろしくなかったからというのですから、普通の大人だったらあきれはてるような話です。
 もちろん他の理由を忖度する人も居ます。秀康の生母が身分の低い下働きの女だったから、という説もありますが、家康は他にも身分の低い女に子を産ませておりますので、あまり説得力がありません。それから秀康が並々ならぬ器量の持ち主と知って遠ざけたという説もありますが、そんな器量がはっきりする以前から家康は秀康を嫌っていたようですので、これもあやしげです。家康は、やはり赤ん坊のときに醜かったと言われる六男の忠輝のことも嫌ったようなので、どうももとから、赤ん坊のときの見た目によって好き嫌いを判断する癖があったように思われます。
 ともあれ家康は秀康を気に入らず、さっさと秀吉のもとに人質として送り込んでしまいました。秀吉のほうは秀康が大いに気に入ったようで、猶子(相続権の無い養子)の扱いにして家族同然に接しました。秀康も豊臣家のほうが居心地が良かったようです。
 やがて秀康は結城家の養子となります。これを、「成長するに従って大器の片鱗を見せはじめた秀康を、秀吉が警戒して、あまり力の無い家の跡取りとして送り込んだ」と解する向きもありますが、たぶんそんなに大層な話ではないでしょう。結城家といえば関東の名門のひとつであり、この当時は昔日の力を失っていたとはいえ、まだまだネームバリューは充分にありました。秀吉が秀康にその名跡を継がせたのは、過分なほどのアフターケアです。本来なら大坂城内で飼い殺しにされても仕方のない立場なのです。
 養父秀吉の薫陶もあり、秀康は申し分のない武将として育ちます。久しぶりに秀康に会った父家康は、これは跡継ぎの選択を誤ったかと思ったと言います。どう見ても秀忠よりもすぐれた人物のように見えたのでしょう。
 結城家は下総結城(現在の茨城県結城市)に根を張った名族ですが、この位置は見ようによっては、徳川を背後から牽制しているようでもあります。会津蒲生氏郷を置いたのと同じような豊臣家の戦略かもしれません。家康もそう思ったのか、結城家に入った秀康を、それまでとはうってかわって鄭重に扱いはじめます。秀忠も、秀康を兄として立てる態度をとりました。勇猛ではあっても直情的だった秀康は、この扱いにほだされたのか、徳川家の一員という意識を徐々に持つようになったようです。だから関ヶ原の合戦では、石田三成とはけっこう仲が良かったのに、西軍に味方してはいません。ただし東軍として戦ったかと言えばそうでもなく、上杉への押さえとして結城に駐留したままでした。家康もいまひとつ秀康の去就を信用しきれなかったのでしょう。
 関ヶ原後は、越前に領地を貰い、そちらに赴任します。そのため秀康の系統の大名家を、越前松平家と呼ぶようになります。秀康は最後まで結城姓を名乗っていましたが、その子の忠直は「ホントは俺は徳川家の嫡流だったはずなんだ」という意識が強く、徳川姓を名乗ろうとしますが、それは許されず、別姓である松平を称することになるのでした。忠直は家康にいいところを見せて嫡流に戻して貰おうと思い、大坂の陣で奮闘しますが、まったく認められず、落胆と憤怒のあまり精神に異常を来たし、押し込め扱いとなってしまいました。
 忠直が松平姓になってがっかりしたのが、秀康の養父であった結城晴朝でした。彼は由緒ある結城姓があっさり棄てられたことに衝撃を受け、せめても名跡を残そうと考えて、忠直の弟である直基を手許に置き、結城を継がせようと考えました。直基は晴朝の死後松平姓となり、残念ながら結城姓を棄ててしまいましたが、結城家の祭祀は引き継いでいます。
 この直基が、直矩の父です。この人も生涯に3回転封を受けており、最後の姫路に赴く途上で病死しました。直矩はわずか5歳で、引っ越しの最中に当主となったわけです。
 7代将軍家継までの、秀忠系の将軍にとって、秀康系の大名はどうにも鬱陶しい存在であったようです。何かとイヤガラセを受けることも多かったでしょう。転封の多さはそれを反映していると思われます。吉宗以降の紀州系の将軍になると、イヤガラセも無くなりました。
 直矩の転封の多さも、5代将軍綱吉のイヤガラセみたいなところがあったようです。綱吉は、先代家綱の時代に決着がついていた、越後高田の松平家(直矩の従兄弟の光長が当主)のお家騒動の件を蒸し返し、再審理の結果、関係者一同が根こそぎのように処罰され、騒動の沈静化に奔走した直矩と、出雲広瀬藩主松平近栄までがお役目不届きをとがめられて、ともに半分近くまで減封されてしまうのでした。一事不再理の原則を持つ近代法では考えられないことですが、将軍に就任したての綱吉としてはここで存在感を出したかったのでしょう。

