忘れ得ぬことどもII

高齢者の自動車事故

 ここ最近やたらニュースを耳にする、高齢者による自動車事故
 個々の事件のディテールについて発言できるほど詳しく承知してはいないのですが、この種の事故がいきなり連発するようになった背景については、やはりいちど考えておかなければならないような気がします。
 高齢者ドライバー事故の皮切りとなった、池袋での暴走事件ですが、これが特に世間の話題になったのは、事故を惹き起こした当人が、かつて高級官僚として功成り名遂げ、国から勲章まで貰った人であったということと、母子を轢き殺しているのになぜか逮捕されることがなかったという、多くの人々の首を傾げさせる展開によるものでしょう。
 逮捕されなかったことについては、逮捕状発行の手続きを根拠に、別に不当なことではないと擁護する説明をしてくれる人も居ましたが、その後連続して起こった高齢者ドライバーによる事故では、だいたいもれなく逮捕されていますので、やはり池袋事件での措置が目立つのでした。
 「勲章を貰うような『上級国民』は、たとえ死亡事故を起こしても、逮捕されることはないんだ」
 というような勘繰った意見が、ネットでは吹き荒れました。さすがに本気でそう思っていた人はそう多くないと思われ、一種の皮肉として言っているのでしょうが、「上級国民」という言いかたはすっかり人口に膾炙してしまいました。検索されるワードとしてもずっと上位に在り続けています。

 飯塚幸三の名は、私なんぞにもうっすら記憶があります。いつ頃なんの話題に関連して耳にしたのかははっきり憶えていませんが、ともあれ旧通産省のエリート技官として赫々たる業績を上げ、国際的にも名の知られる人であったのは事実です。計量・計測などに関する専門家であったことはいま調べて知りました。計量研究所所長、工業技術院院長、クボタ取締役などを歴任し、国際度量衡委員会日本計量振興協会計測自動制御学会日本工学アカデミー日本工業標準調査会などでそれぞれ会長や副会長を務めたそうです。それらの功績に対して、2015年の秋に瑞宝重光章を受勲しました。なるほど凄い人です。「上級国民」なるものがもし本当に存在するとすれば、間違いなく該当することでしょう。
 彼が逮捕されなかったのは、事故のあと入院していて、逃走や証拠隠滅のおそれが無かったからだと説明されていますが、退院した現在でも逮捕はされていません。この事件単体で見れば、その説明で納得できないでもないのですが、繰り返しになりますけれどもその後の高齢者事故では、85歳以上のご老人であってもしっかり逮捕されているのです。逮捕されれば報道では「○○容疑者」呼ばわりになります。逮捕されていない飯塚氏は容疑者呼ばわりもされず、「さん」「氏」といった敬称付きで報道されています。
 ひとつひとつは理由のあることなのでしょうが、全体としてみれば、やっぱり「上級国民」だったから……と勘繰られても仕方のない状況であるかもしれません。
 まあ今後、逮捕はされなくとも起訴はされるでしょう。それなりの罰を受けることにはなると思います。これが不起訴処分にでもなったら、いよいよ「上級国民」説が信憑性をおびてくることになりますが。
 死人が出ていなければまだしも、実際にふたりが命を落としているこの事件で不起訴処分になるほど、日本の司法は腐ってはいないと思いたいところです。

 古代の中国には、「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」という言葉がありました。大夫というのは時代によって多少のイメージの変化がありますが、この言葉ができた春秋時代にはまあ中級以上の貴族を指し、まさに「上級国民」です。刑罰というのは「下級国民」である「庶人」が受けるべきもので、貴族には適用されません。その代わり貴族の行動は煩瑣な「礼」によって縛られています。礼というのは日本で考えるような「礼儀」と違って、人(この場合は貴族)のふるまいかた全般を規定した、いわば行動原理と言ったほうが良いような倫理体系です。どんなに有能でも、あるいは勇猛でも、礼に外れたおこないをすれば総スカンをくらうというのが春秋時代の貴族のありかたでした。
 その礼の中には、不名誉な事件を起こしてしまった場合の出処進退も含まれています。もちろん、とがめを受ける前に潔く自裁せよというのがその内容です。実際には往生際悪くあがいたあげくに、主君や政敵に攻め滅ぼされたという例も枚挙にいとまがありませんが、とにかく譴責などの使者がやってくる前にみずから生命を絶つというのが大夫の「あるべき姿」であり「理想」であったのでした。
 その意味では、晩節を文字どおり瀆(けが)してしまった飯塚氏は、逮捕とか起訴とかされる前に自裁するのが筋ということになるのかもしれません。本当に上級国民なるものがあるのならば、逮捕しなかったのは、飯塚氏が潔く自裁するのを待っていたということになるでしょう。
 もちろん、そんなことは無いと信じます。日本国の法律は、すべての日本国民に同じように適用されるのであって、「刑が上らない」大夫などは居ないはずです。今後の起訴や裁判に注目したいところです。

