忘れ得ぬことどもII

お札の顔

 紙幣のデザインが新しくなるそうですね。紙幣は偽造防止の意味もあって定期的にデザインを変えているそうです。
 そのデザインは外注するわけではなく、造幣局の専門の係の人がやるらしいのですが、聞くところによると、その係の人は腕が鈍らないように、年柄年中絵ばかり描いているのだそうです。デザイン変更は20年にいちどくらいなペースですから、当然ながら、まったく採用されずに定年を迎えるという人も居るわけです。いや、何人居るのか知りませんが、複数のデザイナーが所属しているとすれば、採用されずに終わる人のほうが多いくらいでしょう。むなしいようでもあり、なんだか鬼気迫るようでもあり、不思議な気がします。
 私がいちばん最初の記憶として憶えている紙幣は、板垣退助の百円札、岩倉具視の五百円札、伊藤博文の千円札、聖徳太子の五千円札と壱万円札という時代でした。百円札は私自身で使ったことはほとんどありませんが、上京してきた伯母の財布に、薄赤い百円札がぎっしり詰まっていたのを憶えています。
 小中学生の頃に五千円札や壱万円札に親しむはずもなく、やはり親しみを感じるのは岩倉具視と伊藤博文でした。岩倉はやや不機嫌そうな表情をしており、伊藤のエビス顔がいちばん近しい気がしたものです。伊藤の眼のところで紙幣に折り目をつけ、いろいろ愉快な表情をさせて面白がる、といった遊びもよくやっていました。
 紙幣に印刷されるのは、ヒゲの生えた人物に限られるのだ、と聞いたことがあります。それも偽造防止のためで、ヒゲが生えていると模写しにくいのだということでした。偽造紙幣を作るのに、手書きで模写することを前提とした、牧歌的な時代でした。確かにあの頃は、そんなに高性能な複写機というものは存在しませんでした。もちろん現在は、特殊インクとか特殊な透かしとかを用いることで偽造防止を図っており、ヒゲのあるなしはあんまり関係なくなりました。

 板垣の百円札は私が小学校に入るか入らないかのうちに姿を消しました。残る岩倉・伊藤・聖徳太子のお札は、ずいぶん長いこと使っていたような気がしますが、実際にはそれほどのことはないのでしょう。物心ついてからずっとそのお札だったのでそう思っただけで、やはり20年ちょっとの使用期間であったのだと思います。
 私が大学に入った年に、お札の人物が一新されました。夏目漱石の千円札、新渡戸稲造の五千円札、福沢諭吉の壱万円札です。新渡戸稲造などという人の名前はそれまで聞いたことが無く、あわてて調べたのも良い想い出です。
 最高額紙幣は聖徳太子に決まっているものと思っていたので、福沢の起用は意外でした。そのうち五万円札とか拾万円札などが出るので、聖徳太子はそれまでとっておくのだという人も居ました。当時はバブル期がはじまりそうな頃で、物価がどんどん上がっており、そんな話もありそうに思われたのです。しかし数年後にバブルがはじけ、さらにデフレの世の中となり、物価も下がり始めました。クレジットカードなども普及して、高額の買い物は現金を介さずにおこなうようになり、5万円、10万円といった高額紙幣は必要ないと考えられるようになりました。
 その後千円札が野口英世に、五千円札が樋口一葉に代わりましたが、壱万円札の福沢諭吉はそのままだったので、いまの若い人たちは、最高額紙幣は福沢に決まっているものと思っていたかもしれません。私たちの世代が聖徳太子に抱いていたような固定観念が生まれている可能性もあります。
 野口英世は浪費家で借金ばかりしていた人物らしいし、樋口一葉は貧窮に苦しみながら若くして亡くなりました。こういう人物をお札の顔にして良いものだろうかという疑念を、彼らが採用されたときには抱いたものでした。とはいえ、理系の人物がはじめてお札になったのは、今後の日本が科学立国を目指すのであればふさわしいとも思いましたし、女性が採用されたのも新鮮な気がしました。まあその前に、二千円札の紫式部というのも居ましたが、あんまり通用していないし(私はわりと使い勝手が良いと思ったのですが)、肖像が絵双紙風でリアルでないため、女性がお札になったという実感は薄かったように思います。
 そういえば、朝日新聞の記者だったかが、最高額紙幣を女性にしないのは男尊女卑の日本らしい、などとたわけたことを発言していました。最高額紙幣に女性の肖像を用いている国がどのくらいあるのか、そうしていない国が全部男尊女卑なのか、ということをきちんと検証してから発言して貰いたいものです。なおお札に肖像が描かれた日本最初の人物は神功皇后ですが、それについてはこの記者はどう考えるのでしょうか。
 この神功皇后、エドゥアルト・キヨソネというイタリア人画家がデザインしたせいか、顔立ちが微妙にバタ臭く、なんだか古代日本風のコスプレをした西洋女性みたいに見えるのですが、そもそも肖像など残っていない人物なのでやむを得ないでしょう。

