忘れ得ぬことどもII

5.雪中新潟・雪解横手阿房列車

 「小説新潮」昭和27年6月号内田百「奥羽本線阿房列車 後章」が掲載され、早くもその7月には、それまでの阿房列車シリーズをまとめた文集が『阿房列車』として三笠書房から出版されました。一冊の分量がたまるのを見計らっていたかのようなタイミングで、校正刷りなども連載中にすでに組んでいたのかもしれません。
 単行本『阿房列車』は好評をもって迎えられました。内田百閧ニいう作家は、元来そんなにバカ売れするようなタイプではなく、さほど多からぬ熱狂的愛読者に長いあいだ支えられるというような作風だと思うのですが、『阿房列車』はそれまで百閧ノ興味の無かった層も掘り起こした模様です。そのひとりが宮脇俊三青年でした。
 潜在的な「鉄」は世の中には案外多いので、このひたすら汽車の豪華座席に乗ってお酒を飲みまくるだけのシリーズに、心を動かされた人も少なくなかったのでしょう。自分では忙しくてお金もなくて、こんな優雅な旅行はできないと思っても、それをやってきた人の話を読むだけでも充分愉しめるものです。
 その功績(?)が認められたのか、百閧ヘその年10月におこなわれた国鉄の80周年記念イベントで、名誉東京駅長を拝命します。元来そういう子供だましみたいな趣向は好まない人だったのですが、名誉駅長の任務のひとつに、特急「はと」の出発合図を下すというのがあって、つい引き受けてしまったというのだから、やはり根っからの鉄道マニアであったようです。
 しかも、大好きな「はと」が発車するのを便々と見送ってなぞいられるかというので、だいぶ前から悪だくみをもくろみ、発車と同時に展望車のデッキに飛び乗って、急遽熱海まで視察に出かけるというサプライズを仕掛けたものでした。昔の客車はそういうことができたのです。ことの次第は『無伴奏』という文集に所収の「時は変改す」という随筆に詳しく書かれています。
 この日は百閧熨蛯「に愉しんだと思いますが、その前後、例の持病パロクシスマーレ・タヒカルディーが発症して、しょっちゅう発作が起こって苦しい想いをしていたようです。そんなこんなで、昭和27年には阿房列車の旅はしていません。
 ヒマラヤ山系君こと平山三郎氏は、本もできたことだし、もう阿房列車の旅に付き合わされることもないだろうと安堵していたようですが、昭和28年が明けた頃、再び開始されます。
 2月22日から24日の2泊3日で新潟へ、帰ってきて同28日から3月2日まで、やはり2泊3日で横手へ。
 いずれも雪見をテーマにしており、目的地がピンポイントで、その紀行文「雪中新潟阿房列車」「雪解横手阿房列車」共にいわば短篇の趣きがありますので、今回はこの2篇をまとめて探訪してみたいと思います。

 『第二阿房列車』の開幕を告げる「雪中新潟阿房列車」は、前置き無く急行「越路」の車中からはじまります。百閧ヘその出足の速さに驚いています。文章もそれに連れて、テンポ良く進んでゆく観があり、いつもの長思案は見られません。清水トンネルを弦楽器の駒に見立て、上野から新潟に向かう線路を弦に見立て、

 ──大きな、飛んでもない大きなソナタを、この急行列車が走りながら演奏してゐる。(中略)……雄渾無比な旋律を奏しながら走つて行く。レールの切れ目を刻む音にアクセントがある。乗客はその迫力に牽かれて、座席に揺られながらみんなで呼吸を合はせてゐる様に思ふ。

 このくだりは『阿房列車』全篇の中でも私の好きな一節です。自分が音楽家だから、音楽になぞらえたところが好きだというのではありませんが、このあたりの、短い文がリズミカルに続いてゆくテンポ感がたまらないのです。読むだけでも、急行「越路」のスピード感がそのまま伝わってくるような気がします。「越路」は7輌編成で、東海道本線の急行などに較べると半分以下の連結数でしかなく、そのため加速が大きくなっていたのでしょう。
 「越路」を牽引するのは当時最新式の電気機関車EF58で、それまでの機関車は暖房車を連結しないと客車の暖房ができなかったのに対し、これは機関車の中で暖房操作ができるという劃期的なものでした。特に寒冷地向きには重宝したでしょう。ただ、初期故障が多いのが鉄道技術の常で、EF58もしょっちゅう故障を起こして暖房が機能せず、「冷凍機関車」と悪口を言われたとか。この日も故障していたようです。
 なおこの朝、東京でも雪が降ったそうで、途中から車窓が雪景色に変貌するのを楽しみにして出かけてきたのに、最初からずっと雪に覆われていて、百閧ヘ拍子抜けしたようです。確か宮脇俊三氏の作品にもそういうのがありました。まあ、なかなか物事は思うように運ばないものだということで。

