忘れ得ぬことどもII

言論の自由とは

 一橋大学の学園祭で予定されていた、作家の百田尚樹氏の講演会が中止に追い込まれたというので、騒ぎになっています。他ならぬ大学という場で言論が封殺されるとはなんたることか、というわけです。
 ARIC(反レイシズム情報センター)という学内の団体が、学園祭実行委員会にねじこんで恫喝まがいの中止要請をおこなったとのことです。すなわち、百田は差別主義者であり、その差別主義者に講演をさせるということは大学が差別主義を容認していることになる……という論法で責め立てたのでしょう。実行委員会としてはそんな大げさな意図があったわけではなく、最近よく話題になっている有名人に来て話をして貰おうという程度の意識だったのだと思われます。ところがARICの常軌を逸したような剣幕におびえて、呼ぶだけでもそんなに猛反対する連中が居るのでは学園祭が不穏になると思い、百田氏に事情を説明してキャンセルしたのでした。
 が、百田氏もそういう理不尽に黙っている人ではなく、ツイッターでいきさつを世間に報告しました。そこから話が大ごとになってきました。
 まず大学の対応として、学生間の自治に関わることだから口を出していない、と新聞の取材に答えています。ところが、中止要請をおこなった人々の中に、60人もの一橋大学自体の教員が含まれていたということが明らかになりました。こうなると、とても学生間の問題とは言えなくなります。成績を握る教員が要請側に加わっていれば、それでも自分の主張を押し通す学生はなかなか居ないと思います。学生がふがいない、という意見も出ていますが、上に書いたとおり、実行委員会はそんなに確乎とした思想的根拠があって百田氏を呼ぼうとしたわけではなさそうですから、責めるのも酷でしょう。

 それから、ネットでおこなわれていたこの中止要請への署名活動に、ある野党代議士が大いに賛同し、署名を奨めるツイートをおこないました。一般にはほとんど知られていないと思いますが、ネットでは有名な代議士です。ツイッター愛好者で、ちょくちょくヒンシュクもののツイートやリツイートをおこなって「燃料投下」している人だからです。
 野党とはいえ国会議員が、言論人の講演会の中止要請を推奨するのですから、これはどう考えても権力者による言論弾圧にほかなりません。また特大の燃料投下をしてくれたものです。
 その話はさらに発展します。その代議士と同じ政党の、もう少し立場が上である代議士が、この言論封殺を憂慮し、
 「ある代議士が関わっているらしい。困ったことだ」
 というようなことを、これまたツイッターで呟いたのですが、名指しされたわけでもなんでもないのに、当の本人がものすごい勢いでかみついてきたのでした。すべてツイッター上でやりとりされているので、言ってみれば衆目監視の下での喧嘩になりました。
 ふたりの代議士は数日後に面会して話をし、和解したということですが、

 ──いや、和解しちゃダメだろ。ことは言論弾圧だぞ。

 という感想を持った人が多かったようです。

 それにしても、自分と反対の意見を持つ者には話すらさせたくないという人たちは、どうしたものでしょう。
 しかもこういう人たちに限って、表現の自由だとか言論の自由だとかを声高に叫ぶことが多いのです。表現の自由は自分たちだけのものだとでも思っているのでしょうか。
 最近では臆面もなく、

 ──差別主義者の言論を封じるのは当然のことで、別に言論弾圧にはあたらない

 なんて主張までしているようです。このところ、表面を取り繕うことさえしなくなりました。今回のことも、

 ──公権力による言論の妨害のことを弾圧と呼ぶ。今回はそうでないのだから言論弾圧ではない。

 というような意見を眼にしました。野党代議士は公権力ではないというのが彼らの認識であるようです。
 そうでなくとも、学生にとって教員は公権力に準ずる存在でしょう。60人の教員が加わっていたという時点で、この件は弾圧以外の何物でもなくなりました。
 それに根本的な前提として、百田氏が差別主義者であるという証明がなされていません。今までの発言を見れば自明であるというのかもしれませんが、確かに百田氏は歯に衣着せぬ、いささか乱暴とも思われる論を公然と吐く御仁ではあるものの、私が彼の本を読んだ限りでは別に差別主義者とは思えません。それは私も同じ穴のムジナの差別主義者であるということになるのかもしれませんけれども、とにかく彼を差別主義者と言っているのは一部の人々です。つまるところ、アンチによるレッテル貼りであるに過ぎないと思います。

