忘れ得ぬことどもII

終身国家主席

 間近に迫った中国全人代(全国人民代表大会)で、国家主席の任期を2期10年までと定めた憲法の条項が削除されることがほぼ確実となりました。
 この条項は、かつて毛沢東が長く最高権力者の地位にありすぎたためのさまざまな弊害を反省して入れられたものですが、こんどこれが削除されるとなると、現国家主席である習近平氏が、事実上死ぬまでその地位に居られることになります。つまり終身独裁者ということです。
 いくら中国でも、そんなむちゃくちゃな憲法改正があっさりできるとは思えないのですが、習氏は軍を動かして、閣僚たちをなかば恫喝して発議に持ち込んだようです。一種のクーデターです。「最高権力者がクーデター」というのはなんだか不思議に思えますが、中国史をひもとけば、「皇帝クーデター」という事件が何度も起こっていますので、実はそんなに変な話ではありません。自分の権力保持のために国法を破壊し作り替えようというのだから、やはりクーデターと言って良いと思います。
 こういうのが本物の独裁者なのであって、安倍晋三首相が独裁者だなどとわめいている連中は、中国へ行って同じことを習近平に言ってきたらどうなのでしょうか。
 習氏はさらに、自らの指導理念である「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」を憲法に明記させるつもりであるようです。つもりであるばかりか、たぶん実現するでしょう。いままで「思想」が絶対視されたのは毛沢東ただひとりです。鄧小平江沢民胡錦涛も、「主義」は語っても「思想」を法規に盛り込もうとはしませんでした。絶対のものとされた「思想」はマオイズム、すなわち毛沢東思想だけでした。

 歴代中華帝国では、創始者(太祖とか高祖とか呼ばれる)の定めた法(祖法)は決して曲げてはならぬものとされました。ときに後継者により骨抜きにされたりすることはあっても、あからさまに祖法に反するふるまいはヒンシュクを買いました。
 有名なのはの時代、開封の宮殿の秘密の一室にあったとされる石碑です。それは太祖・趙匡胤により建てられたもので、皇位継承者のみが見ることができたそうです。開封がの軍勢によって陥落した際、その石碑が発見されて内容が明らかになりました。石碑には、「士大夫をその言論の故をもって死罪にしないこと」「後周恭帝(趙匡胤に帝位を禅譲した前王朝のラストエンペラー)とその子々孫々を手厚く遇すること」の2条が書かれていたと言います。北宋の皇帝たちはこの祖法をよく守りました。そのため、北宋期には政争がしばしば起こりましたが、それによって死刑になる者は誰も居なかったのでした。蘇東坡(角煮を発明した詩人兼官僚)が海南島に左遷されたのが、たぶんいちばん重い刑に近かったと思われます。
 一方、永楽帝は、親父である洪武帝のあとを継いだ甥・建文帝から帝位を簒奪したといううしろめたさもあってか、親父の定めたいろいろなルールをことごとく無視し去りました。それで自分で新しいルールを定めたわけですが、そのためかどうか、永楽帝は太祖と呼ばれた洪武帝に対して「成祖」という廟号を与えられています。
 このように、祖法を作り替えたり拡張したりした皇帝には、創始者でなくとも「祖」の号が与えられることがあります。では太祖チンギス汗に対して、中華帝国としての元朝を築いたフビライ汗「世祖」の号がつけられました。またでは太祖ヌルハチに対し、やはり中華帝国としての清朝を築いた順治帝「世祖」の号が、さらにその子で清朝の版図を最大限まで拡大せしめた康煕帝「聖祖」の号がつけられています。
 中華人民共和国という国号こそ名乗っていますが、現在の中国も一種の帝国と見なした場合、「太祖」は言うまでもなく毛沢東になります。鄧小平は2代目によく与えられる号「太宗」というところでしょうか。江沢民・胡錦涛はそれぞれ「ナントカ宗」ということになりそうですが、習近平が終身主席を目指し、かつ自らの思想を最高法規に盛り込もうとしているところを見ると、彼はいわば「祖」つきの廟号を狙っている、ということが言えそうです。

