忘れ得ぬことどもII

回転寿司放談

 夕食に、マダムと一緒に寿司を食べに行きました。
 大した寿司屋というわけではありません。よく知られたチェーンの回転寿司です。私の家からは、自転車で10分ばかりのところに2軒ほど、安い回転寿司屋があります。もう少し近いところにも回転寿司は数軒ありますが、そちらは少し高めなので、まだ行ったことがありません。
 私の住んでいる川口市と、隣町である戸田市との市境あたりに、中型どころのショッピングモールがあり、その中にある回転寿司屋によく足を運びます。正月、毎年のように行っている七福神めぐりの締めとして、最後のお寺からほど近いそのショッピングモールに行って寿司を食べ、さらに少し戸田側に入ったところにあるスーパー銭湯「七福の湯」に立ち寄るのが鉄板コースとなっています。七福神めぐりの最後に「七福の湯」とはなんと語呂の良いことか、と最初の年には思ったものでした。
 そのほかのときでも、その寿司屋には年4、5回くらいは行っていると思います。

 寿司というのは外食としては高級なほうだという意識があったのですが、回転寿司屋だと、他の店で食事するよりもむしろ安上がりなことが多いようです。しかも腹具合によって食べる量を調節できるのが便利です。
 回転寿司の場合、たいていひと皿に2貫ずつ載っているので、マダムとふたりで行く場合は、1貫ずつシェアします。そのほうがいろいろな種類を食べられて満足度が上がります。かなりおなかがすいていても、ふたりで20皿も食べれば充分満腹します。ひと皿100円で、外税だったとしても2160円で、夕食でその程度で済む店というのはそう多くありません。いわゆる定食屋とか、あるいはファストフードに近い牛丼屋みたいな店に限られるでしょう。
 まあ握り寿司というのも、本来はファストフードの一種です。同じ寿司でも、古くからあるなれ鮨とか押し寿司などは、味がなじむまでに時間がかかるし、いちどに作る分量がかなり多いのですが、江戸前の握り寿司は、あらかじめシャリに味をつけておくことで、客の目の前ですばやく調理して提供するという芸当を可能にしました。客のほうも軽くつまんですぐに出て行くのがイキとされました。
 値段もそんなに高くはありません。4〜8文くらいだったと言われています。1文が現在の貨幣価値でいくらになるかはいちがいには言えませんし、江戸期270年のあいだに大きく変動していますが、いまの形の握り寿司が生まれたのがだいたい19世紀初頭ということですので、20〜25円くらいの価値があったのではないかと思います。弥次喜多の道中記などを読んでも、だいたいそんな感じです。
 ちなみに当時の1両がおおざっぱに10万円くらいと考えて良さそうなのですが、金貨である「両」と銅貨である「文」の比率も一定ではなく、変動相場制であったというのがややこしいところです。よく、1両=4000文として計算している本を眼にしますが、実際には「だいたいそのくらいだった」以上のことは言えないようです。幕府はこの比率からあまりに乖離してしまった場合には為替介入したようですが、基本的には自由変動に任せていたのでした。
 ともあれ寿司1貫の値段は80円〜200円程度であったようです。これは少し高く感じるかもしれませんが、当時は外食ということがいまほど一般的でなかったこと、それから1貫の大きさがかなり大きかったことを考えると、やはり「お手軽フード」であったと考えられます。1貫の大きさは、いまで言えばおにぎりくらいのもので、ひとつだけでもけっこう満腹になったと言います。
 日本製ファストフードとして寿司と並び立つ「そば」が、「二八そば」とよく言われるのでわかるとおり1杯16文でした。落語の「時そば」も、そばが1杯16文である前提で語られます。400円くらいでしょうかね。
 なお握り寿司を考案した人物については諸説ありますが、いちおう両国華屋与兵衛という人であったとされています。和食のファミリーレストランとしていまでも名前が知られていますが、このチェーンは名前を借りただけで、特に華屋与兵衛さんとは関係がないそうです。かまぼこ屋の紀文が、紀伊国屋文左衛門とは全然関係がないというのと同じですね。
 冷蔵庫の無い時代ですから、ネタはいまのように生魚をふんだんに使うというわけにはゆきませんでした。茹でたエビとか、酢締めしたコハダなどの光り物とか、湯引きした鯛とかが主な材料だったようです。また、当時は下魚とされていたマグロを、「づけ」にして載せたものも好まれました。後世、江戸前寿司の「王道」がマグロとされたほどですから、よほど人気があったのでしょう。
 マグロがなぜ下魚であったかというと、回遊魚なので体温が高く、従って冷凍庫ができるまでは腐りやすいという欠陥があったためと思われます。血抜きの技術も充分ではなく、なまぐささが先に立って、貧乏人の食べる魚という固定観念ができあがって行ったのでしょう。それを、軽く湯引きして腐敗を防ぎ、醤油とみりんで作った調味液に漬けてなまぐささを消したお寿司屋さんのアイディアは、なかなかの発想だったと言えるでしょう。私はいまでも、回転寿司レベルの店であれば、普通のマグロよりもづけマグロのほうが好きです。

