忘れ得ぬことどもII

金正男氏暗殺

 北朝鮮のトップ(「元帥」とか「将軍」とか呼ばれていますがまあ事実上「国王」でしょう)金正恩の異母兄・金正男氏が、マレーシアで「暗殺」されたというニュースが世を驚かせています。
 金正男氏といえば、日本のネズミの国に遊びに来たところを見つかって送還されたり、ちょくちょくテレビのインタビューに応じたりして、日本でもわりとお馴染みでした。わりに親しみやすい容姿と、フランクな人柄を持ち、フランスに留学などもしたりして、閉鎖的な北朝鮮人にしては珍しいキャラクターだったと言えるでしょう。名前の読みかたは「ジョンナム」でしたが、日本のネットでは「まさお」と呼ばれて妙に親しまれていました。
 故・金正日の長男でもあり、正日が死去したときには、正男氏が後を継げば北朝鮮も少しは変わるのではないかと言われたものでした。権力の世襲には反対だという意思を示してもいました。後を継げなかった息子としてそう言うしかなかったとも考えられますが、もしこれが本音なら、台湾蒋経国氏のような立場になれたかもしれません。経国氏は蒋介石の長男でしたが、蒋一族での権力世襲に反対し、李登輝氏に政権を譲り渡して民主化への糸口を作ったことで、台湾ではそれなりの敬意を持って遇されています。
 まあ正男氏にしても、本当に後継者になっていたらどうなったかはわからないものの、少なくとも多少は話の通じるトップになっていたのではないかと思われただけに、後継候補から外されたことを残念がった人は多かったでしょう。

 その正男氏が「暗殺」されたというのだから衝撃です。それもクアラルンプールの空港で、ふたり連れの女性に毒針を刺されて亡くなったという、映画かマンガのような経緯でした。
 しかもその女性たちも、すでに死んだという報道もありました。口封じに他の工作員に消されたか、取り調べを免れるためにみずから命を絶ったのか……実際にはひとり逮捕されているようですが、いずれにせよまったくもって、現代の出来事とは思えないような時代がかった事件です。
 調べるまでもなく、これは正恩による兄殺しでしょう。個人的な恨みなどによる殺人なら、毒針などという妙な兇器を用いる必要はありません。一説には、正恩は「即位」した2012年の当初から、正男氏の排除指令を出していたと言われます。正男氏は主に中国政府にかくまわれていままで無事でしたが、4年あまりの時を経て、ついに兇刃に斃れたのでした。三男にして金正日の後を継いだ正恩としては、外国で人気のある異母兄が、なんとしても邪魔に思えたのでしょう。
 この場合、正男氏本人に、正恩の地位を奪い取る意思があったかどうかは関係ありません。自分に不満を持つ者たちが担ぎ上げることができる存在だというだけで、自信の無い独裁者には充分な理由になるのです。
 実行者の女性たちにも、その頃から暗殺任務が与えられていたのかもしれません。任務を果たせば栄達させてやると言われたか、それとも考えたくないことながら、家族を人質に取られてでもいたか。後者の話も、北朝鮮ならありそうだと思えてしまうところが怖いですね。ともかく、
 「正男を消すまでは帰国は許さん」
 などと言われていそうです。どこをとっても、時代劇かマフィア映画のような色合いが拭えません。

 近現代でも「権力者の暗殺」ということはときどきおこなわれます。しかし、権力者側が政敵を排除するために「暗殺」という手段を用いることはまず無くなりました。そんなことをしなくても政敵の社会的地位を消滅させる手段はいくらもあるからです。
 20世紀のはじめ頃、中国(清国)に西太后というオバハンが居ました。この人は伝えられるほど残虐な人物ではなかったようですが、それでも何人もの暗殺の嫌疑がかかっています。特に濃厚なのは甥でもあった光緒帝殺害の件で、他の犯人説もあるものの、帝位に就けて貰った恩も忘れて光緒帝が西太后の言うことを聞かなくなったので暗殺したというのがもっぱらの通説です。
 他に、競争相手であった東太后咸豊帝の皇后。西太后は皇后ではなかったが跡継ぎの同治帝の生母であったために太后と呼ばれた)の暗殺説などもささやかれました。東太后の場合は、死因は脳卒中であったというのが真相のようですが、それにしても西太后とはそういうことをしかねない女だと思われていたからこそ暗殺説も持ち上がったに違いありません。
 ともあれ、権力者が暗殺によって邪魔者を排除するという行為は、当時としても時代遅れというイメージがあったようです。
 まさかそれから100年以上あとに、その衣鉢を継ぐ者が現れるとは、当の西太后も考えなかったでしょう。
 だいたい権力者が敵を殺そうと思えば、処刑命令を出せばそれで済むことです。暗殺などという隠微な手段を用いなくとも、おおっぴらに殺すことができるのが権力者というものです。実際、金正恩は母方の叔父で、事実上のナンバーツーであった張成沢を堂々と(?)処刑しています。
 それが暗殺という手段を用いなければならないとすれば、その殺害が誰がどう見ても不当なものであるということを権力者自身が知っている場合に限られるでしょう。正当さにうしろめたさがあれば、こっそり殺したくもなるというものです。
 あるいは、相手に今回のように中国政府という強力な後ろ盾がついていた場合もそんな気になるかもしれません。金正恩が、兄の正男は自分にとって不都合だから逮捕して引き渡してくれと依頼しても、中国政府はおいそれとは応じなかったでしょうから。
 それにしても、今回の暗殺が中国の顔に泥を塗ったことになるとは、正恩はたぶん気づいていないと思われます。近いうちに、中国がなんらかのアクションを起こすことになるかもしれません。

