忘れ得ぬことどもII

ロンドン無差別テロ事件ふたたび

 またしてもロンドンでクルマによるテロです。前は国会議事堂前でしたが、今度は繁華街、童謡で有名なロンドン橋のあたりです。
 7人が死亡、その他に犯人グループ3人が射殺され、負傷者は50人近くにのぼりました。ロンドンもパリも、最近はえらく物騒な街になってしまいました。
 犯人たちはクルマが動かなくなると、下りてきてナイフを振り上げ、道行く人々に襲いかかったということです。そのときに
 「アラーのために!」
 と叫んでいたという証言もあり、間違いなく毎度お馴染みイスラムテロでしょう。
 それにしてもクルマを暴走させるというのが、ニースの事件以降お約束みたいになりました。ISでも推奨しているという話です。爆弾などに較べてはるかに調達しやすく、なんとなれば道端に駐車してある他人の車を盗むだけでも事が足ります。無差別自爆系テロに限って言えば、殺傷のコストパフォーマンスが著しく高いのでした。
 クルマは走る兇器、と交通事故が起こるたびに聞かされてきましたが、最近は本当に兇器として使われはじめています。今後は生体照合による安全装置とか、そういったものが不可欠になってくるでしょうが、何しろクルマは世界中に拡がりすぎました。すべてのクルマが安全装置付きのものに置き換わるまでには何十年もかかるのではないでしょうか。

 イスラムテロが起こるたびに、なんとももどかしい想いにかられます。ISは毎度毎度嬉々として犯行声明を出していますが、これはまあ聞き流しておけば良いでしょう。問題は、イスラム教の指導者層からのコメントがさっぱり伝わってこないことです。新聞を読んでもテレビを見ても、そういう人々にインタビューしているのを見たためしがありません。
 何度か書きましたが、イスラム教には現在、「すべてのムスリムが一目置く」ような、いわばキリスト教におけるローマ教皇にあたるような人物は居ません。教皇に相当するのはカリフ(教父)ですが、正式なカリフは1924年アブドゥルメジト2世が退位して以来空位です。自称カリフなら何人も出現していて、ISの首領であるアブー・バクル・アル=バグダーディもそのひとりですが、既存のイスラム教国でそれを認めているところはひとつもありません。
 だから、その人の鶴のひと声で全ムスリムが従うという存在が居ないのはやむを得ないわけですが、それにしてもカリフに次ぐムフティーなどの立場の者は居るわけです。カリフが教皇とすればムフティーは司教などにあたるでしょうか。
 現在、サウジアラビアアブドゥルアジズ・アル=アッシャイフという「大ムフティー(大司教、もしくは枢機卿といったところ?)」が居り、エジプトシャウキー・イーブラヒーム・アブドゥルカリームという同じく大ムフティーが居ます。アル=アッシャイフのほうはもう70過ぎの老人で、ポケモンを禁止したりバレンタインデーを禁止したりと偏屈なところが目立ちますが、アブドゥルカリームはまだ50代で、投票によって選ばれた初の大ムフティーであり、穏健で開明的なことで知られています。
 こういう人たちが、相次ぐテロ事件について発言してくれれば良いのにと思わずには居られません。
 「おまえたちのやっていることは断じて『ジハード』などではない! 寛容を旨とするアラーの思し召しに背く行為である!」
 と言ってくれるのがいちばんありがたいのですが、そうではなく結果的に異教徒へのテロを容認または奨励する発言になったとしても、それによって世の非イスラムの人々が覚悟を決められるわけですから、決して無益ではありません。
 現代世界の中でムスリムがどうふるまうべきか、いやむしろイスラムというものが現代世界とどう向き合うべきか、という大方針を示すのが、彼ら指導者の役割なのではないでしょうか。アラビアの子供たちや若者たちのささやかな娯しみを邪魔するだけが大ムフティーの仕事ではありますまい。

 また、ジャーナリストを名乗る人々は、イスラムテロが起こったとき、なぜ彼らにコメントを求めにゆかないのでしょうか。それこそがジャーナリストたる者のなすべきことではないのでしょうか。
 申し訳程度に、タクシーの運転手をしているような街中のムスリムにインタビューしたりはしていますが、彼らが言うことなど決まりきっています。
 「ムスリムはあんなヤツらばかりじゃない。あんな事件でムスリムを誤解しないで欲しい」
 せいぜいそんなところで、非イスラム側から見るとずいぶん虫の好い話です。今朝の新聞にも、やはり市井のムスリムらしき人物のコメントがありました。明記していませんが、シャハト・ハヤットさん(45)という名前はどう考えてもムスリムです。
 「このところ、テロを防げなかったメイ首相に批判が集まっている。(8日に予定される)総選挙に影響するのではないか」
 まるで他人事なのでした。本当に他人事と思っているのかもしれません。それでムスリムへの風当たりが強くなると人種差別とか宗教差別とか騒ぎ出すのだから世話はないのであって、少々危機感が無さすぎやしませんか、とイスラムのために思わざるを得ません。