 「越路」は雪化粧の関東平野を驀進します。群馬県に入ると、上州の山々が近づいてきますが、その山容はあまり百閧フお気に召さなかったようで、

 ──遠景を屏風の様に仕切つた山山の頂は、所所雪をかぶつてゐるだけで、黒い山肌が青空に食ひ込んでゐる。その山の姿がをかしい。見慣れない目には不気味に見える。熊谷、高崎辺りの景色を眺めてゐたら、少し寒気がする様な気持になつた。
 ──ごつごつしてゐて、隣り同士に列んだ山に構はず、自分勝手の形を押し通さうとしてゐる。尖つたの、そいだ様なの、瘤(こぶ)があるの、峯が傾いたの、要するに景色と云ふ様なものではない。巨大な醜悪が空の限りを取り巻いてゐる。
 ──富士の裾野に続く連峯、京都から先の山城摂津の山容とは丸で違ふ。


 と、かなり執拗な悪口を書いています。上州三山などは、百閧フ眼にはちっとも名山とは映らなかったようです。百閧フ考える風景というのは、やはり幼い頃岡山で見ていたような、褶曲山脈のなだらかな山容なのでしょう。
 やがて渋川を過ぎると、雪が降りしきりはじめます。深い谷間にさしかかると、雪が下から降るように見えるのを百閧ヘ面白がります。
 そして清水トンネル。丹那トンネルはしょっちゅう通っており、この前の「奥羽阿房列車」で、仙山線面白山トンネルを通ったので、これで(当時の)三大トンネルを全部通ったことになると百閧ヘご満悦です。清水トンネルはこの当時は日本最長でした。北陸トンネルの開通によってその記録が打ち破られるのは、このときから9年後の昭和37年のことです。
 清水トンネルの前後にはループ線があり、これはいまでも健在です。ただし上越線の輸送力増強のために掘られた新清水トンネルを通る場合にはループ線を通りません。下り列車が新清水トンネルを通るので、いまループ線を見ようとすれば上り列車に乗るしかなく、しかも上越新幹線の開通以来この区間を走る列車は激減しました。1日に5往復かそこらです。上越線のループ線は、なかなか見られない車窓風景となりました。
 しかし百閧ェ通った頃は、まだ単線で、下り列車からでもループ線を眺められました。ただ、外は雪、中はスチームの湯気で、窓ガラスが曇っていてろくに外が見えません。故障していたEF58は高崎で付け替えたらしいので、このあたりでは申し分なく暖房が入っていました。
 百閧ヘそんなこともあろうかと、アルコールの入った壜とガーゼを持ってきて、窓が曇るたびに拭いていたので、坐っている座席のところの窓だけは透き通っているのですが、ループ線を眺めるためには前後の景色を見なければならず、そのためには他人が坐っているところの窓を拭きに行かなければなりません。「鹿児島阿房列車」のときに肥薩線でループ線を見て堪能したらしい百閧ナしたが、上越線のループは見そこねてしまったようです。

 電化されているのは長岡までだったようで、そこで蒸気機関車に付け替え、日暮れ後の新潟に到着しました。
 百閧ェ下車しようとすると、いきなりカメラのフラッシュが光って、周囲が見えなくなったそうです。この頃から、百閧ヘ旅先で新聞記者などにつきまとわれることが多くなります。『阿房列車』がベストセラーになったのだからそれもやむを得ないことでしょう。
 このときの記者も同様ですが、このあとの阿房列車で登場するどこの記者も、到着したばかりの百閧つかまえて、当地のご感想は、ということを訊くのが笑えます。着いたばかりで感想も何もあったものではないだろう、とは読んでいてもわかるのですが、記者というのはそれでもそういうことを訊かなければいけない仕事なのでしょう。
 この新潟の記者は、さらに言うに事欠いて
 「阿房列車の取材ですか?」
 などと訊くので、百閧燒ハ食らっています。

 ──「それは家に帰つて、机の前に坐つてからの事で、今ここでかうして君のお相手をしてゐる事と丸で関係はない」
 「でもさうなのでせう」
 「さうでないと云ふ必要もないし、さうだと考へる筋もない。要するにそんな事は、後の話さ」
 「さうですか」
 「帰つてからの事だよ」


