忘れ得ぬことどもII

13.不知火阿房列車

 内田百『阿房列車』シリーズの最後を飾る「列車寝台の猿・不知火阿房列車」は、松江興津へ行った頃から半年近くあと、昭和30年4月に旅行がなされ、同年10月からまた「週刊読売」に8回連載されました。8泊9日の、最後を飾るにふさわしい堂々たる大旅行です。
 まず最初にネタバレしておきますが、「列車寝台の猿」の「猿」は、現実の動物ではありません。百閧ェ出立前の晩の夢の中に猿が出てきて、しきりと寝巻の裾をひっぱるのですが、なんだか額が広くて人間のような顔をしていたそうです。それから旅に出ると、あちこちの列車で、その猿に似た顔の紳士に遭遇し、その紳士がやたらと百閧フ顔を見つめてきたというのです。寝台車で迎えた最後の晩、その紳士の顔をした猿が百閧フ夢に現れて、いきなりしゃべりはじめます。
 こういう神経症的な胸苦しい筋立ては、初期の『冥途』以来、百閧フ創作短篇ではお家芸のようになっています。また前々回に書いた、「現実と非現実(夢幻)の境目で、人ならぬものに遭遇し、理不尽にやりこめられる」という百閧フ怪奇小説の典型的なストーリーでもあります。そして、相手が一方的にしゃべり立てるだけでこちらは何も言い返すことができないというあたりは、絶筆となった「猫が口を利いた」でも使われた手法です。
 百閧ヘ創作ものでよく使っている手法を、『阿房列車』とフュージョンしたのでした。従って、この猿だか紳士だかわからない何者かが、実在したと考える必要はないわけです。前にも書いたとおり、文章は事実そのものとは無関係な、自立したひとつの世界だというのが百閧フ信念なのですから。
 本当にこの「何者か」が百閧スちのゆく先々に現れていたなら、同行者のヒマラヤ山系君こと平山三郎氏からもひとことあって然るべきですが、解題でも著書でも、平山氏はその「何者か」についてはまったく触れていません。
 猿にこだわったのは、この旅の途上で再度別府を通過し、「雷九州阿房列車」のときに高崎山の猿を観るの観ないのという話になったことを思い出したせいか、なんとなく全体的に猿にうなされていたのでしょう。
 いきなりネタバレしてしまいましたが、この稿では主に鉄道について語りたいので、余計な要素をはじめから排除しておきたかったためです。これから「列車寝台の猿」を読んでみようと考えているかたにはお詫びいたします。

 「列車寝台の猿」には、猿のモティーフの他に、ヒマラヤ山系君が持ち歩いたカメラのモティーフも繰り返し登場します。長い連載なので、いくつか連続するモティーフを用意したというところでしょう。山系君はこの旅ではじめて、ライカのカメラを知人から借りて持ってゆき、写真嫌いな百閧さかんに撮影します。
 ところが、こちらは文中でも早々とネタバレするのですが、フィルムを入れたときにどこかにひっかかってしまっていたらしく、全然フィルムが送られておらず、ネガは真っ白になってしまっていたのでした。これは本当のことで、現像を頼んだ写真屋に
 「何も写ってませんでしたよ」
 と言われて平山氏は茫然自失したそうです。この件については、先にタネを明かしておき、その後自信満々にシャッターを押し続ける山系君の残念ぶりを愉しんで貰う、という方針で書かれています。しかし、これもまた鉄道の話とは無関係なので、このあとはもう触れません。

