忘れ得ぬことどもII

新元号決まる

 新しい元号が決まりました。今回は天皇陛下の崩御による大急ぎの改元ではなく、何年も前からご譲位のことが論じられてきただけに、新元号がどうなるかということが、普通に市井の話題として繰り広げられていたようです。いろいろな案が出されていて、そりゃ無いだろうと思われる失笑ものの案から、いままでの元号の統計をとってありそうな文字を推測したみたいなまじめな案まで、けっこう国民的な話のネタになっていた風があります。
 数日前にマダムが、
 「新しい元号、もうわかっちゃったみたいだよ」
 と、興奮して伝えてきました。どこかの銀行で「安明○年」という記載のある書類が表れたとのことです。しかし元号の決めかたとしては、ギリギリまでいくつかの候補に限定した中から、発表当日に決定するものであるはずで、数日前の時点ではまだ決まっていないだろうと思われました。それに本当に決定したものが流出したのだとしたら、その決定は確実に取り消されるでしょう。
 「安明」というのは、その銀行が改元した際のシミュレーションとして、仮に記載しただけだったということが、間もなく判明しました。
 「安」の字は悪くないとは思いますが、一部のおバカな連中が、安倍晋三首相の名前をごり押しするつもりだなどと騒ぎ始めていたので、たぶん無いだろうと私は思いました。政府の長に過ぎない総理大臣の名前などが元号の決定に考慮された例はいままで無く、平安時代など何百年にもわたって藤原氏が大臣位を独占し続けていても、藤の字も原の字もいちども元号には使われていません。バカも休み休み言って欲しいものですが、そんなケチがついている以上「安」は使われそうにありません。

 結果は、もうほとんどの日本人が知っているとおり、「令和(れいわ)となりました。官房長官が今日の11時30分に発表するという話だったのが、じらしにじらして、40分になってようやく登壇しました。皇居への道が混雑していて、陛下にご報告するのに手間取ってしまったからであるようです。
 いろいろ市井で出ていた案の、どれともまったく違った趣きであったのが笑えましたが、史上はじめて中国の典籍でなく、万葉集から採られた元号であったことは素晴らしいと思います。そういえば、漢籍でなく国書から採られるのではないかと予想していた人も居ました。その人はいわば大当たりであったと言えるかもしれません。

 ──初春ノ月ニシテ気淑ク風ギ梅ハ鏡前ノ粉ヲ披キ蘭ハ珮後ノ香ヲ薫ラス
   (しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす)

 という文章から「令月」の令、「風和」の和をピックアップして組み合わせたということになります。
 令月というのは、辞書によると、「何事をするにもよい月、めでたい月」というのが第一義になっています。旧暦2月の異称というのが第二義だそうですが、これは新暦で言えば3〜4月にあたり、要するに春を迎える月ということで、やはりめでたさを感じます。非常に佳い意味ですね。
 令の字が「命令」に含まれていることで、勘違いをしている向きもあるようですが、この場合の令の字は、「令夫人」「令嬢」「令名」などというときの令であって、まず美称でしょう。
 私からちょっとケチをつけるとすれば、「和」の字はついこのあいだの昭和で使われていた字なので、やや手垢がついた気配があること、それからラ行ではじまるのが微妙に違和感のある響きであることでしょうか。
 和語にはもともとラ行ではじまることばというのは無かったらしく、すべて漢語由来なのだそうです。歴代の元号を見ても、ラ行ではじまるのは非常に少なく、奈良時代に霊亀(れいき、715〜717)、鎌倉時代に暦仁(りゃくにん、1238〜1239)、南北朝時代に暦応(りゃくおう、またはれきおう、1338〜1342)があるばかりです。いずれも2〜5年程度の短い元号で、知っている人もあまり居ないでしょう。私もいま調べて知ったばかりです。
 せっかく国書を典籍にしたのに、日本語としてあまりなじまないような響きの名前になったのが、ちょっと残念ではあります。いっそのこと訓読みの元号というのもアリではないかな、などと考えています。

