忘れ得ぬことどもII

『続・TOKYO物語』制作記

I

 『TOKYO物語』という本を出したのはもう20年以上前のことになります。本になる前、共立女子大の合唱団から依頼されて構成・編曲をおこなったのはそのさらに数年前で、数えてみるとちょうど四半世紀前ということになります。
 昭和20年代のナツメロのメドレーで、しかも女声二部合唱という編成であったのがお手頃だったのか、この本はやたらと売れました。すでに50刷以上を重ねています。最近は1回に刷るロットが少なくなってきましたが、それでも全部合わせれば2万冊くらいは出ているのではないかと思います。
 昭和39年生まれであった私でも知っているような歌を選んだので、リアルタイムで聴いた世代以外にも受けているとは思いますが、さすがに四半世紀も経つと、歌う側よりも、聴く側にとっての「懐かしさ」が若干低下してきているかもしれません。
 早い話が、当初は『TOKYO物語』を、たとえば老人ホームなどで歌うと涙涙で大受けしていたわけなのですが、いまの老人ホームの入居者の年代を考えると、このメドレーに含まれている歌をリアルタイムで聴いた世代よりも、すでに少し下になってきているように思われます。
 昭和20年代の歌謡曲をリアルタイムで聴き、そこに懐かしさを感じる世代といえば、昭和10年代生まれ、あるいは昭和ヒトケタというところでしょう。昭和12年生まれの私の父が今年82歳になりますので、そろそろギリギリというあたりになりそうです。もう10年もすれば、『TOKYO物語』に収録された歌は、もともとナツメロとして知っているという世代が大部分になるでしょう。

 そんなこともあり、

 ──続篇があればいいのに。

 という声が、ちらほらと聞こえてくるようになりました。
 『TOKYO物語』の次の世代、言い換えれば昭和30年代あたりの歌を集めたメドレーがあれば歌いたい/聴きたいという意見が出てきたわけです。
 私の耳にも入りましたが、編曲を自主企画でやるつもりはありません。
 自分の関わっている合唱団の演奏会などのために、こちらの発意で編曲するということはしょっちゅうですが、漠然と「あればいいのにねえ」という声が入っただけでは、あまり動く気にはなれないのです。
 マダムも知り合いの合唱指揮者からそんな要望を聞き、

 ──なら委嘱してよ。

 と思った……と言っていましたが、要はそういうことなのであって、演奏の保証のない編曲を、しかも編曲料無しでやっているような余裕は無いのでした。「あればやるのに」程度の声がいくら聞こえてきても、当方のモチベーションにはなりにくいのです。
 続篇が欲しいなら委嘱したらどうだ、と私も思っていました。しかしそういう奇特な合唱団はなかなか現れず、時が過ぎました。

 それが去年の暮れ近くなって、急に続篇委嘱の話がまとまりました。
 『TOKYO物語』の委嘱は、上に書いたとおり共立女子大の合唱団でしたが、刊行のきっかけになったのは、磯辺女声コーラスという合唱団により再演されたことでした。これが当時カワイ出版の編集長であった山澤重雄さんの眼に止まって、出版されることになったのです。タイミング的に終戦50年(1995年)内の刊行に間に合わず翌年になってしまったのを、山澤氏が大変残念がっておられたということをあとで聞きました。
 その磯辺女声コーラスが、今年の9月に開催する演奏会で、ひとステージ分の選曲がまだ決まっていなかったというのでした。磯辺の指揮者でもある清水雅彦さんが、Chorus STの練習であれこれとだべっていたときに、なんの話からであったか、やはり「『TOKYO物語』の続篇でもあるといいねえ」というような話題が出て、その場の流れで「よし、磯辺で委嘱しよう」と盛り上がってしまったのでした。とはいえ指揮者といえども独断で委嘱のことまで決めることはできないようで、その次の磯辺の練習があったのちに正式な委嘱のメールが届いたのでした。
 Chorus STでの話の流れとしては、確か、まず女声版を磯辺女声コーラス初演という形で発表し、そして来年予定されているChorus STの30周年記念演奏会において混声版を初演しようじゃないか、ということになっていたのだと記憶しています。実現の可能性はかなり高いし、両方の版を出版に持ってゆくことも希望が持てます。
 そんなわけで、私は急遽、『TOKYO物語』の続篇、仮題『続・TOKYO物語』を制作することになりました。締め切りの目安は、磯辺女声コーラスでの練習にかかる期間を考慮した上で、今月いっぱいということになったわけです。