 血を分けた兄を殺すなんて、とショックを受けている人も居ますが、これはちょっとナイーブ過ぎる感覚かもしれません。歴史を鑑みれば、トップの座を巡って兄弟が相争い殺し合ったなんてことはざらに見受けられます。暗殺という手段を用いたか、華々しく合戦などで攻め殺したかはともかく、こと権力の座というものを間に置いた場合、兄弟というのはもっともおそるべき競争者であるというのが歴史の教えるところです。
 つい近年だって、西武グループの総帥の座をめぐる堤義明氏と堤清二氏の長年の確執は有名な話でした。さすがに殺し合いまではおこなわれませんでしたが、堤康次郎という巨大な父の後継者の座という地位の魔力については、外野からも存分に感じられたものでした。
 比較的平和裡に受け継がれてきた日本の皇位にも、何度か兄弟の葛藤はありました。壬申の乱天武天皇と甥の弘文天皇との争いですが、その根には弘文天皇の父である天智天皇とその弟である天武天皇の反目があったとされています。井沢元彦氏の小説では、天武が天智を暗殺したことになっていました。
 これまたつい近年でも、ニ・ニ六事件のときなどは昭和天皇を廃して弟の秩父宮を立てようという動きがあったとされています。骨の髄からの立憲主義者であった昭和天皇が、軍の一部の者には邪魔に思われたようです。
 ましてや武家政権になれば、この種の争いは日常茶飯事みたいなものでした。
 源頼朝は弟の義経範頼を討ちましたが、義経はまあ頼朝の神経を逆撫でするような行動がしばしば見られたのである程度はやむを得ないにしても、範頼の処刑理由は非常に薄弱です。曾我兄弟の騒ぎのときに北條政子のもとに駆けつけて「それがしが居ります限り大事ございません」と言ったのが謀反の意思であるとか、その後詫び状に「源範頼」と源姓をつけて署名したのが僭越であるとか、難癖をつけているようにしか見えません。まさに、「担がれる可能性のある者は潰しておけ」という権力闘争のイロハに忠実な行為であったように思われます。
 名君と言われた北條時宗も、兄の時輔を討っています。NHKの大河ドラマでは討ったことにして密命を授け、国に間諜として派遣していましたが、もちろんフィクションです。
 足利尊氏は弟の直義を暗殺したと言われますが、さてどうでしょう。いずれにしても南朝を斥けたあとの足利政権は、見苦しいほどの内輪もめに終始しています。尊氏の後継者である義詮と、直義の後継者である直冬の兄弟(名目上は従兄弟になるが、実際には両方とも尊氏の実子で、直冬は子供の無い直義の養子になっていた)も生涯相容れることなく戦い続けました。
 戦国大名にも、兄殺し・弟殺しはそう珍しくもなく見受けられます。織田信長伊達政宗も弟を殺しています。今川義元上杉謙信は兄を排除しました。長曽我部盛親も兄殺しの嫌疑がかかっています。このくらいの果断さが無いと、なかなか戦国の世を生き延びることは難しかったのでしょう。