 無理筋のイチャモンをつける人というのはいつの時代にも居るもので、「平成」がはじまったときも、
 「『平成』という文字には『干戈(かんか)』が隠されている!」
 などと大騒ぎしていた手合いが居ました。干は楯のこと、戈は古代中国で使われた枝分かれした刃物のことで、合わせて武器を意味します。「干戈を交える」というような言い回しもあります。
 なるほど「平」の字の点々を消せば「干」になりますし、「成」の字の上から右あたりを見ると「戈」の字が見て取れます。まあ漢字遊びのたぐいではあるのですが、

 ──政府は、平成などという穏やかそうな元号の陰で、着々と戦争のための軍備を調えようとしているんだ。

 などということを本気で叫んでいた連中が、当時実在したのです。ネタとして言っていたわけではなく、彼らの血相変えた表情はまさに狂気そのものでした。
 「令和」にはそういう懸念は無いだろうと思いきや、上に書いたように令の字を「命令」と解釈して、

 ──平和は命令されるものではない!

 などと文句を垂れている向きが居るようです。さらに、
 「『令和』という文字には『アベ』が隠されている!」
 と言い張る輩が現れ、思わず脱力してしまいました。彼によると、「令」の下半分がカタカナの「ア」の字に見えるし、「和」のノギヘンの左はらいと右はらいを合わせて「ヘ」の字が見て取れ、さらに旁(つくり)の「口」の縦棒2本を濁点として見れば、「アベ」になるのだそうです。
 これもさすがにネタだろうと思いきや、これを報告したツイートはきわめてご立腹の様子で、
 「この新しい元号『令和』には、中にさりげなく『アベ』という文字が入っている! これは安倍晋三への忖度である!」
 といきまいているので、どうも本気であるらしく見えます。最近何事によらず、不都合なことはすべて安倍首相の陰謀と断ずる手合いが多く、客観的に見ていると本当に病気なのではあるまいかと思われるような言動が散見されます。この人もその口なのかもしれません。
 これから、さらに斜め上の難癖をつける手合いも現れるかもしれませんが、まあこちらはネタとして愉しんでいれば良いと思います。

 一時期多かった、元号なんか廃止してしまえという声は、今回はほとんど聞かれなかったような気がします。いや、そう叫ぶ人はそれなりに居たのかもしれませんが、とにかくさほど大きな声にはなりませんでした。
 元号を用いている国はいまや日本だけになっているということで、「だから日本もやめてしまえ」ということにもなるのかもしれませんが、逆に「だから日本にだけは残してゆこう」という根拠にもなります。30年前には「世界で日本だけ」云々というのは「孤立」を思わせてみんな不安を感じていましたが、現在では「世界で日本だけ」といえばむしろ「誇り」の対象になっているようです。人々の意識が変わってきたということでしょう。
 昔のように、数年ごとに縁起を担ぐように改元するような状態だと、紛らわしいのでやめてしまえという気にもなったかもしれませんが、いまは一世一元となり、どの元号もそれなりに長く続くようになりました。そうなれば、やはりある「時代」の色というものが、元号に即す形で感じられます。「明治」「大正」「昭和」「平成」と並べてみると、やはりそれぞれの時代のイメージというものがはっきりと印象づけられていることを実感します。
 英国などでも、元号こそありませんが、「エリザベシアン・エイジ」「ヴィクトリアン・エイジ」などと言えば、西暦の数字で区切るよりも時代色が印象づけられるようです。時代というのは、皇帝とか王様とかいう「人」に関連づけて憶えるのがふさわしいものなのでしょう。
 歴代の元号でも、だいたい20年以上続いたものは印象が強く、その時代の色をイメージしやすいということがあります。次の具体例を挙げれば、特に歴史に興味の無い人でも、なんとなく聞き覚えがあるのではないでしょうか。

 「天平(729〜749)」「延暦(782〜806)」「延喜(901〜923)」「正平(1347〜1370)」「応永(1394〜1428)」「天文(1532〜1555)」「天正(1573〜1593)」「慶長(1596〜1615)」「寛永(1624〜1645)」「享保(1716〜1736)