 今回のファーストランナーは、「鹿児島阿房列車」と同じ急行「筑紫」です。このときのダイヤでは21時30分発でしたが、百閧スちはほぼ1時間前に到着して手持ちぶさたになっています。
 それで、赤帽に荷物を預けようということになりました。
 赤帽というのは、いまでは引っ越し配送会社の名前としか認識されていないでしょうが、もとは鉄道用語でした。駅に居て、旅客の大きな荷物を運ぶ有料サービスに従事する人、あるいはそのサービスそのものを指します。つまりはポーターなのですが、日本の鉄道ではわかりやすいように赤い帽子をかぶっていたので赤帽と呼ばれました。
 昔は多くの駅にたくさん居て、時刻表にも「赤帽の居る駅」という帽子の形をしたマークが、駅弁マークなどと並んでつけられていたほどです。6、7個くらいの荷物を同時に持ち運べたようで、重量も50キロくらいなら軽々と、最大80キロくらいまでは運んだのだそうです。私は残念ながら利用したことがありませんが、子供連れなどの場合には大変助かるサービスであったようです。鉄道ライターの梅原淳さんは大体私と同世代ですが、子供の頃に母親が赤帽を頼むのを見たとのこと。
 キャスター付きのスーツケースが普通になったり、大きな荷物はあらかじめ宅配便で送るのが普通になったりして、赤帽の需要はだんだん無くなりました。最後の赤帽は、2006年まで岡山駅で営業していたそうですが、その赤帽氏の隠退と共に、日本の鉄道からは姿を消しました。
 百閧スちが利用した昭和30年代は、赤帽の全盛期だったと言えましょう。百閧ヘずっと「交趾君」から上等な旅行カバンを借りて阿房列車の旅に持ってきていますが、東京駅で赤帽に預けたのははじめてかもしれません。その頃は1個につき10〜15円くらいの料金だったそうですが、その他にチップを渡す人も多く、稼ぐ人はチップだけでも月2万円くらいになったそうです。ちなみに、同時期の大卒銀行員の初任給が6千円くらいでした。

 「鹿児島阿房列車」のときに「筑紫」に後続していて、呉線を通るために乗り換えた急行「安芸」が、この時期のダイヤでは先に発車し、それから大阪行き普通列車が出て行ったあとへ、ようやく「筑紫」が入線します。デッキで赤帽から荷物を受け取ります。運んでくれるだけでなく、一定時間保管してくれるサービスでもあったようです。
 一等個室におさまり、恒例の見送亭夢袋氏の見送りに応対します。最初の「特別阿房列車」だけは逃しましたが、あと13回の出立はパーフェクトに見送っています。百閧ゥらはたびたび辞退していたらしいのですが、夢袋こと中村武志氏は百閧ニ似て、いちど決めたことは何がなんでも、意地にかけてやり通すという、やはり明治の男でありました。
 なお「夢袋」の名は、以前に中村氏が使っていたペンネーム「窓夢作(まど・ゆめさく)の「夢作」の部分を「夢サック」と読み替えて、サックを袋と訳して命名したものであるようです。平山三郎氏をモデルにしたキャラを飛騨里風呂と名づけている『贋作吾輩は猫である』では、中村氏モデルの人物は「句寒」と呼ばれています。こちらは「夢作」を「むさく」と読んで逆向きにしたのでしょう。そういえば「無策山人」と呼びかけている戯文もありました。百閧ヘ若い頃から、人にあだ名をつけるのが非常にうまかったそうです。
 プラットフォームに見送亭夢袋氏を残し、急行「筑紫」は定刻に発車しました。この時期には食堂車がついており、個室で窮屈な想いをしながら持参したお酒を酌み交わさなくても良かったようです。
 営業時間ぎりぎりまで食堂車に居て、個室に帰ってからもウイスキーをちびちびと飲み、なかなか寝るきっかけがつかめないようです。静岡を出たと思われる頃、急な臨時停車がありました。
 通りかかった列車ボーイに訊くと、線路に枕木が横たえてあったと言います。そのまま乗り上げたりしたら脱線するところでした。