 編曲そのものにはそんなに時間がかかるとも思えませんでしたが、問題は選曲です。どんな歌を収録すれば良いのかを考えるのに、けっこう手間取りました。
 前の『TOKYO物語』(以下、「正篇」と書きます)の選曲については、本の前書きにも書いてありますが、共立女子大の学生から
 「『銀座カンカン娘』を歌いたいって子がいまして。そのあたりでお任せします」
 と、1曲だけ指定された状態でほぼ丸投げされたのでした。私はやむなく手元の歌謡曲集をひもとき、「昭和20年代の」「東京を舞台とした」「女性にかかわる」歌を目次からピックアップしました。これはいずれも「銀座カンカン娘」の属性でもありました。そのくらいの縛りをかけないと、茫漠としてつかみどころが無かったのです。
 厳密には、この3つの条件を完全に満たすのは、収録曲の中では「銀座カンカン娘」の他、「東京の花売り娘」「星の流れに」「君の名は」くらいです。実はこの3曲は、知名度という点ではさほど高くありません。「君の名は」はドラマとしては有名ですが、主題歌をナツメロとして親しんでいるというほどの人はそんなに多くないでしょう。聴けば「ああ、こんなのだった」と思い出すかもしれませんが。
 それで、戦後歌謡の代表と言える「リンゴの唄」「青い山脈」は入れることにしました。「リンゴの唄」はまあ全国どこでも通用しそうです。いまやっている朝ドラ「まんぷく」でも、戦後すぐの場面でしょっちゅうこの歌が流れました。「青い山脈」のほうは東京ではなく地方都市のイメージがありますが、まあ戦後という時代を象徴するような歌ではあります。
 それから東京というキーワードがそのまま用いられた「東京ブギ」。歌っているのが笠置シズ子ということで無理矢理「女性」にも関連づけました。また、確か初演のときはヴァイオリン独奏が加わるという話だったので、この曲で使ったのでした。刊行されている正篇でも、「東京ブギ」の途中でかなり長いピアノソロが入りますが、あそこがヴァイオリン出演のなごりです。
 あと、戦後歌謡といえば美空ひばりを入れなければはじまらないだろうと思い、ひばりナンバーの中から明確に「東京」を想起できる「お祭りマンボ」を採用したのでした。
 「締め」には「ここに幸あり」が良いと考えたのですが、これは昭和31年の歌です。ちょっとコンセプトから外れるため、この曲には「エピローグ」と副題をつけました。
 この正篇のコンセプトをそのまま受け継ぐということをまず考えました。つまり、「昭和30年代の」「東京を舞台とした」「女性にかかわる」歌です。ただ、今回はすぐに混声版を作る予定もあり、「女性」はあまり強調しなくても良いかもしれません。
 正篇のときに使ったのと同じ歌謡曲集をひっぱりだし、今度は昭和30年代の歌をピックアップしてみました。この歌謡曲集、それこそ続篇も何冊か出ているのですが、メドレーに採り上げるほどの歌であればこの第1巻から選んで間違いはなかろうと考えたのです。
 すると、いささか「どうしようか、これ」と思えるラインナップになってしまったのでした。
 というのは、この年代のヒット曲というと、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」が圧倒的すぎるのです。この2曲を外すことはとてもできそうにありませんが、どちらも特に東京に関わった歌ではありません。しかもどちらも永六輔の作詞で、坂本九が歌いました。作者やアーティストはできれば分散させたい気がするのですが、片方を落とすということはできそうにありません。しかも「女性に関わる」ところで「こんにちは赤ちゃん」も採用したいのですが、これまた永六輔で、しかも「上を向いて歩こう」と同じく中村八大の作曲です。
 まあ、その点はやむを得ません。六八コンビがその時代の巨大ヒットメーカーであったことは争えないのです。ただ、これらの曲は、私は過去に何度もいろんな形で編曲したことがあり、正直「またかよ……orz」と思わないでもないのですが。
 その他の曲が迷います。いちおう、全体のストーリーのようなものはイメージしており、それに沿って選曲したいと思うのですが、案外思ったようにはゆきません。特に、年代順に並べるというのは困難そうです。
 「有楽町で逢いましょう」を入れることは早くから決めていました。これは題材的にも『TOKYO物語』に欠かせないでしょう。ただ同じように採用を考えていた「銀座の恋の物語」昭和42年の歌で、微妙に続篇の年代を外れてしまっていたのは計算違いでした。そうすると「有楽町」も浮いてしまいそうでしたが、調べてみるとこの歌は有楽町そごうが開店するときにキャンペーンソングとして作られたということを知り、闇市などがひしめいていた界隈が生まれ変わるきっかけとなったものとして扱うことにしました。
 これがいわば時代の「光」の部分として、「陰」の部分も採り上げてみたかったので、「ガード下の靴みがき」を入れることにしました。歌としてはかなりマイナーですが、まあ正篇の「星の流れに」枠といったところです。ねむの木学園宮城まり子が歌っていたことに驚きました。
 これで5曲。あと、この時代の東京住人のライフスタイルの変化、総サラリーマン化とか核家族化、団地住まいへの憧れといったものを象徴する歌が欲しかったので、「おーい 中村君」「下町の太陽」を入れました。どちらも当時は大ヒットしたのですが、憶えている人は案外少ないかもしれません。「おーい 中村君」は、私に中村くんという友達ができるたびに、母が歌っていた(最初の部分だけですが)ので、なんとなく印象が残っていたところがあります。
 サラリーマンといえば、この年代のメガヒットである「スーダラ節」もぜひ採用したいところでしたが、残念ながら全体の流れにうまくかみ合わなかったので、却下せざるを得ませんでした。
 あとは「東京」ネタをなんとか拾いたかったので、探してみました。「東京だよおっ母さん」はなんとか使えそうです。歌詞の中に二重橋浅草といった地名が詠み込まれているのもポイントが高いところでした。昭和32年という比較的早い時期の歌であることもあり、この歌を冒頭に持ってくることに決めました。
 もうひとつ、「ウナ・セラ・ディ東京」も採用しました。こちらは昭和39年、続篇の舞台とする年代ではいちばん後期です。
 このほか、ピックアップした中には「東京」を冠した歌として「東京のバスガール」「東京ナイト・クラブ」がありましたが、いずれもどうも全体の流れに乗せることができず採用できませんでした。
 ここまでで9曲選びました。曲数としてはまあこんなところでしょう。正篇も9曲でした。
 少々意外だったのは、この時代、それこそ美空ひばりが全盛期だったと思われるのに、1曲も入っていません。そもそも昭和30年代としてピックアップした中にも、「港町十三番地」「哀愁波止場」の2曲しかなかったのです。ひばりナンバーとしては、昭和20年代のほうがはるかに印象的なものが多かったようです。「港町十三番地」はなぜかマダムが知っていて推していたのですが、これは将来もしかして『YOKOHAMA物語』でも作るとすれば採用できそうですけれども、残念ながら東京のイメージではありません。
 「喜びも悲しみも幾歳月」「高校三年生」あたりも時代色を色濃く映して、没にするのは惜しいのですが、これも流れの中にうまく組み込めませんでした。
 底本には載っていませんでしたが、小林旭「恋の山手線」というコミックソングがあります。山手線の駅名を、あるときは巧みに、またあるときは強引に詠み込んでいて、まさに「TOKYO」という感じなのですが、これもメドレーに入れると浮いてしまいそうです。