 『引っ越し大名三千里』は、姫路15万石の藩主であった直矩が、豊後日田7万石に減封されたときの引っ越し騒動を描いた小説でした。直矩の5回の転封のうちでも、石高を半分以下に減らされたというのはこのときだけであり、それだけに藩士たちにも苦労が多かったはずです。
 小説の上では、直矩が幕府側用人の柳沢吉保の機嫌を損ねたために報復されたということになっていましたが、話をシンプルにするための設定でしょう。しばらくあとに起こる赤穂事件のときでさえ、吉保はおそらく裁判の判決を曲げるほどの力は無かったと私は思っていますが、高田騒動再審理の時期などまだぺーぺーで、大名の転封に口を挟めるような立場ではなかったはずです。
 その機嫌を損ねた理由というのが、直矩が吉保にセクハラまがいの視線を浴びせたからというのですが、これもまあ、面白くするための方便でしょう。映画では逆に、吉保が直矩にモーションをかけ、直矩が拒絶したために恨まれたという筋書きになっていました。
 直矩が衆道(男色)好みであったのは事実であるようで、「土芥冦讎記」という本にもそのことが書かれています。これは17世紀末頃の各大名家の近況を記した本で、直矩に関して、

 ──美童を愛するのは、別に大した欠点というわけではない。

 などと書かれていますので、彼が衆道好きだということは周知のことで、しかもわざわざ擁護するように書かれているところを見ると、ややヒンシュク気味に語られていた気配があります。作者はそのあたりを利用して、転封の理由付けとしたのでしょう。
 小説はこの引っ越し騒動のてんまつを描いていますが、主人公になっているのは、書物方であったひとりの藩士です。いつも薄暗い書物庫に入りびたって引きこもっていた冴えない男が、あれだけ本を読んでいるなら知恵もあるだろうと「引っ越し奉行」を押しつけられ、苦労しながら転封をやりとげるというのがこの小説の大まかなストーリーです。
 石高が半分になるということは藩士の数も半分くらいは切らなければならず、それより何より莫大な引っ越し費用の算段がつかないということで、主人公は途方に暮れてしまいます。それまでの転封のときに引っ越しを仕切っていた藩士に教えを請おうにももう死去しており、ただその娘が残っていて、父のやりかたをよく憶えており、彼女の協力を得て転封のための作業を進めてゆくのでした。そのうちふたりのあいだに情が通いはじめ……というあたりは小説的設定というものですね。
 すでに出て行くことが決まっており、いわばレームダック化している大名家には、領地の商人なども容易にはカネを貸しません。貸したところで返ってくる見込みは薄いのです。そのため大名家のほうもさまざまな駆け引きを試みます。このあたり、堺屋太一『峠の群像』などでもかなりリアルに描かれていましたが、土橋氏はその衣鉢を継いでいるようにも思えました。
 そんなこんなで、小説はなかなか面白く読み終えました。それで、映画のほうも観たくなったというわけです。