 ひと晩寝て、百閧ェ起きると神戸近くでした。「筑紫」はまだまだ先へと走ります。
 姫路で、「鹿児島阿房列車」の頃には無かった現象が起こります。後続の特急「かもめ」に抜かれるのです。急行に乗っていて追い抜かれるというのは、この時期まだ珍しいことでした。東海道の昼行急行なら「つばめ」「はと」に抜かれることもあったかもしれませんが、百閧ヘ昼行急行にはほとんど乗っていませんから、このときの姫路駅が追い抜かれ初体験だったかもしれません。そのため、あとから来て先に発車してゆく「かもめ」に腹を立てています。
 この追い抜きのため、「筑紫」は姫路に12分も停車したそうです。蒸気機関車時代のダイヤは悠然としています。
 岡山では10分停車のあいだ、またプラットフォームに出て幼友達の「真さん」と会い、話をします。大好物の大手饅頭を貰って嬉しそうですが、自分では決して買わないのでした。駅売りのは贋物だと思っているのかもしれません。
 岡山銘菓の大手饅頭は、百鬼園随筆によく出てくるので、私も岡山に行ったときに買ってみました。ちょっとキンツバに近いような薄皮饅頭で、中のあんこが透けて見えるくらいに皮が薄くなっています。そんなにびっくりするほどの美味というわけでもないのですが、百閧ノとっては子供の頃から食べ慣れた懐かしの味だったのでしょう。大手饅頭になら押し潰されても良い、なんてことを書いていたこともあります。
 ヒマラヤ山系君はそのあいだに、駅売りのいろんなものを買い込んでいました。中に餃子があったのですが、百閧ヘそれまで見たことがなかったらしく、しばらく餃子談義をしています。

 ──「一体何なのだ。山羊の糞みたいぢやないか」
 「山羊はこんな糞をしますか」
 「僕は見た事がないから知らないけれど」


 このあたりの無責任な比喩も百鬼園流というものでしょう。

 春の日が暮れ、関門トンネルをくぐって九州に着き、このたびは小倉で下車し、2泊します。最初の晩はヒマラヤ山系君と差し向かいで飲み、翌日の午後、タクシーを呼んで若干の見物をします。
 目的地を訊かれ、
 「どこだっていいんだよ」
 などと答えるので、運転手は困惑したことでしょう。
 「どこかご見物でも」
 「見たい所なんかないから、構わずやってくれ」
 それで運転手がふたりを乗せていったのは、手向山でした。百人一首の「このたびは幣(ぬさ)も取りあえず手向山」の手向山ではなく、佐々木小次郎の墓のある場所だったのでした。
 吉川英治『宮本武蔵』朝日新聞紙上に連載されたのは昭和10年から14年のことで、大変な人気を博しましたから、ライバル役の佐々木小次郎の名前もこのころ人口に膾炙していました。小倉に観光に来た客に、佐々木小次郎の墓を見せれば喜ぶだろうと運転手が思ったのも当然です。
 しかし「史跡」の嫌いな百閧フこと、運転手が小次郎の墓に詣ってみないかというのをすげなく断り、そのままクルマを先に進めさせました。運転手はますます首を傾げたことでしょう。
 結局、道路用の関門トンネルの入口まで行って引き返したそうです。
 道路用のトンネルは鉄道用とは違う場所にあり、長さもだいぶ短くなっています。あまり知られていませんが、この道路トンネルは2段になっており、下段のほうは歩行者用になっています。つまり本州から九州へ(あるいはその逆も)、歩いて渡ることが可能なわけです。

