忘れ得ぬことどもII

7.雷九州阿房列車

 昭和28年6月22日、小雨の降る中、ヒマラヤ山系君内田百の家を訪ねます。
 百閧ヘこのとき山系君のことを「不世出の雨男」と呼びます。他のところでも「天の成せる雨男」などと呼んでいます。この前の「春光山陽特別阿房列車」で、八代に着いたときに大雨にあたって、つくづくと山系は雨男だと感嘆したのが最初で、このあとの篇ではほとんど神通力持ち扱いされています。
 確かに、これまでの阿房列車も、異様なほどに降雨確率が高い気がします。あらためてまとめてみると、「特別阿房列車」では最初から雨が降っています。途中で止んだらしく、翌日の帰途は天気が好かったようです。「区間阿房列車」では大船あたりから雲行きが怪しくなり、国府津駅で2時間待つうちに土砂降りになっています。
 「鹿児島阿房列車」では最初の頃は好天なのですが、広島に着くあたりから雨模様になりました。幸い翌日は晴れましたが、鹿児島に着いた2日目にも通り雨に遭っています。しかしまあ、この時はケイト颱風にぶつかるのを心配しながら出かけたわりには天気には恵まれたほうでしょう。
 「東北本線阿房列車」「奥羽本線阿房列車」は雨が多い旅行でした。出発のときから雨です。その雨は宇都宮あたりで一旦止むのですが、福島の宿で眠りに就いた頃、また降ってきました。翌日はだんだん晴れたようですが、盛岡の2日目にはまた降られています。次の2日間は降らなかったものの、秋田に着いた頃からまたまた降りだし、横黒線の往復はずっと降りどおし、横手でひと晩過ごしてもまだ降り続け、山形でようやく晴れたかと思ったら、仙台で泊まったあとまた大雨に遭っています。この東北旅行で、百閧ェちょくちょく心細そうなことを書いているのは、氷雨に降り込められることが多かったからかもしれません。
 「雪中新潟阿房列車」のときは、さすがに雨には遭っていません。しかし初日は東京からして雪空でした。「雪解横手阿房列車」では、まだ雪が降っていても良さそうなのに、3日目の朝から小雨が降り出しました。ただし、再度の横黒線往復の途中で吹雪になりました。
 「春光山陽特別阿房列車」では、最初は好い天気だったのに、広島を過ぎたあたりから雲が出て、博多に着いたら本降り、翌日も八代に着くまで土砂降りでした。

 こうしてみると、確かにほとんどの旅で雨に遭っています。長い旅の場合はどこかで雨模様になるのは仕方がないかもしれませんが、2泊3日程度の短い旅でも、決まって雨に遭うというのは、百閧ゥ山系か、どちらかが雨男であることは間違いなさそうです。
 百閧ヘ疑いもせずヒマラヤ山系君を雨男認定していますが、山系君こと平山三郎氏は、そういえば先生が一緒のときはいつも雨が降るな、と思っていたそうです。お互い相手のせいだと思っていたらしいのが笑えます。
 どちらが本当に雨男だったのか、それはこの次の「長崎の鴉・長崎阿房列車」で判明します。
 それはともかく、今回の「雷九州阿房列車」では、雨男がどうとかではなく、何十年ぶりかの集中豪雨災害に見舞われた九州に出かけていったのですから、雨に遭わないほうがむしろおかしいかもしれません。そうでなくとも九州の梅雨は、関東地方の梅雨のようにしとしとと降り続けるのではなく、土砂降りの豪雨になることが多いので、6月下旬なんて時期に九州に向かうのがそもそも無謀だったとも言えそうです。
 小雨のしと降る中、ふたりはタクシーで東京駅に向かいます。市ヶ谷から東京ですから大した距離ではありませんが、最初の頃は国電を使っていたはずです。タクシーに乗るようになったのは、往来にタクシーが増えたからだと百閧ヘ弁明していますが、最初の阿房列車からは2年半余りしか経っていません。そのあいだにクルマがずいぶん増えたらしいのは、この時分の戦後復興の勢いを感じさせます。

