忘れ得ぬことどもII

「プロ」の仕事

 ある薬局の宣伝ブログや宣伝チラシに載せるイラストを、以前プロのイラストレーターに頼んだところ3万円かかったのに、ネット上で自作イラストを売っているアマチュアの主婦に連絡を取って頼んでみたら、わずか2500円で済んだ……という話を、NHKの朝の番組で紹介していたそうです。それを見た本職のイラストレーターや、その卵たちが、愕然として、
 「あの出来具合で2500円で請け負われてはたまらない」
 「価格破壊が起こる。われわれはやってゆけなくなるのではないか」
 「そんな安請け合いをされては、プロの仕事が奪われることになる」

 とSNSなどで大騒ぎしている、という話を眼にしました
 業界内での大騒ぎに対し、外部からはむしろ冷ややかな意見が多いようです。
 「あんな出来具合のイラストに仕事を奪われる程度のプロならやめてしまえ」
 「依頼主がそれで満足しているなら需要と供給の一致というもので、資本主義社会である以上当然のこと」

 など、騒いでいるプロのイラストレーターのほうが覚悟不充分であるというコメントが目立ちました。
 はたしてプロの人たちの危惧がもっともなのか、それともそれを批判しているコメントのほうが的を射ているのか。表現者のはしくれとして、看過してもいられない気がするので、ちょっと考えてみたいと思います。

 「プロのイラストレーター」というフレーズで思い出すのは、東京オリンピックのエンブレム騒動の主役であった佐野研二郎氏のことです。彼は当時年収5億円ということでしたが、最近はどのくらい稼いでいるのでしょうか。
 エンブレムがベルギーリエージュ劇場のそれに酷似していたというところから騒動がはじまりました。当初は、「酷似している」というネットでの評に対して、コンペの審査員やデザイン業界の人々が「ちっとも似てはいない」と言い張っている図が見られましたが、佐野氏のそれまでの作品が槍玉に挙がり、その多くのものが既成作品の素材をあまり加工もしないで使っているということが次々と検証されました。ネット民というのはこういうことになると執拗かつ徹底的で、佐野氏の元ネタであろうとされる作品があとからあとから発見されるさまは、ほとんど茫然たる想いにかられるほどでした。もっとも、近年は画像検索ということが簡単にできるようになったので、「似た画像」を探すのは楽な作業なのかもしれません。
 もちろん、デザイナーが他人の素材をコラージュの材料にしたり、パロディ的にアレンジしたり、自分の絵の参考にしたりすることは、別に責められるべきことではありません。しかし、佐野氏の作品とされたものと、その元ネタとの類似性は、コラージュとかパロディとか参考とかの言葉で納得できる程度のものではなかったというのが問題でした。素材の形はもちろん、色合いや構図などまでそっくりで、参考にしたというレベルではなく、明らかに剽窃のレベルなのではないかと思われました。
 最初は佐野氏を擁護していた同業者たちが、徐々に掌を返して、「やはりこれはまずいのではないか」などと言い出す様子は、はたから見ていてもなかなか興味深いものがありました。
 結局佐野氏は、オリンピックのエンブレム案を取り下げました。しかし剽窃を認めたわけではありません。エンブレムの使用例として、羽田空港とか渋谷駅前とかの写真にそれを埋め込んだ画像が作られたのですが、その元の写真が誰か外国人のブログから持ってきたもので、しかも写真に添えられたクレジットを消して無断使用していたのだそうです。表向きは、この無断使用を問題としたということで取り下げの理由にしていました。まあ、エンブレムそのものが剽窃であったと認めてしまったら、もはや佐野氏のデザイナーとしての生命は絶たれたも同然でしょうから、このいわば「瑕疵」を理由にしたのはやむを得ないことだったと言えましょう。
 それにしても、そんなことで年収5億も稼いでいたというのが、ウソみたいな話です。
 素材をどこからも借りてきていない、佐野研二郎氏本来の作品というのも見ました。印象としては、わりに素朴というか、ベタ塗りを主体とした童画のような醇朴な味のある絵で、これはこれで良いのではないかと私などは思いました。しかし、そういう絵で年5億円を稼げるかと言えば、いささか首を傾げざるを得ません。
 想像するに、どこかからデザインの依頼を受けたときに、自分の作風でないタイプの絵を要求されたのではないかと思います。表現者としてはそういう場合はお断りするのが筋かとも思いますが、一方「どんな依頼にでも応えてこそのプロだ」という考えかたもあります。佐野氏は後者のタイプだったのでしょう。それで苦し紛れに、素人があんまり知らないであろう外国人の作品を真似て描いてみたら、案外好評だったので、ついついその手法を多用するようになった、というところではないでしょうか。そのうち「実績」もついてきて、クライアントもどんどん増えたということでしょう。
 そうなってくると、クライアントはだんだん、佐野研二郎の作品を買っているというよりも、「佐野研二郎に依頼して描いて貰ったという事実」を買っているようなことになってきます。それが良いとか悪いとかいうのではなく、ネームバリューというのはそもそもそういうものです。