 さて、選曲ができたところで、配列と、それから導入を考えなければなりません。採用した9曲を年代順に並べてみるとこうなります。

 ・ガード下の靴みがき(30年)
 ・東京だよおっ母さん(32年)
 ・おーい 中村君(33年)
 ・有楽町で逢いましょう(33年)
 ・上を向いて歩こう(36年)
 ・下町の太陽(37年)
 ・こんにちは赤ちゃん(38年)
 ・見上げてごらん 夜の星を(38年)
 ・ウナ・セラ・ディ東京(39年)

 正篇のほうは、年代順に並べるだけでけっこうストーリーが動いたのでしたが、こちらはそうはゆかなさそうです。上に書いたとおり、「東京だよおっ母さん」を最初にし、時代色のあまり無い「見上げてごらん」を最後に持ってくることにしました。「有楽町」と「ガード下」を30年代前半の明暗を示す組み合わせとして2曲目、3曲目に置き、「上を向いて」はいわば「東京ブギ」枠として4曲目にして前半を締めます。
 ライフスタイルの変化という意味で「中村君」(サラリーマン)と「下町」(団地暮らしを夢見る工場労働者)を対比させ、総括のように「ウナ・セラ」を置きます。「赤ちゃん」はこれもライフスタイルグループに入れて良かったのですけれども、ただ「ウナ・セラ」と「見上げてごらん」を続かせると、テンポ的にいささか退屈と思われたので、「未来へとつなぐ」というような意味を込めてラス前に置きました。
 というわけで、配列は次のようになります。

 ・東京だよおっ母さん
 ・有楽町で逢いましょう
 ・ガード下の靴みがき
 ・上を向いて歩こう
 ・おーい 中村君
 ・下町の太陽
 ・ウナ・セラ・ディ東京
 ・こんにちは赤ちゃん
 ・見上げてごらん 夜の星を

 ところが、「おっ母さん」はいわゆる演歌のカテゴリーに属する歌です、メドレー全体の始まりをこの歌の前奏で演歌調にしてしまうと、ちょっと違うかな、と思えました。それで正篇に倣って、「前奏曲」をつけることにしました。
 この前奏曲ではたと困りました。正篇では、「戦後」という時代を導き出す要素として、東京を焼き尽くした「空襲」のイメージがすぐに湧き、不安を呼び起こすような空襲警報めいたハミングコーラスが、わりにあっさりと書けたのでしたけれども、続篇で、30年代を導き出す前奏曲とはどんなものだろうかと悩んでしまったのです。いっそのこと正篇のエピローグとして置いた「ここに幸あり」を引用しようかとも考えました。実際それで少し書きかけたりもしたのですが、やはりうまくつながってくれません。「三丁目の夕日」に倣って「ゴジラ」ではじめたりするのもちょっとあんまりです。
 昭和30年代というと、経済成長、東京タワー、オリンピック、新幹線……などと連想の糸を伸ばしてみて、要するに人々がはつらつと未来を信じられた時代であったという気がしてきました。そうすると、むしろ元気が良い前奏曲がふさわしいかもしれません。ふと思い立って、ラジオ体操がいつからはじまったのかを調べてみると、作られたのは戦前でしたが、いまの形の「ラジオ体操第一」が制定されたのは昭和26年と判明しました。「第二」は翌年です。してみると定着したのは30年代に入ってからかもしれません。
 それで、ラジオ体操っぽい、従っていささか「野暮ったい元気さ」を持つ曲調の前奏曲ではじめることにしました。正篇とはうって変わった感じですが、これはそのままメドレー全体のコンセプトの差でもあります。
 また、調性は正篇のラストと同じニ長調に設定しましたので、その気があれば正篇と続篇をつなげて演奏することもできます。35分くらいかかる大がかりなステージになりそうですが。

 前奏曲ができてしまうと、あとの編曲作業は楽なものでした。二部合唱に過ぎないのであんまり頭は使いません。ただなるべく下のパートにも主旋律を割り振りたいと思い、そこだけは工夫が必要でした。
 それでも全部で400小節ほどの長いメドレーですので、時間はかかりました。
 あと、ナレーションもつけなければなりません。正篇が売れたのは、ナレーションの存在も大きかったと思われます。本来、女子大生に対して、時代背景を説明するために楽譜に書き込んでおいた、単なる注意書きだったのですが、演奏にかぶせて朗読してみると案外効果的だったので、出版するときにもそのままつけておいたのです。右にも左にもできるだけ偏らないように、ことにあからさまに反戦的な言辞を用いないように気をつけたのも良かったのでしょう。
 そうなると、当然続篇にもナレーションが期待されることになります。配列にあたって、ストーリーの設定はしてあるので、内容的に煮詰まることはありませんでしたが、朗読したときにある程度の感動が得られるようにはしたいので、言葉選びには少し配慮しました。
 制作はほぼ大詰めです。「見上げてごらん」の前半までは終わっており、ナレーションはすでに完結しました。あとは終わりかたをどうするかです。
 さて、この続篇が、正篇と同じように受けるものかどうか。これらの歌は、私が生まれる直前までのヒット曲ですから、私より10〜20歳くらい上の人々がリアルタイムで愉しんだことになります。彼らに懐かしさを感じて貰えるでしょうか。
 ちょっと心配なのは、この時代になると、昭和20年代のように「全国民的ヒット」ということが案外無くなってきて、演歌ファン、ポップスファン、ジャズファン、海外曲カバーファンといったように、好みが細分化されてきたのではないかということです。実際のところ、自分自身の好みを考えてみると、圧倒的に「'70年代フォーク」およびキャンディーズあたりがどストライクであり、同じ時代のポップスや演歌はあんまり知らない気がします。この点を考えると、正篇ほどの広範な人気は得られないかもしれないと思えます。
 そしておそらく『TOKYO物語・昭和40年代版』を作ることは無いでしょう。昭和40年代になると私自身が生きて記憶のある時代であり、生まれる前の20年代・30年代と同じような、ある意味突き放した態度での選曲はできそうにありません。自分自身の追憶としての「好み」が反映されてしまうと思われます。「続々篇」は、もっと若い世代の作曲家に任せることにいたします。
 むしろ今後作るとすれば「戦前篇」でしょうか。すでに「TOKYO物語・補遺」と称した「東京ラプソディー」は編曲済みですし、「いっそ小田急で逃げましょか」の「東京行進曲」、「ラーメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ」と意味不明な囃子言葉の入った「東京節」、盆踊りの定番「東京音頭」など、東京ネタだけでも面白い歌がたくさんあります。なお「東京ラプソディー」を「補遺」としたのは、正篇を制作中に、藤山一郎氏の訃報が伝わったからで、追悼の意味で、これは自主的に編曲しました。共立では残念ながら歌われませんでしたが、他の合唱団で歌われたことはあります。
 また上にちょっと書きましたが、『YOKOHAMA物語』など他の都市をテーマにしたものも面白そうですね。まあ、メドレーが成立するほどの数の歌がある都市は限られているでしょうが。

(2019.1.26.)