 今回のファーストランナーは、九州からの帰りにいつもお世話になっている「きりしま」です。東京から乗るのははじめてでしょう。
 一挙に八代まで行くので、昼間の出発になります。東京から八代までは25時間45分くらいかかったようですので、いつものように夜の列車に乗ると、着くのが遅すぎるのでした。それにしても、何度か話題にした長距離鈍行はもとより、急行でも一昼夜以上走り続けるのがあったとは、在来線が短距離列車ばかりになったいまから考えると、羨望を禁じ得ません。「きりしま」は鹿児島まで行くはずですから、走行総時間はさらに数時間長いでしょう。
 この当時の東京発は12時35分、特急「はと」の5分後の発車です。百閧スちは1時間近く早く着いてしまったようで、手持ち無沙汰をかこっています。「はと」もまだ入線しておらず、「きりしま」の入るプラットフォームには「区間阿房列車」の最初に乗った正午発の米原行き普通列車が発車を待っています。それが出発して、反対側に「はと」が入線、それからようやく「きりしま」が入線しました。早々に一等車に乗り込みます。
 個室寝台をとってあるのですが、昼間のうちは息が詰まりそうなので、座席車のほうに乗ることにしました。個室は「独房のようだ」と書いています。のちのA個室寝台がよく独房と言われていましたが、してみると当時の一等個室寝台も似たようなものだったと思われます。
 一等の座席に坐るにあたって、百閧ヘ列車ボーイに
 「昼間のうちはこっちに居たいと思うのだが、空いているかね」
 と訊ねています。ボーイは
 「どうぞ、どうぞ、空いております」
 と言って手持ちの布巾でテーブルを拭いたそうです。
 何度も考えていますが、やはり一等車というのは指定席制ではなかったのだと思われます。二等車については指定席がありそうだったり、そうでもなさそうだったり、読む篇ごとにいろいろわからなくなるのですが、少なくとも一等車は定員制のような形だったことは間違いなさそうです。そうでなければ、こんな融通は利かせられないでしょう。
 乗車してからも時間があるので、百閧スちはアイスクリームを食べ、まだ来ていない見送亭夢袋氏の分まで用意しました。ほどなく現れた夢袋さんは喜んで食べるのですが、それを見ていて、見送りを奨励しているように誤解されたのではないかと百閧ヘ気を回しています。

 早起きしたのに、朝からまだレモン汁と牛乳しか飲んでいなかった百閧ヘ空腹を覚え、早速食堂車に繰り出します。ただし、昼間のうちはお酒を飲まないというのが主義であるようで、炭酸水だけ飲んで軽い昼食を済ませます。もちろん、夕方以降にもういちど来て、腰を据えてお酒を飲む魂胆です。
 私の食堂車体験はごく少なく、「北斗星」が走っていた頃にパブタイムとモーニングタイムに食堂車「グランシャリオ」に行ったことが何度かと、あとはだいぶ昔の新幹線で、自由席車があまりに混雑していたためしばらく食堂車に避難したということがあったくらいだと思います。何しろ値段が高くて、そうおいそれとは行けませんでした。
 昭和20年代といえども、食堂車のメニューは街の食堂で食べるよりは高かったと思います。実際百閧ヘ「列車食堂の為に辯ず」という文章を書いて、「まずくて高い」と批判される食堂車を擁護しています。本来の座席の他に食堂車の席を一定時間占拠するのだから、その分の値段が加算されていて当然だ、という論拠には納得させられました。
 そうは言ってもやっぱり高く、なかなか行けないうちに、食堂車はほぼ絶滅してしまいました。気軽に何度も食堂車に出かける百閧うらやましく思うばかりです。ともあれ、食堂車のボーイ長に、晩の席の予約を頼んで、このときは短時間で引き返すのでした。
 そのあと、静岡から知り合いの駅長さんが乗ってきて、しばらく話し込みます。その話題の中に、日本坂トンネルのことがありました。
 現在の東海道本線には日本坂トンネルというのはありませんが、新幹線が走っている日本坂トンネルに、この当時は在来線である東海道本線が走っていました。このあたりの事情、私もWikipediaを何度か読み直さないと理解できなかったのですが、かいつまんでご説明すると……
 最初に東海道本線のトンネルとしてここに作られたのは、石部トンネル磯浜トンネルというふたつのトンネルでした。この両トンネルはごく接近していて、出たと思ったらちょっとだけ海が見えて、すぐに次のトンネルに入るという按配でした。駅長さんにその憶えがありませんかと問われた百閧ヘ、大きくうなづきます。