 一部の人間が、ひとりの言論人に対して差別主義者であると不当なレッテルを貼り、差別主義者の言論を封じるのは言論弾圧ではないという理窟のもと、講演会で発言する機会を奪った……煎じ詰めれば、一橋大学の事件はそういうことです。その「一部の人間」の中に、野党とはいえ代議士が居たり、たくさんの大学の先生たちが名を連ねていたことには、まさに戦慄を禁じ得ません。
 この論法を用いれば、自分たちの気に入らない意見をすべて封殺することができます。
 「あいつは差別主義者だ」
 と言い立て、
 「差別主義者の発言を封じるのは言論弾圧ではなく正義の行為だ」
 と言い張りさえすれば、それで済むのですから。
 「それはちょっと……」
 と疑問をはさむ向きには、
 「差別主義者の発言を許すことは、差別主義を許すことだ」
 「おまえは差別主義者に賛同するのか」
 と大声で責め立てれば、たいていの人は逃げ腰になるでしょう。
 この「差別主義者」のところを例えば「共産主義者」に言い換えれば、そのままレッドパージの光景になります。また「封建主義者」に言い換えるなら、あら不思議、中国文化大革命当時の光景がそのまま再現されてしまいます。
 要するに、どんな言葉を代入しようと、弾圧は弾圧でしかないということです。こういう論法を用いる人たちが権力を持った社会はおそろしいですね。
 その種の人たちは、なぜか民主主義という言葉が大好きで、日本には真の民主主義が根付いていない、などと平気でおっしゃるのですが、彼らの理想とする民主主義とは、「朝鮮『民主主義』人民共和国」という国名の中にある「民主主義」であるとしか思えません。自分の意見や主張はのびのびと語れる、誰もがそれに賛同してくれて、反対したり疑問を呈するような意見や主張はすべて封殺されて耳には聞こえてこない、そんな心地良い社会が理想なのでしょう。言うまでもなく、「朝鮮『民主主義』人民共和国」の中であろうと、そんな心地良い境地に居る人物はただひとりしか居ません。

 くだんの代議士は平素からレッテル貼りや弾圧を是とするようなツイートの多い人物ですので、まあいつものことだと笑っておけば良いのですが、中止要請に加わった先生がたは、大学人としてはずかしくはないのかと思います。
 大学という場は本来、どのような言論がおこなわれても良いところであるはずです。極論を言えばナチス讃美であろうと世界征服であろうとアリなのです。それが不都合だと思う人は堂々と相手を論破すればよいので、家庭環境とか実現可能性とか、そんなこととはまったく関係なく空論をくりひろげ闘わせることができるのが、大学という場の良いところであるはずです。
 百田氏の発言が気に入らないのであれば、講演会の場で遠慮無く議論を吹っかければ良いだけのことです。別に講演を聴講するのは学生に限ったことでもないと思いますし。
 それが講演会そのものを潰そうとしたのは、もしかして百田氏と議論をして勝てる見込みが無かったからではないかと思えてしまいます。というより、そう思われても仕方がない状況です。60人も雁首揃えて、
 「百田に好きなように鳴かせてやればいいじゃないか。ヤツが何をほざこうと、この吾輩が完膚無きまでに論破してみせるわ」
 と豪語するような先生が誰ひとり居なかったというのが、大学人として情けないことこの上ないと思うのですが。
 断っておきますが、これは百田氏が右翼だろうと左翼だろうと関係のない話で、私が言っているのは大学人としての矜恃についてです。言論を闘わせることから逃げて、自分と異なる意見の者の発言を封じるような者には、大学人の資格が無いと言って良いでしょう。

 「私は君の意見には反対だ。しかし君がその意見を主張する権利は命に代えても護ろう」
 ヴォルテールの有名な言葉です。最近の研究ではヴォルテール自身が言ったわけではないということになっているようですが、しかし言論の自由とか民主主義とかを云々する人ならば、すべからく肝に銘じるべき言葉であることに変わりはありません。
 「※ただし差別主義者を除く」
 などという自分勝手な註釈をつけることは許されないのです。
 対立する人の意見を聞くというのは、確かに物憂いものです。なんでこんな簡単なことがこいつにはわからないのだろう、と冷笑したくもなります。事実誤認が多いと指摘するのも億劫になります。腹も立ってきます。ときには大いに実りある論戦になることもありましょうが、たいていの場合は時間を無駄にしたような気分にしかなりません。ことにその相手がこちらの人格攻撃などを仕掛けて来たりすると、その後何日もむかむかしたりもします。
 こんなヤツの言うことは一語たりとも聞きたくない、できれば他の連中にも聞かせたくない、と思ってしまうのも、感情の上では無理もないことです。
 しかし、言論の自由を訴え、民主主義を標榜する限りは、それをやってはいけないのです。言論の自由とか民主主義とかいうものは、決して心地良いことばかりではありません。むしろ腹の立つこと、むしゃくしゃすることのほうが多いくらいです。それでも言論の自由は貴いと思うし、民主主義は大切だと思います。そういう価値観よりも好悪の感情を優先させてしまう人には、自由や権利を語る資格はありません。
 「差別主義者の発言を封じるのは言論弾圧ではない」
 などと公然と言っている手合いには、二度と言論の自由を口にして貰いたくはありません。そこまでむちゃくちゃなことを言っているのなら、いっそのこと
 「言論統制こそ素晴らしい。矛先がおれたちに向かいさえしなければな」
 と正直に主張すべきです。そんなことを主張したら支持する者が居なくなるって? もともとお仲間以外支持しちゃいないから安心なさい。