II

 『続・TOKYO物語』という歌謡曲メドレーを作ったのは今年の1月ですが、その初演が近づいてきました。初演は、このメドレーの委嘱合唱団という形になっている磯辺女声コーラスです。
 この合唱団、「正篇」と呼ぶべき前の『TOKYO物語』の出版のきっかけになってくれたところでもあります。正篇のほうの初演は共立女子大学の合唱団なのですが、磯辺女声コーラスで再演した際にカワイ出版の元編集長である山澤重雄氏が聴きに来てくれていて、鶴の一声と言うべきか、とんとん拍子に出版の話が決まったのでした。
 『TOKYO物語』がバカ売れと言って良いほどのベストセラーとなったので、今度の『続・TOKYO物語』もわりにすんなり出版の話がまとまりました。普通は初演を済ませてから、その音源を編集会議に持って行って検討するという手順なのですけれども、今回は初演と刊行のタイミングを合わせることになりました。たぶん、初演のときに演奏会場のロビーで刊行ほやほやの本が販売されるということになるのではないかと思います。
 さて、その初演で、私自身がピアノを弾くことになっていました。
 実を言えば、私は自分の作品を自分で演奏するというのはあまり好きではありません。自作自演というのは、いわば演奏が「作曲者の発想」の枠内に収まってしまうということでもあり、面白くないように思えるのです。作曲家の書いた音と、演奏者の受け取った音との化学反応みたいなものがあって、演奏というのははじめて輝きを放つ行為となるのではないでしょうか。
 ごく稀なこととはいえ、作曲者自身が思ってもいなかったような作品の魅力を、演奏者が引き出すなんてこともあります。私がよく引き合いに出す、フィンランドの作曲家ラウタヴァーラピアノソナタ第1番を、親友でもあった舘野泉氏が初演したときの話が好例でしょう。舘野氏はこのソナタの終楽章を、ラウタヴァーラが指定したテンポの倍の遅さで弾き、それを聴いていた作曲者は思わず知らず感動して涙を流していたというのです。初演後、ラウタヴァーラはためらいなく終楽章のテンポ指定を書き直しました。
 こんな例は本当に稀ではありますが、それでも絶無ではないだけに、私もついつい期待してしまうのです。自作自演の場合はこんなことは決して起こりません。

 とはいえ、いろんな事情で自分が初演に加わることも少なくありません。Chorus STで初演した作品などは、私は「合唱団の一員」として参加しているわけで、これはこれで楽しくないこともないのです。まあ「合唱団の一員」であれば、演奏の全体を支配しているわけではなく、指揮者がいろいろ引き出してくれるのに乗っかっていれば良いわけですので、いわゆる自作自演というのには当たらないかもしれません。
 合唱曲の場合は、自分で指揮をするならば自作自演に近いでしょう。
 伴奏ピアノを弾くのはどうでしょうか。指揮者のスタンス次第かもしれません。
 いずれにしろ、『続・TOKYO物語』は、私の「作品」ではなく「編作」に過ぎませんので、上記のようなこだわりはそれほど持ちません。頼まれたのなら受けるという、その程度の感覚です。ただ刊行される場合、初演データ欄に名前が出るのは若干気はずかしいかな、と思わないでもありません。
 来月の初演は、磯辺女声コーラスの第18回演奏会でもありますので、歌う曲はたくさんあります。その中の1ステージを『続・TOKYO物語』に宛ててくれるわけです。これにばかり集中するわけにもゆきませんので、私が伴奏合わせにゆく機会も少なく、2回のリハーサルで本番ということになっています。
 その第1回目が今日でした。
 磯辺女声コーラスは千葉市美浜区あたりを拠点にして活動している合唱団です。今日の練習場所は真砂コミュニティセンターというところで、最寄り駅はJR京葉線検見川浜、次いで総武線新検見川京成電鉄千葉線検見川というところです。
 いちばん近い検見川浜でも、駅からは徒歩十数分かかりそうなので、大事をとって2時間くらい見たほうが良さそうです。練習は10時からなので、8時に家を出ました。
 今日はこの夏いちばんの暑さらしくて、37度くらいまで上がると聞いていました。そう聞くだけでもうんざりして汗が出てきそうです。しかし、朝8時くらいでは、まだそんなに暑さはひどくなかったのでほっとしました。直射日光が当たると充分暑いのですが、日陰を歩く分にはむしろさわやかさを感じるくらいです。風が吹くと涼しささえ覚えました。
 小学生の頃、夏休みの心得として、
 「午前中の涼しいうちに勉強を済ませましょう」
 みたいなのがありましたが、近年は午前中から暑くて勉強する気にもなれません。まあ昔と違ってエアコンが行き渡っていますので、最近はそんなことも言われないのかもしれませんが。なんにしろ、8時頃ならまだましで、10時になるともうダメでしょう。エアコン抜きで勉強をするなら、朝の4時から7時くらいを推奨しないといけないのではないでしょうか。
 京浜東北線の電車に乗ります。ふだんの8時なら、土曜といえども相当にラッシュ状態でしょうが、夏休み中ということでそれほどでもありません。そのまま東京まで乗って行っても良かったのですが、赤羽上野東京ラインに乗り換えます。少し早く着けます。
 例によって無駄に長い通路を歩いて、京葉線乗り場へ。ここは本来、予定されていた成田新幹線の駅スペースを活用したものですが、それにしても他の路線の乗り場から遠すぎです。責任者出てこい、と言いたくなる設計です。
 快速電車に乗ると、かなり混んでいました。こちらは朝の下り電車ですので、ふだんだったらもっと空いているのかもしれません。ネズミの国に行く人が多いのかな、と思いましたが、舞浜ではほとんど下車客が居ません。ネズミの国の開園時刻はもう少しあとだったかもしれません。
 乗客の大半が下りたのは海浜幕張でした。幕張メッセで何かイベントがあったのかもしれません。ようやく坐れましたが、次が下車駅である検見川浜です。
 すでにだいぶ暑くなりました。検見川浜駅前のロータリーはがらんとしていて、そこにイヤになるほど燦々と陽光が降り注いでいます。できる限り日陰を伝うように歩きました。
 少し時間があったので、開いていたショッピングモールのイートインコーナーで朝食をとってから、真砂コミュニティセンターに向かいました。
 明らかに、もとは学校だったと思われる建物でした。このあたりでも生徒数減少で、学校の統廃合がおこなわれているようです。都心では珍しくない光景ですが、このあたりは本来埋め立て地であって、住民が増えたのだってそう昔のことではないはずです。当然、学校もさほど古くはないでしょう。それが早くも統廃合されて公民館化しているところに、少子化の予想外の勢いを感じます。