 しかし、習近平がそれほどの大功ある国家主席であるかどうかとなると、首を傾げたくなる向きが多いのではないでしょうか。国内ではコワモテかもしれませんが、外国の首脳と会談したりするとき、習氏はどうしたわけか気おされたようなひきつった表情になっていることが少なくありません。大人(たいじん)をよそおって余裕のある笑みを浮かべようとはしているのですが、たいてい失敗しています。
 国家主席になる前の習氏は、外国の要人からも、いかにも中国の大人という風格を持つ人物だと言われていました。そういう演技はできたのでしょうが、いざ頂点に昇りつめて、自ら世界のトップたちと渡り合わなければならなくなったときに、内心の自信の無さが表面に出てきてしまったのだと思われます。このままではまずい、ヘタをすると権力の座からひきずり下ろされる……という恐怖が、今回のような無茶な手段を選ばせたのかもしれません。
 だいたい独裁者というのは小心者が多いのです。批判されることを怖れるから、批判者を実力をもって黙らせようとします。そのことの危険性は、すでに遠く春秋時代に警告されているのに(「民の口を防ぐは水を防ぐより甚だし」……『国語』より)、肝に銘じたらしき帝王はほとんど居ませんでした。
 その点、清の雍正帝などは大したもので、妙なあてこすりで揶揄してきた連中には容赦なかったので「文字の獄」などと呼ばれましたが、正面きって批判してきた者には、面と向かって討論し、論破するのを常としました。自分のやっていることが正しいと確信していたのでしょう。
 習氏には、まず雍正帝のような器の大きさは無さそうです。大きく見せかけようとはしていますが、成功していません。全人代で彼の発議が通るのはまず間違いありませんが、大半の人々は、軍を背景にした習氏を怖れているだけで、心服してはいないでしょう。終身主席となった習氏が次におこなうのは、心服していないらしい連中を粛正することになりそうな気がします。
 毛沢東も「百花斉放・百家争鳴」というのをやらかしました。何を言っても許すので、自由に自分を批判してくれと知識人たちに告げ、それを信じていろいろ苦言を呈した連中を十把一絡げに粛正してしまったのです。あまりといえば露骨すぎる裏切りでしたが、毛沢東は
 「陰謀なんかじゃない。白昼堂々おこなったのだから『明謀』だ」
 と得意顔でした。
 習氏もこれから、似たようなことをやるかもしれません。いや、彼はたとえ謀略のためであっても、自分が批判されるのを好まないでしょうから、もしかするともっと隠微な方法を採る可能性もあります。

 もっとも、中国史を見てみると、一天万乗の君である皇帝が、案外と「本当の独裁者」にはなれていないことが窺えます。いや、皇帝はなんとかして独裁権力を握ろうとするのですが、なかなかうまくゆかないのです。
 安能務氏はこの状態を、「『皇帮(ホンパン)『士帮(スパン)の綱引き」という言葉で書き表しました。帮(パン)は日本で言えば「一味」とか「一派」とかの意味合いです。要するに利害を共にする人間集団のことです。中国社会は古来、さまざまな帮が押し合いへし合い、ひっぱり合いつぶし合って成立しているというのが安能氏の見立てで、その中で権力の座を構成しているのが皇帝一派(皇帮)と士大夫=知識人一派(士帮)というわけです。皇帝はその権力によって、士大夫ひとりひとりに対してはごく容易に処刑したり追放したりできるのですが、士帮全体を服従させることにはほとんど誰も成功していないというのでした。
 士帮のトップが宰相です。ある皇帝は、宰相なんぞ置くから士帮が大きな顔をしているのだと考え、自分自身が宰相を兼ねるように統治機構を変えてしまいました。ところが、広大な中国を統治するにはとてもひとりでは無理で、その皇帝は自分の秘書のような部局を設置しました。するとあら不思議、その秘書局のトップが、どう見ても宰相に等しい役割を果たすようになってしまったのです。つまり皇帝がどのように役職名を変え組織をいじってみても、「宰相格」の士大夫を排除することはできなかったのです。
 丞相司徒尚書令尚書僕射内閣大学士軍機大臣など、王朝によって「宰相格」の呼び名はいろいろです。歴代の皇帝が、いかに「宰相」という存在を無くそうと奮闘したか、眼に見えるようです。などではいろいろ名称を変えたあげく、最終的には「同中書門下平章事」などという、全然偉そうには見えない役職名にしてしまいましたが、それでも「宰相の役割」を奪うことはできませんでした。
 絶対権力を持つはずの皇帝が、どれほど頑張っても、権力とそれに伴う利権を独占することは不可能だったのです。
 歴史好きだった毛沢東は、そのこともよくわかっていました。それで彼は士帮そのものを消滅させようと、百花斉放・百家争鳴および文化大革命をやらかしたわけですが、本当に知識人が居なくなると、統治そのものが不可能になります。だから毛沢東も、自分に従う知識人だけは生かしてやりました。彼らは自分の手足のようなものだから、皇帮の一部であり、士帮はこれで無くなったと毛沢東は思ったかもしれません。
 ところが士帮はそんなにヤワなものではなかったのでした。毛沢東が死ぬと、またしてもわらわらと湧いて出てきて、利権の分け前を要求しはじめました。このしぶとさはさすがだと思います。
 習近平も、あるいはこの士帮との終わりのない綱引きを始めることになるかもしれません。そうなればあるいは、南シナ海やら尖閣諸島やらにかかずりあっている暇もなくなるかもしれず、周辺諸国にとってはひと息つけることになる可能性もありますが、逆に軍功の無い習氏が、自分の力を見せつけつつ不満を外に逸らすために積極的軍事攻勢に出て来ることも考えられます。何をやらかすか予断できないところが独裁国家のおそろしいところではあります。