 ──それは大ありで、さう云はれたら、トンネルとトンネルの間で海が光つた景色を、今でも瞼の裏に見る様である。

 そのトンネルは口径が小さくて、客車は通れても、大きな貨物列車を通すことが難しかったようです。
 おりから弾丸列車(のちの新幹線)の計画が起こり、いくつかの設備の工事が着手されました。そのひとつに日本坂トンネルがあったのです。トンネルは昭和19年1944年)に開通しましたが、当面弾丸列車が走る見込みは無さそうだったので、在来線を通して輸送力の増強を図ったのでした。
 だから阿房列車がはじまってからは、毎回新トンネルを通っていたはずなのですが、百閧ヘ気づかなかったようです。下りに関しては、「特別阿房列車」のときはたぶんそのあたり食堂車で一献していたし、あとは夜行列車ばかりだったので気づかなくとも仕方がありませんが、上りでは昼間に通ったこともあったはずで、沿線の景色を全部憶えていると豪語していた百閧ノしてはうかつな話と言えたかもしれません。
 百閧ヘ、不要になった前のトンネルが気になってならないようでした。バスが通っていると言われ、

 ──バスなぞ通さなくていいから、東京へ持つて来て、何とかしたい。古トンネルとして売つてもいいし、地下鉄の工事に使へばその儘役に立つだらう。私の郷里岡山の喧嘩言葉に、「くやしかつたら井戸の穴を背負つて来い」と云ふのがある。

 とさまざまに思案するのでした。このくだり、宮脇俊三氏が妙に気に入ったようで、自著の中に幾度も引用しています。
 ちなみにその後、新幹線の工事がはじまると、日本坂トンネルは新幹線用となり、在来線は旧石部トンネルを改修してそちらを通すことになりました。改修と言っても、ほとんど新しく掘るようなもので、磯浜トンネルとは結合されました。それでも、百閧フ心配した古トンネルは、昭和37年(1962年)以降、いちおうちゃんと再び列車が走るようになったわけです。百閧煦ネて瞑すべきでしょう。
 それにしても、使われなくなったトンネルを地下鉄工事に役立てるという発想は良いですね。面白い落語でも聴いているような気分です。

 晩の一献ははたして長居となり、いつ切り上げたのかもはっきりしなかったようです。京都駅を個室寝台で見た記憶はあるとか。
 その後眠って、真夜中に停まった郷里岡山ではちゃんと眼を醒まし、本式に起きたのは小郡を過ぎたあたりだったのでしょうか。山系君はひとあし先に起きて、食堂車に朝食をとりに出かけていました。百閧ヘ基本的に朝食は食べません。
 その百閧フ眼に、稲光が走ります。九州豪雨の開幕を告げるような稲光でした。百閧ヘ雷が心の底から怖いそうで、他の随筆や小説でもしばしばそのことを書いています。本来は音が怖いようですが、列車に乗っていて音が聞こえない状態でも、稲光が走ると気分が悪くなるのでした。
 博多で一等車は切り離されるので、百閧スちは二等車に移りました。しかし二等車が混雑しているので、博多から乗ってきた昔の学生とは、食堂車で話をしたそうです。
 雨は久留米を出たあたりで一旦止みましたが、列車の進む先の空は暗く淀んでおり、間もなく再び降りはじめました。
 八代に着いた頃は大雨です。3度目になる松浜軒の座敷に落ち着いてホッとしましたが、夜中になって、庭の池のほうに変な光り物があるのに気がつきます。蛍にしては大きいし、しかも動きません。結局なんだかわからなかったのですが、

 ──後になつて、水伯の目玉ではなかつたかと思ふ。

 と百閧ヘ書いています。水伯というのは、辞書には「水神」と説明していることが多いですが、確かに神性は持っているものの一種の化け物です。「雷九州阿房列車」の前章はここで終わっていますが、初期の怪奇小説集『冥途』を髣髴とさせるような不気味な幕切れでした。