 飯塚氏は、歩行もままならないほど脚を悪くしていて、自動車が暴走したのは、脚が痛くてアクセルから放せなかったからではないかと考えられています。
 高齢者の運転には、そういう懸念材料があります。
 歩けないほどに脚が悪いのに、クルマの運転はできるという、その自信はどこから来るのだと言いたくなりますが、そんな根拠のない自信を持っているお年寄りが、案外と多いことには驚かされます。
 つい最近も、同様の話を聞きました。ある高齢の合唱指揮者なのですが、しばらく前にふとしたことで脚を骨折してしまい、痛いのでリハビリを避けているうちに、ほとんど歩けなくなってしまったのだそうです。それはそうでしょう。
 ところがその先生、
 「クルマで行けるところなら(仕事に)行くよ」
 などと言い出して、周囲を大いにあわてさせたとか。頼むからそれはやめてくれ、とあちこちから言われ、麾下にあった合唱団が合同で「○○先生とのお別れ会」を開き、なかば強制的に隠退させられてしまったというのでした。
 常識的に考えて、アクセルとブレーキは足で操作するわけですから、歩くこともままならないほどに悪くなった脚では、運転などできるはずがないと思うのですけれども、どうしたわけか運転歴の長いお年寄りは、クルマなら大丈夫と思ってしまうようです。確かに足で操作すると言っても実際には爪先を上下させるだけみたいなものですから、ひざなどが痛くても充分動かせると考えるのかもしれませんが、脚──足というのは連動しているのであり、一箇所が悪ければ必ず他の箇所にも支障が出てきます。
 それから、悪いのは左脚で、右脚はなんともないから運転に差し支えはない、と思う人も居るかもしれません。マニュアル車であれば、左足でクラッチを操作しますからいけないけれども、オートマ車の場合は左足を使わないので、問題ないと思いがちです。これも大きな間違いで、右脚を使うときには確実に左脚にも力がかかっており、左脚が悪いと踏ん張りが利かなくなって、悪くないはずの右足の操作にも影響が必ず出ます。
 お年寄りの体調には個人差が大きく、いつまでも若々しく元気な人も珍しくはありませんから、一律に何歳以上は免許を取り消せとは言いませんが、例えば後期高齢者の免許更新の際には、視力だけではなく、他の部位の身体能力計測も義務づけるというような法改正はおこなったほうが良いように思います。
 あるいは、運転できる場所を限定するといった措置も必要かもしれません。池袋のような人混みの激しい繁華街での運転などは禁止し、他の交通手段の望めない田舎だけにするとか。そういう地域なら、たとえ暴走しても自分が死傷するだけで、他人を巻き込む事態はおおむね避けられるでしょう。
 確かにクルマがないと生活できないという地域は少なからずあります。ローカル鉄道もローカルバスも、採算がとれないので廃止され、商店も次々廃業となり、徒歩では買い物にも行けない、なんてところは、私が訪れた範囲だけでもざらに見受けられるのでした。最近ではデマンドバス、デマンドタクシーなどの導入で対策している自治体もありますが、そういうのを頼むのは気が重いというお年寄りも多いでしょう。無人運転車(真の意味での「自動車」)の開発を急ぐべきかもしれません。