 握り寿司はファストフードとして生まれましたが、ほとんど時を置かずして、高級化のほうもはじまっていたようです。
 高崎にあるガトーフェスタ・ハラダの本店を訪ねたとき、もともとは庶民のオヤツに過ぎなかったラスクという駄菓子に、よくもまあここまで高級感をまとわせることができたものだと感心しましたが、寿司の高級化はそういう「盲点を衝いた」ものではありませんでした。華屋与兵衛自身、あまりに豪奢な寿司を作りすぎた咎で、天保の改革の倹約令にひっかかり、投獄までされています。彼は庶民相手のファストフード店のほかに立派な料亭も経営しており、そちらでも握り寿司を所望する客が多かったのかもしれません。
 そんなわけで、寿司屋というのはわりに初期の頃から、庶民相手の廉価なファストフード感覚の店と、料亭に匹敵するような高級店とに二極化していたと言えるでしょう。前者が現代では回転寿司屋となり、後者が「すきやばし次郎」のような他国の大統領を帯同しても恥ずかしくない店へとつながって行ったのだと思われます。

 私が寿司屋というものに入った最初がいつだったか、はっきりした記憶はありません。幼少の頃は、寿司というのは親戚が集まったような場に出前で持ってきて貰うものだという感覚でした。ふだんからそうそう食べられるものではないという気がしていました。
 たぶん小学4年くらいのことだったでしょうか、当時私は田無の自宅から千歳船橋までピアノを習いに通っていましたが、途中で通る新宿で、母がたまに寿司屋に連れて入ってくれたという記憶があります。その店が私のはじめて入った寿司屋であったかどうかははっきりしませんが、ともかく記憶に残っているいちばん古い店はそこなのでした。
 まだ回転寿司というものは存在していませんでしたが、その店はある程度リーズナブルな値段だったのでしょう。
 寿司の食べかたを指南した紙片が座席の前に貼られていました。左手でつまみ、人差し指で軽くネタを抑えながら傾けて醤油につけ、そのまま口に入れる。私はそこで読んだ食べかたが印象に残っていて、かなり最近まで、寿司を食べるときに箸を用いることに違和感を覚えていたものでした。最近は、ネタの上に柚子胡椒やらおろし生姜やらが載っていることが多く、手づかみでは食べづらいものが増えてきたので、やむなく箸を使うことが多くなっています。
 母がそうだったせいか、私も、魚よりも貝とかエビ、イカといったたぐいのネタのほうが好みでした。「『魚介類』の『介』が好きだ」などと言っていたこともありますが、介は本当は二枚貝を意味する漢字です。
 光り物はやや苦手でした。そのころ私は軽い胃潰瘍を患っていて、シメサバとかコハダとかの寿司を食べた後、不思議と発作が起こったのでした。もっとも、それはシメサバやコハダが胃壁に悪かったというのではなく、発作が出ているあいだ、そういう光り物の後味が胃からこみ上げてくることが多かったということであるようです。その小学生時代のトラウマを克服して、光り物でも平気で食べるようになったのは、たぶん大学に入ったころからだと思います。
 中学か高校くらいの頃から、家でも手巻き寿司などをやるようになりました。少し自分の中での寿司の「高級感」が薄れてきた感じでした。