 昨日の『アートのお値段』とは違い、今日のは松竹系の映画ですので上演館もふんだんにあります。近くのショッピングモール「川口アリオ」の中のシネマコンプレックス「MOVIX川口」でも上映しておりましたので、10時半からの上映を観るべく自転車で出かけました。マダムも一緒に来ました。昨日は自分の観たい映画につきあって貰ったので、今日は私の映画鑑賞につきあうというつもりであったようです。
 土橋氏はもともと映画のシナリオライターとして出発した人らしく、この映画化にあたっても、自分自身で脚本を手がけたようです。その意味では安心して観られる映画だったと言えます。
 主人公・片桐春之介役の星野源氏は、冴えない、気弱そうな男をうまく演じていたと思いますが、髪型が現代人そのものなのが終盤まで気になりました。いちおうチョンマゲは結っているものの、月代(さかやき)がまったく無いので、前から見ると時代劇の主人公とは思えません。そういえば最近は、大河ドラマの主人公でも、なぜか月代を剃らず総髪にしているのがほとんどです。普通に月代を剃っているその他の登場人物と見た目の差別化を図っているのでしょうが、どうも違和感があります。そしていくら総髪であっても、この映画の星野氏のごとく、前髪が眉毛にかかっているなんて髪型は無かったと思います。ラストで、十何年かあとのエピソードがあり、そこでは通常の武士の見た目になっていました。
 ヒロイン於蘭高畑充希)は原作よりもぶっとんだ感じのキャラになっていました。いきなりお城に押しかけてきたり、訓練や作業をしている武士たちに声援を送ったり、女中衆の陣頭指揮を執ったりと、えらくアクティブです。小説的キャラづくりと映画的キャラづくりの差でしょうね。また、小説では行き遅れの三十娘でしたが、映画ではコブつきの出戻りという設定になっていました。
 一冊の小説を2時間の映画にするわけですから、当然省略されるシーンなども多々出てきます。しかし原作者自身の脚本だけあって、そのあたりの不自然さはあまり感じませんでした。
 ただ、後半に派手なチャンバラシーンが出てくるのは、無理矢理感がぬぐえませんでした。時代劇でチャンバラのひとつも無いのはつまらない、と、作者(脚本家)が考えたのか監督(犬童一心)が考えたのか。どうも、監督がそう考えて作者に強要まがいの要請をおこない、作者が不承不承入れたような気がしないでもないのですが、いろいろ突っ込みどころのありすぎる改変でした。
 当然、原作小説にはそんなシーンはありません。映画では、家老のひとり(西村まさ彦)が直参旗本として幕府に仕官するために直矩を裏切っており、柳沢吉保の差し向けた隠密と示し合わせ、引っ越しの途上で直矩を亡き者にしようとします。海沿いを通りかかったとき、地元の漁師衆に化けた隠密たちが引っ越し行列に襲いかかってきて、チャンバラシーンがはじまるわけです。
 幕府の命令により引っ越ししている最中の大名を襲ったりしたらえらいこといなりますし、そもそも千人以上の武士が付き従っている行列に襲いかかるなど正気の沙汰ではありません。もし大名を葬ろうとするのならば、鉄砲で遠距離から狙撃するくらいしか、現実に有効な方法は無さそうです。時代は少し下りますが、新田次郎の短編に「からかご大名」というのがあり、狙撃を予告されていた大名が、参勤交代の際に駕籠から下りて歩き、臆病者と嘲笑されるという話でした。
 それを真っ向から合戦を挑むがごとくに襲いかかるなど、そもそも全然隠密でもなんでもありません。けっこうリアルに引っ越しの内情を描いていた映画が、ここだけえらく嘘っぽくなったのが残念でした。
 原作小説でも、引っ越し途上のトラブルは描かれていましたが、天候不順で船が出ず、宿場に何日も足止めを食うという内容でした。千人以上の人間が何日も足止めされていては、大変な費用がかかり、せっかく引っ越しの経費を節約できていたのが吹っ飛んでしまう、さあどうする……という話になっています。確かに文章で読んでいると手に汗握るのですが、映像としては地味ですね。
 なお、小説ではこのトラブルに関連して、ある有名な人物が登場します。姫路からほど近い、あそこの藩の人ですね。映画でもとってつけたようなチャンバラより、この人物を登場させておいたほうが、観る者に「ほほう」と感心されると思うのですが。

 全体的にコメディタッチではあり、楽しく鑑賞しました。マダムは筋書きよりも、むしろ好きな俳優がたくさん登場したことに喜んでいたようです。それから舞台となっていた姫路城も、少し前に訪れて以来気に入っていたようです。

 ちなみに小説・映画で描かれた以降の松平直矩は、白河藩に移ったあとは転封されることなく生涯を終えました。彼の孫の明矩のとき、また姫路に戻されますが、その子の朝矩は前橋へ転封されます。しかし前橋城が暮らしにくかったらしく、幕府の許可を受け川越に移ります。このとき、前橋の所領はそのまま保持することができたようです。川越藩はかつて柳沢吉保はじめ有力な幕臣が封ぜられたところでしたが、松平朝矩以降はずっと川越に居り、直恒直温斉典典則直侯直克と続いて幕末を迎えます。最後の直克は前橋の城を復活させてそちらに移り住みました。そのためこの家系は前橋松平家と呼ばれるわけです。
 なお白河藩といえば、寛政の改革で有名な松平定信が出たところですが、この松平家は直矩の子孫ではなく、別系統の久松松平家です。久松松平家というのは家康の母・於大の方の実家から発していますので、本家というべき徳川家からはだいぶ遠い系統です。
 江戸時代の転封の様相をよく見ると、親藩や譜代をちょくちょく国替えさせ、外様にはそれほど手をつけていない印象があります。身内のほうが動かしやすかったというか、身内ほど警戒していたのではないかと思われたりもするのでした。

(2019.9.5.)

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