 2晩目はお客がありましたが、翌朝はかなり早立ちなので、あまり遅くはならなかったかもしれません。
 たいてい午後にならないと動き出さない百閧ナすが、この「列車寝台の猿」では、2回ほど珍しい早立ちをしています。小倉からは8時発車の日豊本線の列車に乗り、2日後宮崎から出発した列車はなんと早朝5時47分発でした。阿房列車としては破天荒なスケジュールで、百閧ヘこの事態を避けるためにいろいろ時刻表をひっくり返したと思うのですが、この早立ちをしないとなると、たぶんあと2泊ほど旅程が増えることになったのでしょう。当時の日豊本線はいろいろと不便だったようです。
 前に大津を発ったときもそうでしたが、8時の列車に乗るのだから7時とか6時半とかに起きれば良い、という具合には百閧ヘゆきません。この朝も4時半に眼が醒めてしまいました。
 急行「高千穂」に乗り込みます。この列車は私が子供の頃まだ走っていて、乗ったことはありませんがなんとなく時刻表で見た記憶があります。日豊本線廻り西鹿児島(現鹿児島中央)行きの長距離急行で、私の知っている頃は鹿児島本線廻りの「桜島」と併結運転をしていましたが、百閧ェ乗った頃は「玄海」との併結でした。東京を午前中に出て大阪を晩に通り、山陽本線部分を夜行として走り、門司で「玄海」と切り離して小倉を朝に通るというダイヤです。東京発が10時と早すぎるので、いままで百閧ニは無縁でした。
 早起きしたので「高千穂」の座席に坐ってもあまり意識がはっきりせず、うとうとしたままです。ふと気づくともう別府で、ここで「雷九州阿房列車」のときの猿問答を思い出すのです。高崎山の猿を見に来たのか、と記者に訊かれて憮然としたあの一幕です。ただ、あるいはこれも、この篇を貫く「猿」モティーフの一環で持ち出したに過ぎない話題かもしれません。
 大分で機関車交換の長時間停車中「雷九州」のときに知り合った駅長と話したり、延岡『坊っちゃん』うらなり先生が転勤させられた地であることを思い出したりしながら、阿房列車は南下します。いままで九州にはずいぶん来ていますが、大分以南の日豊本線ははじめて通ります。
 15時26分、小倉から7時間半を経て宮崎到着。現在の特急「にちりんシーガイア」でも4時間半〜5時間を要する区間ですから、遠いわけです。
 宮崎は戦災都市で、この時期まだ復興があまり進んでいませんでした。そのせいで、なんとなく薄っぺらな感じがすると百閧ヘ書いています。泊まった宿も、それなりの由緒はある旅館なのですが、やはり被災して建て直したために、さほどの深みはなかったとか。

 宮崎で2泊します。最初の晩に新聞記者が来たので適当に応対していたら、翌朝帳場のおばさんが妙に親切だったり、法政大学時代の学生で当地で自衛官をしている人が会いに来たいと電話があったりしました。新聞を取り寄せて読んでみたら、百閧フ写真が出ていて、宮崎くんだりまで来たが知るべはひとりも居ない、と書いてあったのでした。親切な性分の人なら気の毒に思いそうな書きぶりであったとか。
 おばさんが琴を弾いてくれる(宮城道雄門下の師範だったらしい)話は鄭重に断り、自衛官の来訪はあとで打ち合わせることにして、百閧ヘ珍しく自発的に青島観光に出かけることにします。クルマを呼んで青島まで行き、半周だけしたところで疲れて戻ってきました。周囲1キロ半だそうですが、その程度歩くのもしんどいとは、平素どれだけ歩いていないのかとか、それより半周したのなら、引き返さずともそのまま進めば同じ距離で1周できたろうにとか、いろいろツッコみたい件はありますが、そのじれったさもまた百鬼園随筆の味です。
 宿に帰ると、自衛官はすでにいちど、打ち合わせを待たずにやってきていたとか。それで連絡すると、すぐにまたやってきました。ずいぶん早いと思ったら、ジープで乗りつけたようです。しかしなんだか、よく馴れた犬が尻尾をふってまとわりついてきているような感じでもあります。
 ひとりではなく、やはり宮崎在住の同学の先輩を伴っていました。自衛官のほうは百閧ェ法政大学で航空研究会の会長(顧問?)をしていたときの部員で、先輩のほうは新聞部員だったそうです。きっと懐かしかったでしょうし、積もる話もあったと思いますが、ふたりの元学生とその晩一緒に飲んだのか、それとも話だけして帰らせたのかは、「列車寝台の猿」の記述からだけではよくわかりません。