 百閧ヘ一貫して、「事実」を書くだけの文章というものを否定しています。文章はそれ自体が自立した世界であって、「事実」とは無関係であるというのが百閧フ文学的スタンスでした。例えば人から葉蘭の鉢を貰った。その葉蘭を描写しようと考えたところ、点景として、その葉蘭の下に狐を一匹配するのが効果的だと思えた。それで文中に狐を登場させたのだが、それはもちろんフィクションなのに、その文章を見て、狐を飼ったそうだから見に伺いたいという人が何人も居て閉口した……という話を講演でしゃべっています。大事なのは、狐が本当に居るか居ないかではなく、その文章の上で狐を登場させたのが効果的であったかなかったかだけだというわけです。
 明治以来、自然主義が主流であった日本の文学においては、こういう考えかたはいささか異端だったと言えるでしょう。読者のほうも馴れておらず、狐を飼ったなどと嘘を書いて……という具合に批判する人が居たのだと思います。
 『阿房列車』の中でも、百閧ヘ自由自在にフィクションを織り交ぜているのであって、例えば「区間阿房列車」大磯にさしかかった頃に山系君と交わす捧腹絶倒の会話があるのですが、この会話は実は旅行から帰った後に交わされたものだと、平山三郎氏自身が証言しています。面白かったので旅行中の会話として挿入したのでした。
 こういう執筆態度の百闡且閧ノ「取材」という言いかたはいかにも不見識であり、この記者は百闕品などほとんど読んでいなかったであろうことが窺われるのです。
 ただ、この当時「取材旅行」というような言葉が、モダンなものとして流行していたのは事実であるようで、記者もその流行にちょっと便乗してみたというところかもしれません。

 新潟に2泊し、1泊目は百閧フ昔の学生夫妻と、2泊目はその元学生に加えて国鉄の新潟管理局の人たちと飲んでいます。百閧ヘ鉄道関係の人たちと飲むのが大好きだったようで、基本的には人嫌いで人見知りで容易に他人に心を開かないのに、相手が鉄道人であれば初対面でも屈託無くお酒を酌み交わせたのでした。昭和17年に、最初に原稿を頼みに行ったとき、平山氏がすぐに百閧ノ受け容れられたのも、単なる編集者ではなく国鉄職員であったからかもしれません。
 お酒を飲む他は何をするでもなく、一日新潟で過ごした中日も百閧ヘ一歩も宿の外へ出ず、3日目の昼にそのまま帰途に就きます。帰りもやはり「越路」でした。
 帰りにも山の姿に関して記述がありますが、往路よりもずいぶん好意的な書きかたになっています。少し見慣れたのかもしれません。

 新潟から帰って4日後、こんどは「奥羽本線阿房列車」で立ち寄った横手にまた出かけます。横手へは当初から、もういちど行きたいと思っていたようです。かまくらや箱ぞりなどの、珍しい冬の風物の話を聞いて興味を持ったのかもしれません。本当はすぐの冬、つまり昭和27年の2月くらいに行きたかったようですが、都合がつかず、翌年になってしまったのでした。
 今度は横手へピンポイントの旅行ですから、列車も直行するものを選びます。21時30分上野発の急行「鳥海」です。この当時、半車の寝台車を連結するようになったとか。「鳥海」はその後けっこう生き延びて、のちに寝台特急になりました。最後の頃は羽越本線経由の秋田行きになっていたと記憶しています。この当時は奥羽本線経由でした。
 21時半発車ということで、「鹿児島阿房列車」のときと同じく、乗ってから晩餐にするつもりでした。百閧ヘ家に居ても、たいていは21時頃から夕食をはじめ、日付が変わる頃までゆっくり飲み食いするのが常であったそうです。食事が終わってもすぐには寝ず、食卓の前に坐ったままあれこれ空想するのが好きで、そんなことで時間を過ごし、寝るのは3時か4時という日常でした。阿房列車がはじまってからは、時刻表を読みふけるのもそういう時間帯になったようです。
 前の「きりしま」同様、「鳥海」にも食堂車は連結していないので、弁当を(もちろんお酒も)持ち込みました。ところが、今回は個室でなく開放寝台であるため、寝台でお酒を酌み交わすわけにはゆきません。飲むだけなら良いかもしれませんが、百閧スちはけっこうしゃべります。それもなかなか大声でしゃべる癖があるようで、開放寝台では明らかに近所迷惑です。
 百閧ヘ寝台の配置を見て困りましたが、車室の隅に、小さな喫煙室があるのを発見して、そこで弁当を拡げることにしました。列車ボーイにその旨頼んで快諾されます。
 弁当の中身が書かれています。昭和20年代頃の食事がどんなものだったか想像できるので、なかなか貴重な記述です。