 3時間ばかり、リハーサルに付き合いました。合唱団のかたがたはこれがはじめての「伴奏付き」練習だったわけです。一方、私のほうも生の声でこの曲が歌われているのを聴くのははじめてです。
 実のところ、歌無しでピアノだけ弾いていると、なんとなく「薄い」気がして、これは少々物足りない響きだったかな、などと思ったりもしたのですが、合唱が入れば決してそんなことはなく、安心しました。私は自分のスキルをもう少し信じてやるべきなのかもしれません。歌う側がもうほとんど最終調整段階に入っていたためでもあるでしょう。今日の練習で暗譜をしてしまうように、と指揮者の清水雅彦さんが繰り返し指示していました。ちなみに磯辺女声コーラスは、現在清水さんが指導している合唱団の中ではいちばん古株です。
 古株だけに長い歴史を持ち、従ってメンバーの入れ替えなどもだいぶあったようです。私は20年ほど前ごろまでにはけっこう顔を出すことも多かったのですが、ずいぶんご無沙汰していたので、初対面という団員がずいぶん居ました。
 そして、『続・TOKYO物語』で扱った、昭和30年代のヒット曲がドンピシャという世代が多いらしいのでした。これはやはり、多くの合唱団に喜ばれる企画だったのではないかと思います。
 今日の練習では、『TOKYO物語』名物の「ナレーション」は入りませんでした。今日、通しで歌った録音をナレーターに渡して、ペース配分などを考えて貰うのだとか。来月はじめにある第2回のリハーサルのときに合わせるようです。いちおうfinaleのプレイバックに合わせて私自身でしゃべってみたので、時間が足りないとかいうことは無いと思いますが、間をとったり、感情たっぷりに読んだりすると間に合わない可能性もあります。私の好みとしては、正篇の頃から、ナレーションはわりと坦々と、昔のNHKアナウンサーのような口調とペースで読んで貰いたいと思っています。ともあれ、合わせが楽しみです。

 帰りは団員がクルマで送ってくれるというので、検見川浜ではなく、京成の検見川まで行って貰いました。広い駐車場に出ると、この夏いちばんという熱射が照りつけてきました。気温が体温を上回り、風が吹くとかえって暑いという状態になっているようです。クルマに乗って冷房が効いてくるまでは息苦しいほどでした。
 京成の検見川駅は、どこのローカル私鉄の駅かと疑われるような貧弱さでした。駅前にロータリーはありますがおそろしく小規模で、クルマが3、4台も入ってきたら身動きが取れなさそうです。
 検見川浜から京葉線だと、また東京駅のクソ長い通路を戻るか、あるいは南船橋で武蔵野線電車に乗り換えるという手もありますが、本数が少ないので暑い中待たされるおそれがあります。いっぽう新検見川から総武線というのは必然的に各駅停車となるのでちょっとうんざりします。途中を快速に乗るという手は、総武線が列車別複々線であるため、快速に乗るのも、その先で秋葉原に行くためにまた各停に乗り換えるのも、いちいちプラットフォームの階段を上り下りせねばならず、この暑い中ではやっぱりイヤです。
 その点京成だと、京成津田沼で本線への乗り換えはあるもののごく小規模な感じだし、その京成津田沼では本線電車は頻繁に来るので待つこともないし、特急や快速もじゃんじゃん走っています。そして山手線への取り付きが日暮里なので、家に近いということもあります。私は列車に乗る場合に遠回りをいとうものではありませんが、こう暑いと私といえどもさっさと帰りたい気分がまさります。
 それで検見川に送って貰ったわけですが、なんと、運賃も150円くらい安く済んだので驚きでした。このルートは、京成とJRの2社にまたがるので、加算運賃で高くなりそうなものですが、川口からそのあたりまでになると、JRの距離対運賃の上がりかたのほうが急速であるようで、検見川浜でも新検見川でも800円(IC運賃でも799円)かかります。いっぽう京成〜JRと乗り継ぐと、合計660円(IC運賃で645円)で済むのでした。これほどの違いがあるとは私も驚きました。

(2019.8.17.)