 1泊して八代の朝は、雨も止んですがすがしい天気だったそうですが、松浜軒の池に異変が起こっています。小さな蛇が何匹も、鎌首をもたげて泳いでいたというのです。どう考えても天変地異の前触れです。
 午後の普通列車で八代を発って、熊本に移動します。この日の移動距離はごく短いものでした。
 熊本では学生時代からの友人と飲み交わします。いままで阿房列車に登場した人たちは、駅長さんとか管理局のえらい人とかは別として、基本的には百閧先生先生と立ててくれる連中ばかりです。昔の学生であったり、ヒマラヤ山系君の友人であったり、愛読者であったり。新聞記者の中には慇懃無礼な感じのも居ましたが、それでもいちおうは百閧ゥら見ると目下になります。
 百閧ニ同格の登場人物は、当時熊本大学の学部長をしていたというこの旧友がはじめてです。まあその前に岡山の真さんという人が居ましたが、こちらはちょっぴり顔見せという趣きでした。
 旧友はこれまでの相手に較べ、遠慮無く百閧ノツッコミを入れるので、百閧烽スじたじの様子です。前に百閧訪ねたときの記憶が百閧ニ食い違い、しばらく言い争ったあげく、
 「一体君の書く物を見ると、過去の記憶は確かな様で、敬服してゐたのだが、さうでもない様だね」
 と容赦ないツッコミを放ちます。百閧ヘ弁解するように、

 ──「過去の記憶が確かだと自任した覚えはないが、書いた物には僕の思つた通りに辻褄が合はせられるから、だから読む方でさう思うのだらう」
 「辻褄を合はせるのかね」
 「意識して合はせるわけではないよ。しかし自分一人だけの頭の中では、自然にさうなるぢやないか。君みたいに一一、人の記憶と違つた事を云ひ出す相手がゐなければ、事は簡単に纏まる」
 「さうかな、ふふふ」


 百閧フ随筆には昔の想い出を扱ったものが多いのですが、ここではしなくも、一種の種明かしをしたような感じになりました。

 酒宴の最中からまた雷雨となり、翌日は朝から土砂降りです。ハイヤーを走らせて熊本城の見物に行きましたが、とてもクルマから下りられる状態ではなく、石垣と門を見ただけで引き返しました。熊本駅に着いて下りるのもひと苦労です。駅に入っても、プラットフォームのかなり内側まで雨しぶきが打ちつけてきて、えらい騒ぎでした。豊肥本線の列車に乗り込んでようやくひと息つきます。
 豊肥本線に乗ることにしたのは、車窓から阿蘇の噴煙を眺めて雄大な気分にひたろうということだったようですが、この大雨では望むべくもありません。不世出の雨男が目の前に居る以上仕方がない、と百閧ヘ諦めています。
 景色もにじむような豪雨に降り込められたまま、のろのろと列車は走ります。豊後竹田駅でしばらく停まっているあいだ、駅のスピーカーから当地出身の作曲家瀧廉太郎「荒城の月」が流れました。4番まで全部流れたようで、百閧ヘ全歌詞を引用しています。雨に煙る田舎駅の悲哀をおびた雰囲気をそれで表現したのでしょうが、いまならJASRACが黙っていなかったかもしれません。
 車窓の景色などほとんど見ることができないまま、それでも列車は遅延することなく、定刻19時16分に大分に到着します。大分に着くや否や、百閧ヘ新聞記者に取り巻かれるのでした。
 ヒマラヤ山系君が、行く先の管理局などに頼んで宿をとって貰っているので、百閧スちの旅程はメディアにも筒抜けになってしまっていたのでした。
 例によって、着いたばかりの百閧ノ向けて「当地のご感想は」の質問が飛びます。それから、
 「猿を見に来られたのですか?」
 と言われました。百閧ェ面食らっていると、
 「高崎山の猿を見に来られるはずだという記事が、この間の新聞に載っておりました」
 どうも情報が歪められて伝わっているようです。事前に情報を漏らした管理局の人間が適当なことを言ったのかもしれません。
 「百闔≠ヘ、何をしに大分に来られるのでしょう?」
 「さあ、詳しくは聞いてませんが、おおかた高崎山の猿でも見に来られるのではないですか」
 というような会話があったかと想像されます。そもそも阿房列車には目的など無いということが……というより、鉄道を乗りまわすこと自体が目的の旅行というものがあるということが、当時まだまだ一般には認知されていなかったということなのでしょう。
 見てもいいけれど、明日のお天気次第だ、とごまかして切り上げます。もともと百閧ヘ猿が嫌いなようです。似た顔の人間を思い出して不愉快になるからだと言っていますが、人間に近い動物ほどかわいげが無くなるという感覚は、わからないでもありません。猿自慢の大分の人たちを慮って、はっきり嫌いだとは言えない様子が、微妙にじれったい気がします。