 思えば、社会主義を採用した国は、ひとつの例外もなく、必ず言論統制をおこなっています。
 これは社会主義なり共産主義なりが現実の国家に応用されるときに本質を歪められたという問題ではありません。社会主義なり共産主義なりの内部に、必然的に言論統制をおこなわなければならない理由が存在しているのだと思われます。言論統制をしないと、社会主義国は存立できないのです。ものを考えるのは「頭脳」である指導部だけであるべきで、「手足」である人民は何も考えず、何も感じず、何も欲しがらない単なる労働単位でなければなりません。その労働単位に「言論の自由」などを与えては、計画経済どころか体制そのものがめちゃくちゃになってしまいます。
 そして、社会主義者・共産主義者になる人というのは、体質的にその種の統制を好む傾向があると言って良いでしょう。もちろんその場合自分は決して労働単位ではなく、指導部の側に居られるのだと信じています。既存の体制に対して声高に「言論の自由」を叫ぶのはそのためです。自分の意見は自由に語れるべきで、自分と異なる意見は統制されて然るべきだと考えている、明らかな二重基準を指摘されても、彼らはびくともしません。指導部と労働単位とは基準が違って当然だと思っています。
 こういう連中が本当に権力を握るとどうなるかというと、確実に指導部内での粛正がはじまります。それはそうでしょう。一から十まで意見が同じなどという人がそうそう居るわけがなく、指導部の中で意見の食い違いが出てくることは必然です。ところが指導部は全員、自分の意見は自由に語れるべきだが異なる意見は統制されるべきだ、と考えているわけですから、これまた必然的に、自分以外を統制しようとしはじめます。つまり内ゲバとなり、結局いちばん強い者が勝ち残り、トップに立って独裁権力を振るうことになります。
 これまでに出現した社会主義国は、本当に、見事なまでに、例外なくこのプロセスを辿っています。これはもう、社会主義の理論の中にそのプロセスが組み込まれていると考えるしか無いでしょう。
 いまなお社会主義者、共産主義者をやっている人は、口を揃えて、理論に間違いはない、運用を間違えただけだと言うのですが、これまでに採用したすべての国が運用を間違える理論というのは、はたして政治理論としてどうなのでしょう。
 ともかく一般論として、社会主義者は統制(自分以外の)を好むということは言えると思います。
 ところがネットという場は、原理的に統制が効きません。従って自分の好まない言論でも、否応なしに眼にせざるを得なくなります。だから少し前にはネトウヨ、最近はレイシストというレッテルを貼って黙らせようとするのですが、あいにくとネットの場ではそういう恫喝も効きません。
 「差別主義者の発言を封じるのは言論弾圧ではない」などと、普通の人には到底通じなさそうなトンデモ理論を、もはや隠そうともせず出してくるようになったのは、ネット上の言論が自分たちの思いどおりにならなくなった連中の悲鳴のようなものなのかもしれません。もう不愉快な意見は聞かせてくれるな、という本音なのでしょう。

 いずれにしても、
 「百田の講演会の開催を阻止してやった!」
 と威張ったところで、
 「よくやった!」
 と褒めてくれるのはお仲間だけです。
 百田氏は語り口などが激しいので、好まない人も多いのですけれども、それでもたいていの人が事の次第を聞けば、
 「講演会くらい開かせてやってもいいだろうに」
 と思うことでしょう。むしろ阻止した側のほうが
 「なんとケツの穴の小さいことか」
 と思われるほうが自然です。
 そんなことを想像できないほど百田氏の講演が脅威に思えたのでしょうか。
 今後、このようなことは増えると思われます。公民館などのレベルではすでに何度もこの種の事件が起きており、櫻井よしこ女史なども講演をキャンセルされています。「右」側の人ばかり挙げるのも不公平なので、上野千鶴子女史にもそんなことがあったと申し添えておきます。
 しかし今回は舞台が大学という、「知の楽園」であるべきところだったことが深刻であり、しかもその「知の楽園」を護るべき教員たちが言論封殺に参加したという点で衝撃が大きかったのでした。ことは一橋大学だけの特殊事情とも思えません。すべての大学人が、自分のこととして考え、覚悟を決めるべき事柄だと思います。

(2017.6.10.)

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