 その翌日が、5時47分発、阿房列車史上もっとも早立ちの列車です。いまのビジネスホテルのように、フロントで鍵だけ返してゆけば良いというものではなく、いろんな勘定の精算やら、クルマを呼ぶ手続きやらありますので、何人もの従業員が一緒に起きて立ち働かなければなりません。気の毒な仲居さんと、宮城流の師範であった帳場のおばさんに見送られて出立しました。タクシーの運転手にも詫びを言いましたが、彼らは交代制なので別に気にはしていなかったようです。
 まだ暗い中、西鹿児島行きの普通列車が発車します。なお、いまでも宮崎発5時37分鹿児島中央行きの普通列車が走っているので、この時間帯の運転需要は当時もいまも変わらずにあるのでしょう。
 走ってゆくうちにだんだん明けそめてゆく車窓風景など、寝台車で早い時間に眼が醒めたときくらいしか百閧ヘ見たことが無いでしょう。百閧ヘ朝日に映える高千穂峰を楽しみにしていましたが、あいにくと朝もやが濃く、進むうちにそれがはっきりと雲になり、遠くの山々などは見えなくなってしまいました。しかし都城を出たあたりで少し晴れて、わずかな時間ですが高千穂峰を仰ぐことができたようです。
 鹿児島着9時47分。上に書いたいまの一番列車では8時42分で、この1時間の差が蒸気機関車と電車の差というものでしょう。この区間、当時からいままで、特にスイッチバックが解消されたり短絡線ができたりといったことも無いようですから、純粋に動力の違いと思われます。

 当初の予定では西鹿児島まで乗ってゆくつもりでしたが、普通列車の中に伝言があり、鹿児島の管理局長から、鹿児島で下りて貰えまいかというのでした。自邸の庭をお目にかけたいというのが理由です。百閧ヘ億劫に思いましたが、断って西鹿児島まで行っても、次の列車を待つあいだ2時間ばかりぼーっとしているだけで、管理局長のお膝元でそれでは角が立つと判断し、招待を受けることにしたのでした。
 庭を見せて貰ったり茶菓をつまんだりしているうちに、百閧ヘ主治医から旅先で体重を測ってくるように言われたことを思い出します。管理局長にそのことを言うと、駅の重量計で測ったらどうかと提案されたのでした。当時は駅で小荷物の集配をしていたので、主な駅には必ず重量計が置かれていました。
 鉄道小荷物(チッキ)はいまの宅配便のはしりみたいなものですが、いま思えば相当な殿様商売でした。宛先の住所に運んでくれるわけではなく、最寄り駅に集積しておくだけです。荷物が届いても別に連絡があるわけでもなく、受け取る側のほうで、そろそろ到着しているだろうと思う時分に駅まで取りに行くのです。取りに行っても、まだ届いていないなんてことはしょっちゅうでした。私も子供の頃、吉祥寺駅だかまでチッキを取りに行った記憶があります。
 こんなやりかたでは、宅配便のサービスがはじまれば太刀打ちできるはずもなく、国鉄の小荷物扱いはあっさり姿を消しました。
 ともあれその小荷物を預かる際、重量によって料金が決まるため、重量計が必要だったのでした。百閧ヘもちろん着衣のまま重量計に乗り、その数字をメモして、帰宅してから衣服や靴、ポケットの中の雑多な品一切をまとめて秤(はかり)で計測し、鹿児島の数字からその結果を差し引いた重さを主治医に報告したのでした。