 クルマで別府まで走って宿に泊まります。百閧ヘ温泉地を好まない旨をまた文中であれこれとぼやきます。宿に着くと、仲居さんがすぐにお風呂に入れと言います。雨に降り込められ、稲光に脅かされてからだが凝り固まっているので、普通ならお風呂で心身をほぐそうということになるわけですが、百阯ャの考えかただと、凝り固まっているからこそ、お風呂よりも何よりもまずお酒を飲んでリラックスしたいということになるので、お風呂はいいからすぐお膳を出してくれるよう頼むのでした。温泉宿でお客にそんなことを言われては、仲居さんも困ったことでしょう。
 それですぐに一献をはじめますが、途中で落雷一閃、停電で真っ暗になってしまいます。昔はしょっちゅう停電があったものでした。百閧烽サこは予測していて、旅行にはいつも懐中電灯を持って出かけます。このときもすぐに懐中電灯を点けて、その灯りで酒宴を続けました。それはそれで趣きがあって楽しめたようなので、何よりです。
 2日目の夕方になって、百閧ヘようやく温泉に漬かろうと思い立ち、仲居さんにそう言いましたが、豪雨で樋に砂が入ってしまい、浴室は使用不可能になってしまっていました。拍子抜けだったでしょうが、百閧ヘむしろ温泉に漬からずに済んだことでホッとしたかもしれません。
 九州各地の鉄道網はあちこちで不通箇所が出ていましたが、幸い百閧スちが別府を発つ日には、日豊本線は復活していました。念のため早めに別府駅に出かけたところへ、折り良く東京の見送亭夢袋氏から電話がかかってきます。個人宅には電話などまだあまり無かった頃ですが、駅の事務室には当然ながら必ず設置されていました。夢袋さんが旅先に連絡してきたのは、全阿房列車を通じてこの一回だけです。九州の鉄道の寸断状態が報じられてさすがに心配したのでしょう。携帯電話で簡単に連絡のつくいまでは想像もつかないほど、情報伝達が大変だったのです。電話はヒマラヤ山系君が応対しましたが、距離が長いので相手の声が蚊の鳴くような弱々しさに聞こえたそうです。
 準急に乗って日豊本線を走り、小倉に抜けます。百閧スちが通ったあと、日豊本線は再び不通になったようで、百閧スちだけを通してくれたような按配でした。
 小倉からひと駅乗って門司へ。いつもの「きりしま」が、このときは門司で折り返し運転をおこなっていたのでした。
 門司から「きりしま」に乗り、関門トンネルを抜けて本州へ渡り、これでもう大丈夫だろうと百閧ヘ安心します。しかし、その後幡生厚狭のあたりも豪雨となり、山陽本線のそのあたりも不通になってしまいました。関門トンネルにも水が入ってしまい、とうとう門司にさえ行けなくなってしまったのです。
 こんな騒ぎの中、百閧スちはおおむね予定どおりに動けたようで、なんだかかえって申し訳ないような気持ちになるのでした。「雷九州阿房列車」ではなく別の随筆ですが、やはりこの時のことを書いた「雷九州日記」に、

 ──どこかで、だれかが、どこまで悪運の強いくそぢぢいだらうと云つてやしないかと云ふ気がしない事もない。

 と書いています。

 「小説新潮」誌上での阿房列車掲載はこれで終了です。昭和29年1月に、「雪中新潟阿房列車」から「雷九州阿房列車」までをまとめた単行本『第二阿房列車』が、『阿房列車』と同じ三笠書房から刊行されました。
 夏目漱石門下の「兄弟子」であった安倍能成が読後感を書いていますが、その文中、

 ──内田君は前にも日本郵船の嘱託か何かをし、今も鉄道公社の何からしい。

 と誤解したことを書き、百閧ゥら抗議のハガキを貰ってのちに訂正します。なお鉄道公社というのはもちろん国鉄のことで、戦後「鉄道省」ではなく専売公社・電電公社と共に公社化され「三公社」という言われかたをしたので、当時そんな呼び名で呼ばれたりもしていたようです。用もないのに一等車や寝台車にしょっちゅう乗って遊山旅行をしているので、きっと国鉄の嘱託か何かになって、その職を利用してやっているのだろうと考える人も少なくなかったのかもしれません。

(2017.5.20.)

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