 これが中国史になると、兄弟の殺し合いなどは枚挙にいとまが無さ過ぎて、いい加減イヤになるほどです。春秋戦国時代にもいくらでも起こっていますが、わずらわしいので省略するとして、中華帝国史の範囲に絞るとしても、の二代皇帝胡亥がいきなり兄弟皆殺しを敢行しています。実際には全員では無かったようで、三代皇帝(すでに皇帝ではなく秦王を称したが)の子嬰などは胡亥に殺されなかった兄のひとりという説もあります。
 子嬰が胡亥の長兄扶蘇の子であるとしてある本も多いのですが、子嬰が陰謀家の趙高を誅殺した際、すでに成人していると思われる息子を伴ってみずから剣をふるっており、通説ならこの息子は始皇帝の曾孫にあたるはずですが、50歳で死んだ始皇帝に、その数年後に成年に達する曾孫が居たと考えるのはさすがに無理があるでしょう。おそらく子嬰自身が胡亥の兄だったのだと思います。なお胡亥は始皇帝の末子だったので、弟は居ません。
 長期安定王朝では、さすがに帝位をめぐって血みどろの争いという事件は少ないのですが、末期になるとそれも微妙です。の最後の皇帝献帝は、兄を押しのけて即位しました。幼少だった本人の意思ではなく、権臣董卓の思惑ではありましたが、兄を追った事実には変わりありません。
 中国史上最高の名君とされる太宗も血まみれです。兄の李建成、弟の李元吉を攻め殺したのちに、現皇帝である父・高祖を軟禁して無理矢理譲位させるという非道を敢行しました。
 この事件(玄武門の変)については、史書は太宗視点の書きかたになっているので注意が必要です。建成と元吉が、のちに太宗となった李世民の功績を妬んで排除しようとしたため逆襲してこれらを殺したということになっていますが、建成はこのときすでに皇太子であり、そのまま大過なければ二代皇帝になれる状況でした。あえて即位前に弟を排除するような騒ぎを起こす理由がありません。また世民を排除しようとしていたにしては、軍勢を集めた形跡も無く、まったく不意を衝かれたようなやられかたでした。ありようは、世民が急襲して邪魔な兄と弟を殺したのです。
 そんな権力奪取のしかたをした太宗が、のちに名君と呼ばれるに至ったのは不思議な気がしますが、たぶん彼には理想の政治のやりかたみたいなものがあり、父や兄の補佐をしているだけではそれは果たせないと思った末に兇行に及んだのでしょう。たいていの場合、最初はそう思っていても権力の座に就くと豹変して享楽的になってしまったりする人が多い中、太宗は最後まで世を欺ききった稀有な人物だったのだと言えるのかもしれません。
 長期安定王朝でもそんなざまですので、五胡十六国時代とか五代十国時代といった、戦乱の世の短期王朝などでは、それはもう眼を覆うほどです。直接兄弟が争わなくとも、兄が死んだあとに帝位を継いだ弟が、帝位に就くや否や兄の子供たちを全員殺害する、なんてケースはざらに見受けられるのです。

 トップの座を巡っての兄弟相剋は、やられたほうに問題があった場合もあるでしょう。またやった側が被害妄想にかられてといった場合も少なからずあったと思います。しかし問題はやはり是非善悪ではなく、権力の座というものがもともとそういう性質をおびているとしか言いようがありません。どんなに仲の良い兄弟であっても、椅子はひとつしかないのです。
 また本人たちにその気が無くとも、取り巻きたちが放ってはおかないということもあります。三国志の曹操の息子たち、曹丕文帝)とその弟・曹植のようなケースはまさにそれでしょう。曹植自身にはおそらく曹丕に反抗するつもりは無かったでしょうが、それまで冷や飯を食わされていたいわば反主流派と言うべき連中が、曹丕よりも有能に見える曹植を担いで一旗揚げようと策動をはじめたのです。取り巻きどもを処刑するだけで、曹植そのひとを殺害することなく済ませたのは、まだしも曹丕のやさしさであったのでしょうか。
 権力者の兄弟というのは、常にそういう危うさをはらんだ存在なのです。うまくかみ合えば最大の援助者にもなり得ますが(豊臣秀吉に対する秀長などはその好例でしょう)、自信に乏しくていつも叛乱を怖れているような小心な権力者にとっては、敵対者が担ぎそうな御輿にしか見えず、どうしても先に壊しておきたくなるものです。
 「まさお、いいヤツだったのに、どうして……」
 などとネットでもコメントが見受けられましたが、今回の暗殺事件も、金正男氏の人格とはなんの関係もありません。彼の落ち度があるとすれば、金正日の長男として生まれてしまったという、そのことだけでしょう。フランクな性格で人気があり、外国人とも気軽につきあえる兄が生きているだけで、金正恩には脅威だったのです。
 そういう気持ちは、歴史をひもとくことである程度理解はできます。しかし、暗殺ということにはどこまでも陰鬱さがつきまといますし、21世紀においてそんな手段を用いる権力者が居たということには戦慄を禁じ得ません。
 さらに付け加えるならば、そういう「国王」を絶対的存在として賛美することを是とする「教育機関」が日本の中に少なからず存在するのです。自治体が朝鮮学校に補助金を出すことの是非が問われていますが、少なくともそんな教育を子供たちに施しているうちは出すべきでないと私は思います。これは民族差別とかそんなこととはまったく別の話なのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

(2017.2.15.)

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