III

 千葉県内が大規模停電で大変なことになっていますが、今日(2019年9月14日)は千葉の合唱団・磯辺女声コーラスの演奏会がありました。私の『続・TOKYO物語』の初演がおこなわれます。
 千葉のどのあたりがどうやられているのか、詳細はよく知らないのですが、とりあえずマダムの実家のあるのあたりは問題ないようです。松戸・柏・我孫子・野田などのいわゆる東葛地域は被害を受けていないのでしょう。
 報道を見ると、千葉県であるばかりか千葉市内のナントカ区が停電しているというような状態で、東葛地域を除けば、県北・県南を問わず被害を受けている場所と受けていない場所が混在しているようです。
 磯辺女声コーラスが活動拠点としている美浜区に関しては、停電地域リストには載っていないようで、実際、被害を受けたという報告は、指揮者の清水雅彦さんのところにも来なかったようです。
 いっぽう、演奏会場である千葉市文化センターのある中央区も無事でした。そんなわけで、演奏会は予定どおり開催されることになりました。全県的に混乱している中、演奏会がつつがなく開けたのは、なんだか申し訳ないようでもあり、また神様が味方してくれたようでもあります。合唱団にとってはもちろん幸運でしたが、私個人の受け止めかたとしては、神様が『続・TOKYO物語』の初演を妨げずに道を開いてくれたと考えても良さそうで、作品の幸先良い出発をことほがざるを得ません。
 実は、初演会場で楽譜の販売もやって貰えるようカワイ出版の編集者に頼んでおいたのですが、物販をするならホールの使用料金を2倍近くに上げさせて貰うと言われて断念し、むしろ幸先が悪いなあと思っていたところだったのです。
 まずは祝福された出発になったことを嬉しく思いました。

 演奏会はよくあるように4部構成で、『続・TOKYO物語』はその最終ステージとなっていました。ホールリハーサルはステージの順におこなうとのことで、最終ステージのリハーサル開始時刻は12時過ぎということになっていました。
 私は当日ピアノを弾くことになっていたので、まあ正午までに楽屋入りしていれば良いようなものでしたが、ある作業を頼まれていたので、1時間前の11時くらいには着くつもりで居ました。
 日暮里京成に乗り換えて行くつもりです。2回ばかりリハーサルに立ち会った経験から、千葉へはJRだけで行くよりも、京成に乗り換えたほうが相当安いということがわかっていました。また、会場の千葉市文化センターは、JRの千葉駅からも歩けますけれども、京成の千葉中央駅のほうがずっと近いのでした。最寄り駅は千葉都市モノレール葭川公園ですが、京葉線側から行こうとするのでない限り、モノレールの利用はあまり現実的ではありません。千葉駅で乗り換えるのだと、モノレールは一旦ぐにゃりと迂回してから向かうので、待ち時間なども勘案すると、そのあいだに徒歩で着いてしまうようなことになりかねないのでした。
 千葉中央駅ならそのような懸念はありません。京成千葉線の電車は、全便千葉中央までは行くので、千葉駅で下りずにもうひと駅乗ればそれで済みます。
 とはいえこのルートで行ったことがないので(帰ってきたことはある)、いちおう乗り換え案内をチェックしました。JRだけで(総武線で)行くのに較べると、運賃は安いものの時間は若干かかるようでしたが、徒歩時間まで考え合わせると、ほぼ大差ないようです。
 千葉中央駅に10時45分に着けるよう設定して検索すると、川口を9時26分に発てば良いらしいとわかりました。
 うちから川口駅に行って電車に乗るには、おおむね10分見ています。駅舎までは7分くらいで到達できると思いますが、そこから改札を通って階段を下りて……となると、駅の混みかたにもよりますが10分くらいは見ておかないと厳しいようです。
 ところが、出かける準備に思ったより時間がかかり、家を出たのは9時18分になっていました。かなり早足で歩き、扉の閉まる直前の電車に駆け込み乗車をしてかろうじて間に合いましたが、今日はそんなに気温も高くないのに、ここまでだけで汗びっしょりです。
 日暮里では普通電車を1本見送ってから快速に乗りましたが、京浜東北線の電車を1本送らせてその快速に乗れたかどうか、微妙なところです。
 そういえば京成の快速に乗るのははじめてです。そんなにレアな便ではないのですが、どういうわけか乗る機会に恵まれず、いつも特急に乗ってしまいます。かつての急行よりいくぶん停車駅を絞っており、京成津田沼までだと、特急より4駅余計に停まるに過ぎません。お花茶屋市川真間などの旧急行停車駅は通過になっています。走りっぷりもなかなかのものでした。
 私の乗った快速電車が京成津田沼駅に滑り込むのとほぼ同時に、新京成線のほうから千葉中央行きの電車が入ってきました。新京成線と京成千葉線は、ときどき直通運転をおこなっています。その電車に乗り換えなければならないので、少々焦りました。まあ、京成津田沼で少し長時間停車をおこなうのだろうとは思いましたが。
 跨線橋を渡って、千葉線のプラットフォームに下り、ひと呼吸したと思ったら扉が閉まったので狼狽しました。思わず
 「おいおい!」
 と叫ぶと、一旦閉まった扉がまた開いて、なんとか乗ることができました。私は乗り換えにそんなに手間取ったつもりはなかったのですが、車掌から死角にでもなっていたのかもしれません。
 川口駅といい京成津田沼駅といい、なんだかきわどい乗車が相次ぎましたが、なんとか予定どおりに、10時45分に千葉中央に到着しました。京成はどうして千葉線への直通優等列車を走らせないかと思います。