 回転寿司がいつごろ登場したのかよく知りません。いま調べてみたら、回転寿司第一号はなんと1958年昭和33年)、私が生まれるより6年も前に大阪布施で開店したのだそうです。これが有名な「元禄寿司」の発祥なのでした。工業用ベルトコンベアを応用した発想には驚き入ります。
 しかしこれが東日本に伝わるにはけっこう時を要しました。元禄寿司のフランチャイズとなった回転寿司屋が、東日本ではじめて、仙台に開業したのは、10年もあとのこと(1968年)でした。なおこの寿司屋が現在の「平禄寿司」の前身です。
 東京近辺への進出はさらに遅れました。やはり江戸前寿司の本場だけに、回転寿司を邪道と見なす職人などが多かったのかもしれません。1975年ごろから、北関東のフランチャイズ事業者が盛んに店舗を増やしました。この事業者は現在の「元気寿司」の前身だそうです。
 はじめのころはどの事業者も「元禄寿司」を名乗り、しかも元禄寿司が「回転寿司」という言葉を商標登録していたため、他の店は回転寿司という呼びかたができませんでした。ともあれ、街中でやたら「元禄寿司」の看板を見かけた時代のことは私も憶えています。やはり昭和50年代がその全盛期であったようです。やがていつの頃か、元禄寿司だった店が片端から平禄寿司に代わっていることに気づいたのでしたが、たぶん地域ごとに事業者が分割されたのでしょう。その平禄寿司も、最近では首都圏で見かけることは稀になり、もともとの地盤である宮城県を中心とした店舗展開に整理したようです。
 回転寿司はお手軽でしたが、皿の値段が何段階かに分かれている頃は、やはり私などがそうそう気軽に入れる感じではありませんでした。いちばん安い皿はたいてい、ギョク(卵焼き)とかナスの漬け物とかカンピョウ巻きとか、地味な数種類しか無く、ちょっと好きなものに手を伸ばすと、ひと皿300円とか400円とかになり、もちろん高級寿司店に較べれば安いのではありましょうが、私としては躊躇するところでした。
 結局、私が比較的気楽に回転寿司屋に入るようになるのは、均一料金の店が普及してからのことだったわけです。
 そうなってからも、カウンターの中で寿司を握っている職人さんに直接注文するのはなんとなく気後れして、私はすでにコンベアを廻っている皿ばかり手に取るのが常でした。何周もしているうちに、ネタもシャリも干からびてきていたりしました。
 それがパネル式になって、ようやくのびのびと回転寿司を愉しめるようになりました。さらに最近になると、そもそも回転していない店も出てきました。考えてみればパネル注文であれば、現物を回転させておく必要はないわけです。ネタやシャリが干からびてしまうという悲劇からも解放されます。レーンだけがあって、パネルで注文すると列車みたいな形のトレーに載った寿司がそのレーンを走ってやってくるという仕組みです。こうなるともう「回転寿司」ではなく、別の名称を考えたほうが良いかもしれません。
 メニューも寿司だけではなく、お酒のアテになるようなつまみ物から、デザート、さらにラーメンなんかまで出てくるようになりました。デザートにしてもはじめのころは団子とかその程度だったのが、市販のプリンやゼリーが出てくるようになり、やがて本格的なケーキなんかまで供するようになっています。回転寿司屋はこのあとどこへ向かおうとしているのでしょうか。
 私はわりに「本来の寿司」を食べたいと思うのですが、マダムはカリフォルニアロールとかローストビーフ寿司とか、少々変化球のものを好みます。さらにサイドメニューなども食べたがるほうで、私は毎回のように
 「それを、寿司屋で食べる必要があるのか?」
 と牽制しています。ただ今日は、マダムがもともと
 「肉が食べたい〜」
 と言っていたのを回転寿司屋にして貰ったという事情があったので、比較的マダムの思いどおりに注文させてみました。すると注文したのは、マグロの大葉包み揚げくらいならまだ寿司屋らしいところもありますが、フライドポテト、それに長崎フェアとかで豚の角煮まんじゅうなんてものまで出てきたので、おやおやと思いました。

(2018.5.16.)

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