 さて、それで新しい紙幣は、千円札が北里柴三郎、五千円札が津田梅子、壱万円札が澁澤榮一ということに決まりました。
 野口英世に引き続いて、千円札の顔に理系の人物を宛てたのは良かったと思います。野口の業績が、後世に与えた影響ということから考えるといささかあやしげであるのに対し、北里は正真正銘の世界的科学者と言えますから、これから千円札としてさらに有名になるのは喜ばしいことと言えます。なおお札の肖像というのは、高額紙幣のほうがえらいとは言いきれません。USAでは、最低額の1ドル札に描かれているのが建国の父ワシントンです。いちばんえらいからこそ、いちばん日常的に使われる紙幣に刷られるとも言えるのです。
 日本には、まだまだ多くの世界的科学者が居ますので、どんどんお札に刷ってゆけば良いと思います。
 女子教育の大先達である津田梅子は樋口一葉以上にお札の顔にふさわしいと考えられますし、澁澤榮一も妥当なところでしょう。もっとも、澁澤榮一という人がどのようにえらかったのか、簡潔に説明できる人は案外と少ないかもしれません。例えば小学生相手に澁澤のえらさを理解させられるでしょうか。
 ものすごくたくさんの会社の社長を務めたのだよ、と言えば、低学年の子供ならそれで納得するでしょうが、高学年にもなるとそれではおさまらなさそうです。
 私は、澁澤榮一の最大の業績は、日本に「実業界」というものを創り上げたところにあると考えていますが、こうなると逆に小学生くらいではわからないかもしれません。なかなか一筋縄ではゆかない人物です。少なくとも、「慶應義塾大学を創設した」という福沢諭吉の単純明快な「えらさ」に較べると説明が難しいでしょう。
 ところが、この澁澤榮一の採用を、隣の国が青筋立てて怒っているというのだからわからないものです。
 澁澤は朝鮮にはじめて銀行を設立しています。普通に考えて、現代の韓国にとっても、その資本主義体制の礎を築いてくれた恩人と見るべきではないかと思えるのですが、彼らに言わせると、銀行を設立したのは朝鮮から資産を収奪するためであって、いわば侵略の急先鋒だということになるらしいのでした。
 当時の朝鮮に、収奪するに足るほどの資産があったとも思えないのですが、何しろ「歴史はファンタジー」の国柄で、脳内に「願望の既成事実化」回路を持っている連中です。彼らの頭の中では、併合前の朝鮮は実に豊かな、きらびやかな文化文明を享受していたことにでもなっているのでしょう。19世紀末のソウルのみじめな有様を撮影した写真なども多数残っているにもかかわらず……。
 もちろん、銀行が収奪機関だなどというのは言いがかりもよいところで、本気でそう思っているなら韓国人はいまでも金融ということをまったく理解していないことになります。
 まあ、隣国が何をわめこうが、わが国の紙幣に誰の顔を刷るか決めるのに、いささかの遠慮も要りませんし、するべきでもありません。お札の顔にまで「近隣諸国条項」などが援用されては世も末です。
 そういえば津田梅子も、当時の朝鮮に関してはなかなか辛辣なことを言っているようです。福沢諭吉は有名な「脱亜論」を唱えた人であり、かつての千円札の夏目漱石は「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」(「満韓ところどころ」)と書いた人です。明治頃の知識人が朝鮮あたりにコメントしようとすると、どうしてもそんなことになってしまったのは、決して彼らが揃って「差別主義者」であったわけではなくて、それがどうしようもない李氏朝鮮の現実であったからとしか考えられないのでした。
 言い換えるなら、幕末〜明治頃の人物の誰を選んでも、韓国からのイチャモンは避けられないものと思われます。その時代の事実を言われること自体が、彼らにとっては屈辱なのでしょうから。
 といって、大正や昭和初期は併合期ですからもっとイヤでしょう。結局、国外からの雑音などは無視して構わないということにしかなりません。われわれは、自分たちが偉人だと思う人物を選んでゆけばそれで良いのです。