 天平は聖武天皇の御代、井上靖「天平の甍」で知られています。鑑真和尚が来日したりして、日本の仏教が血肉を備えたものになった時代です。延暦は桓武天皇の御代で、比叡山延暦寺で有名ですね。延喜は宮中格式の代表的なものである延喜式で知られています。
 正平だけはあまり馴染みがありません。南朝で使われていた元号なので、一般的でないという理由でしょう。
 応永は南北朝を合一した後小松天皇の御代です。李氏朝鮮軍が唐突に対馬を襲撃した「応永の外冦」が有名です。朝鮮はこの時期、ハングルを発明したとして最近やたらと持ち上げられている世宗の治世でした。正規軍1万数千で攻めてきたのに、対馬の現地勢に簡単に撃退されてしまったというしょぼい侵略です。
 天文は一般には知名度が低いかもしれません。織田信長の擡頭のちょっと前まで続いていた元号ですので、信長よりも年長の戦国武将、例えば斎藤道三今川義元武田信玄上杉謙信毛利元就などについて書かれたものを読んでいるとよく出てきます。また鉄砲伝来がこの時代です。いいご予算(1543)で鉄砲作ります、と語呂合わせで憶えた人も多いでしょう。
 一方、天正のほうは、ほぼ安土桃山時代と一致するので、非常にきらびやかな印象があります。慶長も豊臣政権から徳川政権に移る時代なのでイメージがしやすいですね。関ヶ原の戦いが慶長5年、大坂の陣が慶長20年ということになります。
 寛永は銅銭の寛永通宝上野寛永寺などで名前が知られます。島原の乱は寛永14年です。享保はなんといっても徳川吉宗享保の改革ですね。
 明治天皇の御代に、一世一元の詔が出たわけですが、明治天皇ご自身は慶応と明治のふたつの元号を使いました。従って一世一元となったのは大正天皇からです。
 明治の45年というのはそれまでの元号で最長であり、昭和の64年がそれを塗り替えました。これ以上長い元号は、今後も現れるかどうかわかりません。国民の長寿化とともに天皇も長命となり、皇太子が践祚する頃にはすでに50代60代というのが普通になるでしょう。80を過ぎるとさすがに任に堪えなくなり、譲位するというのが通例になるかもしれません。今回のご譲位は表向きは今回限りの特例とされていますが、こういうことはいちど前例ができると、わりと簡単に踏襲されてしまうものです。そうすると、今後はひとつの元号の長さはせいぜい20〜30年くらいということになりそうです。20年でもけっこう印象深くなりうるのは、上に挙げた20年組の元号でおわかりでしょう。

 日常的に西暦と元号を併用するのは確かに不便かもしれません。昭和のときは末尾の数字が5違いだったので換算しやすかったのですが、平成何年が西暦何年になるのかは、私もちょっと考えないと結びつきません。こんどの令和の年号が平成で言えば何年なのかは、30を足せば良いだけなのでわかりやすいのですけれども。
 しかし、だからと言ってどちらかを廃止する必要はありますまい。日本という国は、何かを採り入れたからと言って必ずしもほかの何かを捨てることなく、なにごともふわっと残してきて、その中で多くの人に顧みられなくなったことは廃れてゆくという、ごく幅の広い、悪く言えばいい加減な国柄です。元号のほうが時代の色をイメージしやすい、と思っている人が多いうちは、無くすことはないと思います。外国と関係したり、コンピュータ上のことだったりならば西暦のほうが便利なのでそちらを使う、ということで良いでしょう。まなじりを決するように「元号押し」するのも、何か違う気がします。
 平成の時代は、干戈が隠されていたにしてはどことも事を構えず、平和に過ぎました。もちろん大災害や、オウム事件のようなテロは起こっているので、平和ではあっても平穏とは言えません。経済的には冷え込みが目立ちました。「失われた20年」はすべて平成のうちです。残念ながら明色か暗色かといえば後者に近かったかもしれません。しかしとにかく、明治以来はじめて、どことも戦争をしない時代ではありました(大正時代には第一次世界大戦に参戦しています)。
 「令和」には、「春来たりなば」という意味合いが含まれていると思います。過ぎたときに、暖色でイメージされる時代になることを祈ります。

 ひとつだけ懸念があるのですが、「令」というのは活字体で、手書きするときは私たちはたいてい、下半分を「マ」のように書きます。元号をそんな俗字で書いて良いのかな、と若干気になります。「マ」にしたら役所で受け取りを拒否されたりはしないですよね(笑)。

(2019.4.1.)

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