 ──この計算には間に凡そ千五百粁の距離が挟まってゐる。

 という文章が、なにげに余韻を引きます。

 朝が早かったので、宮崎から4時間半走って鹿児島に来て、管理局長宅にお邪魔したり駅で体重を測ったりしても、まだ午前中です。早起きをすると、午前中というのは長いものだと、私もちょくちょく感慨を催すことがあります。
 11時38分鹿児島発の急行「きりしま」に乗車し、4時間弱走って八代へ。八代駅の赤帽とはもう顔なじみだと書いてありますから、カバンを持って跨線橋を上り下りするのがしんどいから毎回利用していたのでしょう。八代程度の駅にも赤帽が居たことに驚きます。
 いつものように御当地さんの出迎えを受けて松浜軒へ。「雷九州阿房列車」の際、蛇が泳いでいた池が、前回の長崎阿房列車のときに涸れていたので、水を張っておいて貰うよう、予約の手紙を出したときに頼んでおいたらしいのですが、今回も水はやはり涸れています。支配人が弁解に出てきて言うには、これだけの広さの池に水を張るには、外から水を引かなければならないが、そんなことをすると近在のお百姓から文句が出るのだとのこと。松浜軒は八代城主の別邸なので、世が世なら殿様のご威光でどうにでもなったものを、昭和の、しかも戦後の御代ではどうしようもないのでした。
 がっかりした百閧ナしたが、その晩から雨が降り始めます。この旅では好天が続いていて、さしもの雨男も寄る年波(?)で神通力を失ったかと疑われていましたが、馴染みの八代に来てようやく調子を取り戻したようでした。
 雨は翌朝も降り続け、その後も降ったり止んだりしながら池の水位を見る間に上げてゆきます。殿様の威光で水を引くよりも、雨男ヒマラヤ山系君の神通力で雨水を貯めたほうが穏当でしょう。百閧燒梠ォげです。
 満足ついでに、珍しくタクシーを呼んで不知火海を眺めてこようと思い立ちます。八代では、城趾まで散策したのがせいぜいで、クルマまで呼んで「観光」に出かけたことはこれがはじめてでしょう。
 不知火海と名がついていますが、その名のもとになった不知火が見えるのは陰暦8月1日のことですし、昼間の雨空の下では見るべくもありません。灰色に曇った海面を見ながら百閧ヘ何を思ったでしょうか。
 不知火は日中照りつけられた海水が夜になって冷え込み、海面の温度に層ができて光るのだ……という説明を百閧ヘ受けていますが、それは有力な説のひとつであって、本当の成因は現在でもはっきりわかってはいないそうです。一種の蜃気楼現象であろうとは言われていますが、なぜ不知火海でしか見えないのか(有明海でもわずかに見えることがあるそうですが)など、謎はまだ残っているようです。江戸時代までは妖怪の仕業と考えられ、作家新田次郎氏の伯父である「お天気博士」藤原咲平夜光虫説を唱えました。ただ夜光虫による光とは色合いが違うのだそうです。世の中には、まだわからないことがたくさんあるものだと思います。

 雨はその晩からさらに強くなり、次の朝には池があふれるほどになってしまいました。ヒマラヤ山系君の神通力は、一旦発動するとおさまりがつかないようです。
 鉄道のダイヤもだいぶ乱れていましたが、幸い上り「きりしま」は定時に運転していると八代駅から連絡があり、百閧スちは松浜軒をあとにします。
 八代発は定時でしたが、この時代鹿児島本線にはまだ単線区間がだいぶあり、遅れている下り列車とのすれ違いのために、上り列車もどんどん遅れてゆくのでした。鳥栖では大雨警報が出て、しばらく動かなくなります。
 前回書いたように、2時間以上遅れると特急料金や急行料金が返金になるという規定があります。たぶん昭和30年当時も同じだったと思います。特急料金などは普通より早く目的地に着くための追加料金なのですから、遅れた場合に返すのは当然でしょう。この遅れぶりでは、もしかすると急行料金が返金になるのではないかとふたりは期待します。