 日本は距離が遠いためか、ムスリムはまだそれほど入り込んでいません。そのため、それほど深刻な摩擦も起こっていないのはまあ寿ぐべきところでしょう。
 「海外の反応」というようなまとめサイトを見ると、日本人があまり宗教差別をしないというのでムスリムが感激しているようなスレッドも散見されます。ただ、彼らのコメントをよく見ると、
 「日本人は最高のムスリムになれるだろう」
 とか、
 「これで彼らがイスラム教を信じてくれさえすれば」
 とかいう趣旨のものも多く、やはり教化対象として見ているのがわかります。一神教ではないので与しやすいと思われるのかもしれません。
 これに対し日本側からのコメントは、
 「布教しに来るのはムリ」
 「日本の文化を尊重して融け込んでくれるのなら、いくらでも来てくれていいんだが」
 といった傾向のものが目立ちます。
 日本人が海外に行った場合は、なるべくその土地に融け込もうとすると思います。それゆえ、中国人韓国人のような同族コミュニティはなかなか作ろうとしません。むしろ、他の日本人となるべく関わらずに暮らそうとする人が多いのではないでしょうか。海外に行ってまで同胞と顔を突き合わせるのはごめんだ、と思っている人が多そうです。
 だから、日本に来る外国人にも、そういう振る舞いを求めるところがあります。隣近所に融け込んでくれさえすれば、差別などまずしないでしょう。肌の色が違っても、多少言葉が通じなかったとしても、できるだけ「仲間」として受け容れようとします。
 しかし、ほとんど地域に融け込もうとはせず、自分らの流儀をあくまで押し通し、それを受け容れるべきだと居丈高になってくる相手には、かなり冷たい態度になるように思います。日本に暮らした外国人の反応が、昔から
 「非常に温かい人たちばかりだ」
 「外国人に決して心を開かない冷たい連中だ」
 という、まるで背反するような二極に分かれるのは、そのためでしょう。
 この状況から判断すると、やはり日本にムスリムを多く受け容れるのは無理があるような気がします。
 前にも書きましたが、イスラム教というのは、その本質として「地域に融け込む」ことが不可能な宗教であるからです。そして「その土地の文化を尊重する」ことも不可能なのです。
 なぜなら、「地域に融け込む」「その土地の文化を尊重する」というのは、

 ──信仰よりも、異教徒との妥協を優先させる。

 ということになり、イスラム教では絶対に許されないことだからです。
 イスラム教というのは信仰であると同時に「生きかた」そのものでもあります。生活様式自体が厳しく決められていて、そこから外れることは許されません。
 「日本に来たんだから、日本人の食べるものを食べればいいじゃないか。神さまだって、そんなにやかましいことは言わないさ」
 と、われわれは考えてしまいますが、彼らはかたくなに、ハラール認証のある店でしか買い物ができないと言い張ります。そうなると、ハラール認証のある店の商売が成り立つだけのムスリムがその地域に居ないと生活ができないことになります。礼拝所も新たに作らなければなりません。
 イスラム教徒は、世界のどこへ行っても、ある程度群れないことには生きてゆけない性質を持っているのです。そしてその群れは、決してその地域に融け込むことはありません。これを解消する方法はただひとつ、その地域全体が逆にイスラム教の生活様式に染まってしまうことしかないのです。
 砂漠の宗教であったイスラム教が、南アジア、東南アジアへと拡がったのは、仏教などと較べた際の教義のわかりやすさという要因もあったことでしょうが、この、生活様式ということの問題が大きかったような気もします。
 そしてそのイスラム的生活様式は、どう考えても、日本人には合いません。
 ムスリムの側からしても、日本の至るところにある神社のたぐいは目障りでしょう。目障りである以上に恐怖を覚えるかもしれません。つい鳥居とかお地蔵さんとかを壊そうとして、附近の住民とのっぴきならない対立を生むのが関の山です。
 もともと住んでいる距離も遠いのですから、あまり近づかないほうがお互いのためだと思うのです。旅行くらいにとどめておくのが平穏でしょう。
 「多文化共生」を錦の御旗にしている人たちから見ると、私のこの考えは救いようもなく「差別的」ということになるかもしれませんが、「共生」など望まず、自分らのやりかたを押し通すことしか考えていない相手も居るのだということは、きちんと認識しておいたほうが良いと思っています。

 イスラムのプロテスタント化を望みたい、ということを私は何度か書いてきました。
 心の中で信仰していれば、アラーはちゃんとそれを見ていてくださるのであって、外形的な生活様式などはさまざまであって良い……という考えかたです。
 望みたいというより、今後イスラム教が非イスラム世界と平和共存してゆく条件は、その種の宗教改革がおこなわれることしか無いような気がしています。
 イスラム教も誕生してかれこれ1500年、そんな改革の動きがはじまっても良さそうなものです。
 しかし、現状ではまず無理でしょう。たとえそんなことを言い出す宗教家が出てきてもすぐに潰されるに違いありません。その宗教家がもしある程度の賛同者を集めたなら、血みどろの長い闘争がはじまると思われます。それは、カトリックとプロテスタントの数百年に及ぶ殺し合いの歴史を見れば予想できることです。
 しかし、日本が将来イスラム難民を受け容れるとすれば、そのときを措いて他には考えられません。イスラム・カトリックの迫害を逃れて来たイスラム・プロテスタントの人々を受け容れる、あるいは安全地帯に送り届ける……これこそがイスラム世界に対して日本が果たすべき役割だと思うのです。そうなるまでは、極論を言えば傍観していて良いのです。
 安易な労働移民としてイスラム難民を受け容れるのは反対です。移民をどうしても受け容れたいのなら、まずは宗教観の近い仏教国などから受け容れるのが順序というものでしょう。タイミャンマーラオスカンボジアネパールなど、まだたくさんあります。欧米は文句を言うかもしれませんが、キリスト教とイスラム教はもともと兄弟宗教なのであって、日本人としては、兄弟の中でなんとかしてくれと言って良いはずです。
 いずれにしろ、いまのところ日本は、イスラム世界から見ると「敵の友人」くらいには見えているかもしれませんが、敵そのものとは認識されていないと思います。ISが脅迫してきたことはありましたけれども、日本国内のムスリムが不穏だということはないでしょう。このままイスラムテロが起きなければ良いのですが、そのための立ち位置や舵取りには充分な注意が必要です。

(2017.6.5.)

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