 それにしても、「共和国」などという冠の、なんと色あせてしまったことか。
 中国だけではなく、世界には「共和国という名の専制国家」はいくらでもあります。「大統領という名の専制君主」もたくさん居ます。共和国という名称は、もはや形骸と化してしまいました。
 「中華人民共和国」という国号の中で本来の中国語は「中華」だけだ、と言われます。「人民」も「共和国」も日本語からの借用語です。もちろん本来の中国語の中にも「人民」と「共和」は存在しますが、現在の意味とは違い、「人民」をpeopleの、「共和国」をrepublicのそれぞれ訳語として使いはじめたのは日本が先です。中国ではそれを逆輸入して国号に使用したのでした。
 「共和」というのは、西周時代にさかのぼるおそろしく古い言葉です。10代厲王の頃、大きな内乱があって王様が都から逃げ出す事態となりました。王様が不在の十数年間、都は周公召公というふたりの大臣が「して」治めたので、民はそれなりに安らかに過ごせたと言います。周公と召公とは、周の初代王である武王を補佐した周公旦 召公奭(せき)の子孫ででもあったでしょうか。
 一説には、都を治めたのはふたりの大臣ではなく、「」つまりという国の君主(伯爵)であるという人物だった、とも言います。陳舜臣氏はこちらのほうが信憑性があるという意見でした。いずれにしろ、この故事をもとにして、江戸時代後期の地理学者箕作省吾がrepublicの訳語として「共和」という語を宛てたのでした。よくもこんな古い言葉を見つけ出したものだと思います。
 まあ日本語の「共和」はともかく、republicであっても、20世紀前半までは輝かしい響きをおびていたと思われます。帝政・王政を廃止した国々は、争ってrepublicを名乗りました。現在、republicを称している国は120以上にのぼり、数の上では圧倒多数を占めています。USAには「Republic讃歌」なる民謡まであります(日本では「太郎さんの赤ちゃんが風邪ひいた……♪」の歌詞、あるいはヨドバシカメラの歌として知られています)。republicという語がどれほどの光彩を放っていたか、想像に難くありません。
 共和国である以上、民主主義であろうとわれわれはなんとなく思ってしまいます。そのせいか、習近平の今回の暴挙を見て、
 「中国は、まだ民主主義が未熟ですから……」
 などと迷言を吐いたテレビのコメンテーターも居た模様です。未熟も何も、中国が民主主義国であったことは歴史上ただの一度もありません。このコメンテーターは明らかに「共和国=民主主義国」と誤解していたのでしょう。
 世界最大の人口を持つ国家が「共和国という名の専制国家」なのですから、共和国という名称が民主主義を保証するものでは全然無いことは言うまでもありません。
 それどころか、ご丁寧にも「民主主義人民共和国」とまで称している「王政国家」すらすぐ近くにあるのです。われわれはそろそろ、表向きの名称に惑わされることをやめたほうが良さそうです。

 終身主席となった習近平氏がどのような行動に出るか、繰り返しますがまだわかりません。しかし中華帝国歴代の皇帝、ことに廟号に「祖」をつけられたがるような「意欲的な」皇帝が何をしたかをひもといてみることで、ある程度の「行動原理」は読めてくるのではないかと思います。
 もうひとつ、周辺国として心しておくことがあります。中華帝国というのは、たいていものすごい数の兵力や装備を持っており、内戦に際してはそれが威力を発揮するのですが、対外戦争にはほとんど連戦連敗であるという史実です。防衛戦であればまだましなのですが、侵略戦に出るとたいてい失敗しています。理由はいろいろ考えられますが、やたら教条的であるために柔軟な戦術がとれないこと、軍の内部がほとんどの場合に腐敗していること、などが主な要因であると推察されます。これを頭に置けば、中国の軍事攻勢というのは、油断はできませんが決して必要以上におそれることは無いと言えるでしょう。先日も海上自衛隊が中国の潜水艦の行動を完璧にトレースして赤っ恥をかかせました。
 「そうは言っても、核ミサイルを持ってるじゃないか」
 と思うかもしれません。しかしいまのところ、中国の核ミサイルは恫喝用の兵器にしかなっていないので、それを実際に使わせないようにあらゆる手練手管を使って然るべきでしょう。日本が核武装をしなくても良いのですが、少なくとも、
 「核武装くらい、わが国の技術力をもってすればほんの3日でできる。そのことを忘れるな」
 と脅かすくらいのことは常にしておいても構わないと思います。それが外交というものでしょう。

(2018.3.1.)

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