 ──「博多からは又一等だから、二人分の急行税は相当なもんだ」
 「急行税ですつて」


 急行料金のことを、昔は急行税と呼んでいたことを、このくだりを読んで知り、私は驚いたものでした。しかし考えてみると、急行料金のおこりは、日露戦争後に疲弊した財政を助けるための増収策です。日露戦争より前は、急行だろうと最急行だろうと、また国鉄だろうと私鉄だろうと、利用者から急行料金をとるということはありませんでした。その意味では、現在の快速の扱いに近かったようです。
 徴収した急行料金はそのまま国庫に入ったのですから、まさしく税金にほかなりません。当初は急行税という言いかたが一般的だったのでしょう。
 しかし大正6年生まれの平山氏がその言いかたを知らなかったのですから、遅くとも昭和に入る頃には、急行税という言葉はとっくに廃れていたものと思われます。日露戦争は明治37〜38年ですので、急行税という言葉は、たぶん20年と経たないうちに急行料金と言い換えられていたようです。

 博多から一等寝台車に乗り換えます。これもいつものとおりですが、一等車は間もなく廃止されるらしいということを百閧ヘ書いています。しかし要らなくなった一等車を持ってゆく先があろうはずもないので、一等車の設備はそのまま連結して、一等料金を取らないことにするということではないかと推測しています。そうすると阿房列車の算段がだいぶ楽になる、とも皮算用しています。
 しかし同時に、廃止前だからか一等車にはボロ屋敷のようなボロ車が多い、とも書いています。つまり一等車の耐用年数がそろそろ切れていて、それらを廃車するにあたって一等車自体を廃止するということなのではないかとも思えます。一等車を愛し二等車を嫌った百閧ナすが、ここでは一等車について

 ──新造の二等車の様な気の利いたのはない。

 と書いており、二等車忌避症もだいぶおさまってきたことが偲ばれます。
 このとき乗った一等個室はとりわけひどく、カーテンはちぎれているし、扉の立て付けが悪くて勝手に開いたり閉まったりするし、灰皿の瀬戸物が壊れていて中に入った火消しのための水が滴るといったていたらくでした。
 また朝になってヒマラヤ山系君の言うことには、列車ボーイから
 「お連れのかたはまだお目覚めではないのですか? もう起きていただかないことには。ほかのお客が乗ってくるかもしれませんし」
 と言われたとのことでした。

 ──「だつて二人きりのコムパアトへ外のお客が来るわけがないぢやないか」
 「不愉快だから返事をしてやりませんでした。馬鹿にしてゐますよ」
 廃止前の一等車は、ぼろ屋敷のぼろ車であるばかりでなく、ボイの接客態度も廃止前になつてゐるのだらう。


 旅費の算段が楽になるかも、とは考えたものの、そろそろ阿房列車も潮時かな、と百閧ヘこのとき思ったかもしれません。
 急行に連結されていた一等寝台車が、揃って二等寝台車に格下げされたのはそれからすぐのことでした。「列車寝台の猿」が週刊誌に連載された頃には、もうそうなっていたはずです。これにより一等車は特急「つばめ」「はと」に連結されている座席車だけになりましたが、それも5年後の昭和35年、両特急が電車化されるにあたって運用を廃止されました。
 以後、それまでの二等車を一等車、三等車を二等車と呼び替えた2クラス制となりますが、それも昭和44年には現在のモノクラス制に移行します。内田百閧ェこの世を去る2年前のことでした。

 『阿房列車』のシリーズはこれでおしまいです。
 しかし、八代の松浜軒にはこのあと何度も足を運んでおり、その都度旅行記を書いています。いつも平山氏を帯同しており、それらの旅行記でもヒマラヤ山系と呼んでいますので、阿房列車に準ずる作品と考えてもよいでしょう。
 次回、それら「阿房列車以後」の内田百閧フ旅行について、同じように探訪してみたいと思います。

(2017.5.26.)

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