 そこで振り返ってみて、一昨年の騒動でケチがつく前の佐野研二郎氏に冒頭の薬局がイラストを頼んでいたとしたら、同じ「プロに頼んだ」のでも、3万円ではとても済まなかったはずです。30万円どころか、300万、3000万という金額が動くことになっていたのではないでしょうか。
 しかしその薬局としては、宣伝用のイラストにそんなネームバリューを必要としてはいませんでした。ちょっとかわいらしい絵があれば良かったので、もしかしたらフリー素材などでも充分だったかもしれません。だから絵の好きなアマチュアの主婦に2500円でやって貰えてラッキーだったし、主婦のほうも思いがけず依頼を受けて自分の絵を買って貰えてラッキーだったし、両方とも満足してめでたしめでたしだったわけです。「需要と供給の一致」というコメントが的を射ているように思われます。確かに「プロのイラストレーター」のかたがたが文句を言う筋合いではなさそうです。
 ただ、彼らの気持ちはわからないでもありません。例えばその薬局のチラシレベルの仕事が3万円というのがこれまでの相場だったとすれば、それと同等の(少なくともクライアントにとって同等のように思える)イラストをアマチュアが2500円で請け負うとなると、今後同じような仕事を受けるときに、3万円という相場金額を提示しにくくなるのではないかという危惧があるのでしょう。
 「え、3万円? そんなにするんですか? それなら結構です。2500円くらいで引き受けてくれる人も居ますので」
 と言われそうで、戦々兢々としているわけです。
 この気持ちそれ自体は、私もしょっちゅう感じているものです。作曲料の交渉などで、向こうから予算を言ってきた場合は、予想より多くてほくほくするとか、もうひと声と言いたくなるとか、ともかく対応のしようがあるのですが、
 「おいくらくらいになりますか?」
 と訊ねられると、なかなか答えづらいことがあります。気心の知れた相手なら良いのですけれども、さほど知らない相手で、しかも「あんまり払えない」オーラが出ていたりすると、こちらの心も千々に乱れるのでした。
 「え、そんなにするんですか? それなら結構です」
 と言われやしないかとヒヤヒヤするのは事実です。
 それでも私の場合は、自分の1割以下の料金で作曲してくれるようなアマチュアには、少なくとも技術面や構成力で負けることはないという自信がありますので、「仕事が奪われる」とまでは思いませんが、イラストなどの場合はどうなのでしょうか。

 私の狭い経験だけで考えても、イラストというジャンルにおいては、どうも「プロの仕事」と「アマの仕事」のあいだに、それほど劃然とした区別があるわけではないように思えます。「プロ並みに絵がうまい」アマチュアなどいくらでも居そうです。高校や大学の美術部とか漫研とかを覗いてみれば、それこそゴマンと居るのではないでしょうか。
 ことに最近は、コンピュータのグラフィックソフトが発達してきて、素人でもびっくりするような効果的な画像処理ができるようになっています。加えるに、アマチュアというのはあくまで趣味でやっているだけに、費用対効果を考えるとプロではとても無理なほどのこだわりをもって、時間をかけて細部まで仕上げたりもします。
 そう考えると、もはや作品個々に関して言えば、プロもアマもないような気がしてきます。少なくとも、アマチュアのものすごくうまい人は、そこそこのプロよりも、うまいという点については上かもしれません。
 音楽で言うと──あちこちから抗議が来そうですが──合唱がそれに近いかと思われます。プロの合唱団というのはいくつもあり、それらはもちろんプロであるだけの卓越した技術力は持っているのですが、演奏内容そのものは、全国コンクールで上位に来るようなアマチュア合唱団と較べて、そんなに変わるものではありません。ひとりひとりのメンバーの力量を較べればプロのほうが断然すぐれているのは当然なのですが、合唱という形態の性質として、各メンバーの持つ声の特徴が中和され、わりとニュートラルな響きにならざるを得ず、そうなると各メンバーの力量差などはあまり目立たなくなってしまうのです。
 ただ、プロのプロたるところは、非常に少ない練習回数で仕上げられるという点にあります。上位アマチュアが半年くらいじっくりかけて仕上げる曲を、1、2回程度のリハーサルでそれなりに聴けるレベルにまでしてしまえるのがプロなのであって、それだからレコーディングなどに大変重宝し、お金を出してくれる人も居るというわけです。
 ここから類推すれば、「プロのイラストレーター」のプロたるゆえんを定義することもできそうです。
 「絵がうまい」というのは、いささか乱暴に言えば、プロであることの一要素でしかないと思います。世の中には「うまいアマチュア」がいくらでも居る、という認識をまず持つべきです。
 しかもクライアントが求めるのが、常に「うまい絵」であるかどうかというのもわかりません。用途によっては、あえて稚拙なタッチの絵を求めるということもあるわけです。「仕事」というのはクライアントがあって成り立つものであって、技術力が高いほうが勝つコンクールやコンペとは違うのです。
 そうであってみれば、プロに求められる資質とは、上記の合唱団の例と同じく、「短期間で仕上げられること」がそのひとつと考えて良いでしょう。まあ、薬局に頼まれた主婦が、どのくらいの期間でイラストを仕上げたかはわかりませんが、もしNHKでとりあげられたことで名が上がり、あちこちからイラストを(2500円くらいで)依頼されることになったら、主婦の趣味レベルではなかなか対応できなくなるのではないでしょうか。対応できるなら彼女はもう立派なプロであり、そうなれば2500円などどは言っていられなくなるでしょう。
 つまりプロとは、「一定以上の水準の作品を」「一定以上のペースで」産み出し、それによって報酬を稼ぐ人のことを言うと定義して良いように思えます。ここさえクリアしていれば、たまに「うまい、安いアマチュア」が出てきたとしても、怖れる必要はありません。そこで怖れなければならないとすれば、いま書いたプロの条件をクリアしていない「自称プロ」に過ぎないと考えられます。戦々兢々としているかたがたには、まあ精進してくださいと言うほかなさそうです。