 肖像の人物は妥当だと思いますが、サンプル画像を見ると、「10000」などのフォントが何やら安っぽい気がしてなりません。漢数字が隅に追いやられたのはまあ仕方がないでしょうが、アラビア数字にもう少しカッコ良いフォントは無かったのでしょうか。
 色遣いも、若干ユーロ札みたいなけばけばしさがあるように思えます。まあ、そういうことはだんだん馴れるものでしょうが。
 世の中はキャッシュレス社会に向かっているのに、いまさら紙幣の更新など……という意見も眼にしましたが、私は必ずしもキャッシュレス社会がすぐに到来するとは思いません。韓国や中国などがキャッシュレスが進んでいるというので、日本はいつまでも現金主義で遅れているとけなす識者が多いのですけれども、キャッシュレス化が進んでいる国というのは、言い換えればキャッシュに対する信用が低いのです。偽造紙幣などが公然と出回っているので、現金を使わずに決済しようという気になるわけです。
 17年前にカナダに行ったとき、書店で100ドル札を出したら受け取ってくれませんでした。そっちに両替所があるから、少額紙幣に換えてこいというのでした。ドルと言ってもカナダドルですから、100ドルでもせいぜい6千円というところで、われわれから見ればさして高額紙幣でもありません。それでも店によっては受け取らないことを知ってびっくりしました。聞いてみると、やはり偽造紙幣を懸念してのことだったようで、なるほどなんでもクレジットカードで済ませるわけだと思いました。
 そういう社会であれば、キャッシュレスに移行する意味はありますし、早急に求められることでもあるでしょう。しかし、日本で壱万円札の受け取りを断る店などありません。紙幣に対する信用が非常に高いのです。それはつまり、紙幣を発行する日本銀行、および日本国に対する信用が絶大だという証拠でもあります。
 日本の工業技術の粋を集めたような紙幣印刷によって作られた紙幣は、ニセ札の製造がきわめて困難です。いや、ニセ札というのはどれほどの対策を講じても、必ず作れてしまうものですが、ただ日本のお札のニセ札を作るには大変なコストがかかります。ヘタをすると、額面以上のコストがかかってしまうかもしれません。こうなれば、ニセ札づくりに手を出す者など居なくなります。
 もちろん日本でもニセ札事件はそれなりに起こっていますけれども、諸外国に較べると件数はずっと少ないのでした。 

 キャッシュレスであっても、電子マネーにしろスマホ決済にしろ、それなりのリスクは伴います。磁気情報は書き換えが可能だし、他人の決済にジャミングやハッキングで介入することもできるでしょう。キャッシュとキャッシュレスと、どちらが危険が少ないかという評価の問題にすぎないのであって、日本でなかなかキャッシュレスが進まないのは、キャッシュにおけるリスクがそんなに大きくないと多くの人が思っているからにほかなりません。キャッシュレス化を進めるのが無条件に正義であるとは、私にはとても思えないのでした。

 新しい紙幣は、2024年からの流通だとか。ずいぶん早い時期に発表したものです。新元号が発表されて、人々の気持ちが何かあらたまったタイミングを狙ったのかもしれません。確かに、早くも楽しみになっている自分が居ることに気づきます。

(2019.4.13.)

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