 楽屋は『続・TOKYO物語』のナレーションをやってくれる吉田浩二さん、それから第3ステージでチェロを弾く磯野正明さんと一緒の部屋でした。吉田さんは一時期、短期間ながらChorus STの団員でもあったプロの声優です。仕事が晩になることが多く、練習に参加するのが難しくなって退団してしまいましたが、都留文科大学の卒業生でもあり、そんなことから清水さんともつながりがあったようです。『続・TOKYO物語』の譜面に附記されているナレーションの文面を見て、清水さんはすぐに、吉田さんに読んで貰おうとひらめいたのだそうです。私自身はとりたててイメージはありませんでしたが、昔のニュース映画のアナウンサーみたいな雰囲気が良いかなと思っています。
 チェロが加わっているのは、第3ステージで信長貴富くんの『ひざっこぞうのうた』から2曲を歌うのですが、その歌にチェロの助奏をつけた形で、今年のおかあさんコーラス大会で演奏したとのことで、それを演奏会でも披露するというわけです。近年、おかあさんコーラス大会はなかなか普通の演奏では高評価が得られなくなっているようで、踊りまくったり衣裳に凝ったり、何かプラスアルファの目立つ点がないと上に行けないらしいのでした。それで、信長くん自身に依頼してチェロ助奏をつけて貰ったようです。
 もちろんそれだけではチェロがもったいないので、『ひざっこぞうのうた』のあとにチェロの独奏を3曲ほど入れ、さらにアンコールでも参加して貰うことになりました。
 アンコールは、『続・TOKYO物語』の最後に於かれている「見上げてごらん 夜の星を」をもういちど歌うことになり、しかも客席も一緒に歌うべく、リーフレットの歌詞カードのところに別枠で囲って歌詞が印刷されていました。このときにチェロも入れるという趣向で、こちらもチェロパートは私自身が作成しました。パート譜は渡してありましたが、今日が初合わせなので少々不安です。しかも、アンコールにだけつくチェロによる前奏の部分を、ピアノパートと一緒に印刷した譜面を、忘れて出てきてしまいました。大丈夫かな、と思いましたが、「見上げてごらん 夜の星を」はChorus STのボランティアコンサートなどでもよく歌っており、その際に私は適当に(譜面化せずに)前奏をつけたりしています。チェロに託したメロディーはその形と同一ですから、伴奏も即興でつけることができました。考えてみると、私は本番にいきなり譜面なしで弾くなんてことはちょくちょくやっているわけで、そんなに心配しなくても良かったのです。

 さて、ステージでは合唱団員がリハーサルを進めていますが、私は楽屋に落ち着いて、作業をはじめました。
 なんの作業かというと、そこに置かれていた『続・TOKYO物語』の刊行楽譜に、サインを入れるという仕事です。
 当日会場での楽譜販売はできなくなりましたが、合唱団員は全員が刊行楽譜を購入してくれて、それにサインを入れて欲しいと頼まれていたのでした。リーフレットのメンバー名簿を見ると37人居るようですが、本のほうは41冊ありました。オンステしていない仲間が他にも居るのかもしれません。
 その41冊すべてにサインを入れてゆきます。メンバー名簿を見て、名前も入れてゆきました。「崎」という字が入っている人がなぜかみんな右上の「大」のところが「立」になっている異体字であったり、「渡邊」の難しい「邊」の字を読み取るのに苦労したり、なかなか大変です。
 そのうち、自分のサインにゲシュタルト崩壊を起こしてきて、書き慣れたサインなのに間違えかけたりしました。私のサインは、ひらがなをベースにして、苗字で頭を、下の名前で胴体と足を形作って人だか鳥だかに見えるようなヘンテコなシロモノです。高校生の頃に考案して、自筆の楽譜の末尾には必ずつけたし、本にもずいぶん書いてきて、何百回、あるいは千回以上書いたと思われるのですけれども、いちどになんども書いていると

 ──あれっ、ここはこれでいいんだっけ?

 などと不安になることがあるのでした。
 宛名のほうは上にも書いたように注意していたつもりなのですが、最後近くなってついに間違えました。「尚子」という名前を見て「ナオコ」と口にし、そのまま「ナオコ」と言いながら書いたらうっかり「直」と書き始めてしまったのです。何しろ油性のサインペンで書いているので、消しゴムで修正するわけにはゆきません。一旦ぐしゃぐしゃと消しましたが、やはり貰う人の立場になってみると、これではがっかりするだろうと思い、あわてて近くのコンビニまで修正テープを買いに走りました。
 サインした楽譜は、終演後に皆さんに配られたようですが、あとで「名前まで入れてくださってありがとうございます」と何人もから言われました。サインするときに、相手の名前を入れるのはあたりまえだと思っていたのですが、案外そうでもないのでしょうか。

 13時までリハーサルをやって、14時開演なのだから忙しいものです。
 第1ステージは山中惇史さんという若手作曲家の女声合唱曲集『トヨさんの言葉』から4曲。Chorus STのすずりんが他で入っている女声合唱団でピアノを弾いているのが山中氏で、この曲集はその合唱団で初演されています。山中氏は確か藝大のピアノ科を出てから作曲科に入り直したのだったか、その逆だったか、とにかくおそろしくピアノがうまくて、この曲集もピアノがかなり超絶技巧っぽいことをしていたように記憶しています。磯辺女声の常任ピアニスト福崎由香さんが軽々と弾きこなしていたのには感心しました。
 作詩の柴田トヨさんは、産経新聞の1面にある「朝の詩(うた)というコーナーの常連投稿者で、産経を購読している私もよくお名前を見かけたことがあります。掲載された詩を集めて、100歳近くなってから処女詩集を刊行したという人です。お齢のわりに、詩の雰囲気は可愛らしいというか、ときに官能的でさえあるので驚きました。私も書店でその詩集を手に取って、作曲してみようかと思ったことがありましたが、ちょっとこの境地には私はまだ到達できないと感じて棚に戻しました。若手の山中さんがそこに挑戦したのはアッパレと言うべきでしょう。
 第2ステージは、副指揮者というべき吉田宏氏が振りました。上に名前の出た吉田浩二さんと似た名前なので混同しそうです。実際、私は出版社に『続・TOKYO物語』の初演データを上げるとき、ナレーターの名前をうっかり混同してしまいました。危ういところで最終校正に間に合い、修正できましたが、思えば危ないところでした。こちらの吉田氏は、東京理科大を出てから藝大の声楽科に入り直したという人で、合唱指揮者としてめきめき名前が知られてきているようです。
 まとまった組曲などではなく、「愛のうた」アラカルトという内容でした。といってもブラームスを歌ったわけではなく、ドラマ「表参道高校合唱部!」の中で使われて最近中高生がよく歌う山崎朋子の合唱曲でもなく、はたまた倖田來未のヒット曲のアレンジものというわけでもなく、高田三郎『心の四季』より「愛そして風」三善晃「空を走っているのは…」松下耕『愛の詩集』より「四月のうた」面川倫一『あなたへの詩』より「あほらしい唄」を、それぞれピックアップしてひとつのステージにまとめたのでした。高田先生と三善先生が20歳差、三善先生と松下さんが約30歳差、松下さんと面川さんが約20歳差というわけで、世代の違う作曲家の作品を「愛のうた」というテーマでまとめるところに吉田氏は妙味を感じたようです。
 休憩をはさみ、第3ステージは上に書いたとおり『ひざっこぞうのうた』と、磯野さんのチェロ独奏(「白鳥」フォーレシシリエンヌ、それにポッパータランテラ)でした。私はチェロ独奏がはじまるくらいまではずっと楽屋で待機していました。同室の磯野さんや吉田さんとしゃべっているのがけっこう楽しかったということもあります。