 ・うずらの卵のゆで卵
 ・たこの子
 ・ウドとさやえんどうのマヨネーズ和え
 ・鶏団子
 ・卵焼き
 ・ヒラメのつけ焼き
 ・ヒラメの煮しめ

 ……けっこうおいしそうで、読んでいて唾がわいてきます。特にヒラメなんかはこの節高いので、うらやましくなるほどです。

 隣の寝台に外国人が入ってきて、いつまでも何か叫んでいたり、大声で寝言を言ったりするので、百閧ヘ気になってなかなか眠れなかったそうですが、それでもいつの間にか寝入り、山形県から秋田県に入ったあたりで眼を醒ましたようです。秋田県に入れば、横手まではすぐです。
 寝不足で朝の横手に到着して、あまりご機嫌がよろしくなかったようです。横手名物の岡本新内を観せてくれるという話があり、その使者が横手駅まで来ていたのですが、百閧ヘいちど断っています。もともと旅先でそういった見聞を広めることを好まない上に、その晩は秋田の管理局から出向いてくれた国鉄の人たちと飲む予定だったのでした。
 しかし使者に食い下がられて、このとき珍しく百閧ヘ折れています。管理局の人たちはその場に居たので、打ち合わせしやすかったということもあるのでしょう。自分の予定は翌晩にまわし、その晩は招きに応じることにするのでした。まったくの想像ですが、岡本新内を手配してくれたのは、あの東京で銀行員をしていたという宿の亭主だったのかもしれません。「奥羽本線阿房列車」のとき、亭主とは大いに気が合った様子で、頑固な百閧ニいえども、彼の好意を無にすることは忍びなかったのではないでしょうか。
 その同じ宿に、早速腰を落ち着けます。同じ座敷だったのですが、なんとなくくたびれて見えたとか。ごもっともな話で、電灯の下ではけっこう立派に見えた部屋が、陽の光の下で見ると案外色あせているということは私もよく経験します。しかしそればかりでなく、

 ──座敷も一年半たてば、それだけ歳を取つてゐるだらう。

 という百闊齬ャのロジックがしびれます。
 晩まではすることもなく、百閧ヘ滅多にしない昼寝をします。

 晩に新内見物に招かれ、宿への帰りには箱ぞりに乗りました。昼間に梵天も見ているし、この横手旅行では阿房列車には珍しく、だいぶ見聞をひろめたようです。かまくらだけは、前夜に大雨が降って大半が崩れてしまっていたそうですが。
 雪にも堪能し、つららが落ちる音に驚かされ、すっかり雪国を満喫したものと思われます。
 2晩目は最初の予定どおり、秋田管理局の人たちと、横手駅長を招いて酒宴をおこないました。その席で百閧ヘ背中がかゆくなって悶絶するのですが、戦前に書いた童話「王様の背中」を思い出すシーンです。
 3日目もおおむねぼんやりして過ごしましたが、昼過ぎに宿を出て、前回と同じく横黒線北上線)に乗ってくることにしたのでした。紅葉に眼を瞠った車窓で、今度は雪の深さを味わってこようというわけです。これまた前回と同じく、大荒沢(現在は廃止)で折り返してくることにします。
 大荒沢までのあいだに、秋田県と岩手県の県境があり、県境というのはたいてい山が深かったりします。そこを通った上で折り返してくるのに、大荒沢あたりがちょうど良かったのでしょう。
 一年半前にちょっと通っただけの景色を、ずいぶんと克明に覚えているので、百閧ヘ自分で驚いています。年月が経てばこういう景色が夢の中に入り込むのだろう、そういえば今見ている山の姿も、なんだか夢の中のようだ……と、このあたりきわめて詩情豊かに書かれています。
 横手に折り返し、上りの「鳥海」で帰ります。また宿で弁当を詰めて貰ったそうですが、まだ18時台くらいで早い時間なので、往路のように喫煙室を独占してしまうのは不適当と判断します。ただ、上下段だった往路の寝台と違い、復路の寝台は向かい合わせの下段だったので、上段の客が乗ってくるまでに済ませてしまおうと、さっそく向かい合って一献をはじめました。
 翌朝、百閧ヘいやに早く眼が醒め、ついぞ見たことのない日の出を目撃することになります。
 私も思い出します。年末に青森の温泉場に湯治に出かけたことがあって、大晦日の晩に寝台特急「あけぼの」に乗り込みました。この列車は7時過ぎに上野に到着するのですが、私とマダムは毎年のように、家の近くの荒川の土手まで行って初日の出を拝んでいます。元旦の日の出は、大体6時50分頃です。
 それでもしかしたらと思い、6時45分くらいから窓の外を見ていたら、まさしく荒川の鉄橋を渡るタイミングで太陽が昇ってきました。車中から初日の出を拝むという、なかなか貴重な経験を私はしています。
 初日の出ではありませんでしたが、百閧燻ヤ中から日の出を見て、眠い眼の渋が落ちるような感動を覚えたようです。山系君がまだ隣で寝ているのが癪にさわり、叩き起こして日の出を拝ませています。
 百閧ノしても私にしても、たまに早起きするのは、気分が爽快で良いことであるようです。

(2017.5.18.)

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