 そんな中、俳優の杉良太郎氏が、メディアを集めて免許返納の儀をとりおこないました。75歳だそうですが、こういう影響力のある人が眼に見える形で先導してくれるのは良いですね。もちろん、最近の高齢者ドライバーによる事故の多発を憂いてのことでしょう。齢をとったら、自分から免許は返しましょうよ、というアピールというわけです。
 ちなみに私の父は70歳になったときにすっぱり免許を返納しました。まあ都内暮らしなので、マイカーも持っていませんし、自分で運転する機会も無いだろうという判断で、特に心理的抵抗も無かったのだと思います。父はもうじき82歳になりますが、健康診断ではほとんど悪いところが見つからず、いまだに月に1、2度は山登りに出かけるような人です。免許返納は、健康上の理由ではなく、もとから70になったらやろうと思っていたようです。
 一方マイカーを持っていたりすると、やはり年齢による免許返納ということには抵抗を覚えるものなのかもしれません。クルマを売るにしても廃車するにしても、少々面倒なのは確かです。廃車にはお金がかかったりもします。そのあたりも、少し規定を変えてはいかがかと思います。70歳以上の人が、免許返納を理由にクルマを売ったり廃車したりするばあいは、その手数料を行政で補助するようにしたらどうでしょうか。手続きの代行サービスなどもおこなうと良いですね。
 あと免許の返納を妨げているのは、運転免許証を「身分証明書」として使いたいという気持ちでしょうか。いまのところ、単独で身分証明書として使用できて、比較的取得が容易なのは、運転免許証とパスポートくらいしかありません。健康保険証では単独で使えない場合があります。海外旅行などしない人であれば、運転免許証しかないわけです。これ、マイナンバーカードの普及が進めば解決できる問題なのですが、なぜか遅々として進みません。実は私もまだ取得していません。取得をもっと励行するための施策が必要だと思いますが、何かが普及を妨害しています。たぶん、お金の通り道をはっきりさせたくない勢力があるのでしょう。マイナンバーが完全に機能すれば、お金のやりとりなどがほとんどすべて跡づけられて明らかになると言われています。
 しかし、運転免許証以外の簡便な身分証明書をみんなに与えるという意味合いからも、マイナンバーカードの取得をもっと促進すべきなのは明らかです。本来マイナンバーは、USAなどでやっている社会保障番号の真似で、あくまで年金とか保険とかに資するものとして発案されたはずですが、上記のとおりお金のやりとりを透明化する機能もあり、身分証明書としても使えるということであれば、促進しない理由は無いのではないでしょうか。

 そうでなくとも、クルマ依存社会からの脱皮を図るべきだという気分が私にはあります。
 最近の若い人が、あんまりクルマを買わなくなったことを憂うる記事が、ときどき雑誌などに出て、ネットでも紹介されます。われわれの若い頃は、カッコいいクルマに乗ることこそが男のステータスというもので、女の子もそういう男にこそ寄ってきたものだ。しかるに最近の若い者は、そういうステータスを身につけようともしなくなって情けない、というような論調であることが多いようです。
 その「われわれ」という世代はだいたいバブルを満喫した連中で、私などもあくまで世代的に言えばそのあたりに属するので、こんな記事を読むとなんだか気恥ずかしくてなりません。若い人がクルマを買わないのは、買えるだけの給料をあんたらが渡していないからだろうと言いたくなります。
 そして、クルマなど買えないような給料しか貰えない世代が10年でも続くと、人の価値観が変化してきます。故・堺屋太一氏が繰り返し主張していたように、人間は、いつの時代、どこの地域にあっても、
 「豊富なものを大量に使うことはカッコいいことだ」
 「足りないものを倹約するのは正しいことだ」
 という価値観と美意識を普遍的に持つものです。自分の給料では絶対に買えないクルマというのは、彼らにとってはもう決して「豊富なもの」ではなくなっています。もっと根源的に言えば、長期にわたるデフレで、「お金が足りない」状態が普通になっているために、若者は「お金をあまり使わないことが正しい」という価値観になっていると言えます。お金がジャブジャブと剰っていたバブル期は、お金をたくさん使う、つまり高級車を所有したりするのが「カッコいいこと」だったのですが、もはやそんな美意識は滅び、上のような記事を読んで共感するのは、バブルを満喫した50歳以上の老害ばかりとなってしまいました。ちなみに私は世代的にはそこに属するのですが、バブルの恩恵を受けたという実感がいちども無いので、記事を読んでも「いまどき何をピントはずれなことを言っているんだ」という感想しか持ちません。
 これから、クルマなどに関心の無い若者たちが、だんだんと社会の中堅層になり、そして指導層にもなってゆくわけです。クルマ社会からの脱却を図るには良いタイミングではないでしょうか。
 脱却して、そのあとの交通体系をどうするか、それについては頭の良い人たちが智慧をしぼって貰いたいものです。私は自分の趣味からして、LRTのような簡便で低公害な交通システムを各地で大々的に張り巡らせれば良いというような案しか出てきませんが、もっと有効なプランがあるかもしれません。

(2019.6.8.)

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