 そしてラストステージ。『続・TOKYO物語』初演です。
 無印あるいは正篇『TOKYO物語』は、空襲警報をイメージした前奏曲からはじまりますが、今度の続篇は一転して、少々野暮ったいほどに元気で明るい前奏曲を設置しました。ラジオ体操のイメージということは前にも書いたでしょうか。正篇のほうのテーマは「復興のバイタリティへのオマージュ」でしたが、続篇のテーマは「未来を信じられた時代へのオマージュ」です。
 昭和30年代は、高度経済成長期の前期であり、さまざまな社会のひずみが、まだ顕在化していない時期でした。高度成長も後期になると、私自身が生きた時代で、各種の公害問題が噴出し、人間性の阻害ということが言われるようになり、詰め込み教育の欠陥が指摘され、学校内暴力などが憂慮されるようになりました。社会の発展に疑問符がつけられたのがこの時代です。そして高度成長は、オイルショックにより唐突に終焉を迎えたのでした。
 そういう時代から30年代を見返すと、幸福な、悪く言えば脳天気な時代だったなと思われるのです。もちろんそんな時代にも、いろいろと負の面はあったに違いありませんが、それらの負の面も「将来、解消される」と誰もが信じていたのです。夢とか希望とかいうものは、「未来はいまより良くなるはずだ」という信念の上に生まれる観念なのではないでしょうか。現在は、昭和30年代とは較べものにならないほど人々が豊かになり、生活も便利になっていますが、みんなあまり幸福そうに見えないのは、「未来はいまより良くなるのだろうか? どんどん悪くなる一方なのではないか?」という懸念を抱いているからだと思います。未来がより良くなると信じられないところに、夢や希望は生まれません。
 たぶん昭和30年代は、日本人が未来に夢や希望を描けた最後の時代でしょう。あとはバブル期に、ごく短期間だけ夢のかけら、希望のかけらのようなものが復活しましたが、おおむね未来が不透明な、いまより悪くなりそうな気分のまま推移しているように見えます。
 むろん、自分が生きていなかった時の社会的コンセンサスといったものを推測するのは困難であるかもしれませんが、その時代に書かれた小説や随筆などを読むと、やはり「未来はいまより良くなる」という感覚が流れていることに気づかされます。
 そして、歌も然り。今回選んだ中で、「有楽町で逢いましょう」「ウナ・セラ・ディ東京」などはメランコリックでブルージーな曲ですが、それでもどこかに明るさが感じられます。「下町の太陽」も短調ですが活力があります。貧窮な子供たちを描いた「ガード下の靴みがき」でさええらく元気で明るい曲調です。「こんにちは赤ちゃん」の無邪気な明るさときたら、少子化に悩む現在に突き刺さるかのようです。当時は少子化など思いもよらず、むしろ人口爆発が懸念されていました。
 正篇を作ったときにも感じましたが、「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉は、まさに至言だと思います。

 演奏会は大好評のうちに終演を迎えました。大停電で、お客のほうが集まるかどうか心配していましたが、ほとんど満席に近い様子でした。そういえば東日本大震災のとき、演奏会をはじめ多くのイベントが中止や延期になりましたが、たまに予定どおりに開催されたものがあると、いずこも大盛況であったと聞きます。

 ──こんな大変なときに演奏会を開くなど、不謹慎だ。

 などと普通は考えてしまうのでしょうが、テレビは震災報道一色になり、ネットもつながりづらくなり、映画館なども閉鎖されてしまい、娯楽が極端に少なくなった結果、そういうイベントに人が集まるという現象が見られたのです。
 まあ、実際には不謹慎だというよりも、まだ余震がどのくらいあるかわからない状況で、ホールの運営などがびびってしまったというのが実際のところだったとは思います。私もひとつ演奏会を延期しましたけれど、これも、もし特大の余震などが起こった際、会場側としてお客の安全に責任を持ちきれないと言われたためでした。
 考えてみれば家は停電でも、電車やバスが動いてさえいれば、演奏会を聴きに行くことに不足はないわけです。スタッフとして手伝いに来ていたChorus STの団員のひとりは、家が大網にあり、まさにやられてしまった地域で、実際にも停電がずっと続いているということでしたが、スタッフの仕事に穴をあけることなく、打ち上げまで参加して帰りました。真っ暗な家に帰るよりもそのほうが気が休まったのかもしれません。
 私も、打ち上げに出てから帰りました。二次会も誘われたのですが、さすがに家が遠すぎて、二次会まで出ていると帰りの足に支障が出そうだったので諦めました。帰りも京成を使いましたが、千葉中央駅に着いた途端に電車が出てしまって乗れず、そこで15分ばかり次の便を待たされたのと、京成津田沼で乗り換えたのが西馬込行きの快速電車で、青砥上野行きに乗り換えなければならなかったところ、接続するはずの普通電車の編成が短くて、乗車口に移動するあいだに発車してしまい、次に来る特急を8分くらい待たなければならなかったことなどで、往路より時間がかかってしまいました。
 帰宅すると、『続・TOKYO物語』の著者献本分がカワイから送られてきていました。先ほどさんざんサインして、本の様子はわかっていましたが、自分の所持品として眺めるとまた格別です。今回はできたばかりの東京タワーの写真を表紙にしました。地面には都電が走っています。そろそろ店頭にも並んでおりますので、ご興味のおありの向きは、ぜひ手にとってみてください。

(2019.9.14.)

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