 音楽のほうで、ひとつ思い出した話があります。
 知り合いに、アマチュアなのですが歌が好きで、なかなか美声でもあり、有料公演のオペラにもちょくちょく出演しているという人が居ました。さすがにテクニック的にはプロの歌手に伍するというまでのことはなく、もちろん主役級にはなっていませんでしたが、脇役でよく出ていたのです。
 この人が、一時期かなりひどい批難を浴びていたことがあります。こんなヤツがのさばっているから、本職の歌手の仕事が無くなってしまう、さっさとひっこめ……とか、そんな言われかたでした。
 そういうことを言っていたのが、実際に仕事にあぶれた歌手本人だったのか、それとも義憤に駆られた批評家気取りの素人だったのか、それは知りません。しかし、今回のイラストの仕事の構図とよく似ているように思えます。
 そのアマチュア歌手は確かに本職に較べればテクニックが劣っていたかもしれません。しかし、オペラの企画サイドは、それでも構わないと思ってその人を出演させていたわけで、外から口をはさむようなことではありません。
 もしその人がやった役が、もともと誰か本職の歌手が歌う予定であって、それがなんらかの都合でキャンセルされてなぜかその人にまわったということであれば、仕事を奪われたと主張しても正当性はあります。しかし、その人が何度もオペラに出ているために、不特定多数の歌い手に仕事がまわってこないなどという主張には、どう考えても無理があります。繰り返しますが企画サイドがその人で良いと判断しているのです。もしその人を出した結果オペラの出来が悪くて不評だったとしても、それは企画サイドの失敗であるというに過ぎません。
 企画サイドに、その人よりも必要だと思わせることができない本職歌手(具体的に誰か居るとして)のほうがアピール不足なのだと言わざるを得ないでしょう。

 イラストにしろ歌にしろ、アマチュアと仕事を取り合うような「プロ」は、結局その程度の能力だということになりそうです。
 文句なくプロを名乗れるとすれば、普通の人がどう逆立ちしても届きっこないような超絶した「技」を持っているか、あるいはせめてその人ならではの誰でもわかる「特色」を持っているか、どちらかでしょう。もちろん上に書いた「一定以上の水準」「一定以上のペース」はクリアした上でです。イラストの世界でも、「これは誰々の絵だな」と私のような素人にもすぐわかる画風の人が何人も思い浮かびます。そこまで到達するのは相当に狭き門なのかもしれませんが、堂々とプロを名乗れるにはそのくらいのクラスにならなければという気はします。
 自分はどうなのだ、と問いつめられれば苦笑するほかないのですが、いちおう
 「MICの曲だってことはすぐわかるよね」
 「あ〜、MIC節だ〜」
 などとよく言われるということで(自分にはさっぱりわからないにせよ)、「特色」くらいはあるのだろうと思っている次第です。

(2017.11.25.)

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