忘れ得ぬことどもII

『大地の歌 星の歌』制作記

作曲完了

 去年(2016年)から作曲していた女声合唱組曲『大地の歌 星の歌』がようやく出来上がりました。
 コーロ・ステラ20周年記念作品として委嘱されていたものです。初演は来年の演奏会でということになりそうで、それだと正確には21周年になるのですが、まあそのあたりはあまり厳密に考えることもないでしょう。
 コーロ・ステラではこのところ毎回のように私の編曲ものステージを持っています。2016年は「みんなのうた・世界めぐり」という企画でNHKみんなのうたで扱われた外国の名曲を集めました。その前(2014年)は「アニソン・フラッシュ!」からの抜粋、その前(2012年)は「サウンド・オブ・ミュージック」で、もうひとつ前(2010年)が「唱歌十二ヶ月」でした。
 しかし、私のオリジナル曲というのは『移る季節』『一輪ざしの四季』をやっただけで、この合唱団のために書いた曲というのもありません。「ステラの四季」という団歌みたいな小品は作っていますが。
 そんなわけで、20周年にはオリジナル初演曲を……ということになったのでした。正指揮者の松永知子さんが発案したのか、他の人から声が挙がったのかは知りませんが、とにかく私のところへ話が来ました。
 私としても、長く関わっている合唱団ですので、否やはありません。即座に引き受けることにしました。

 さて、合唱曲を書くということになると、まずはテキストとなる詩を探さなくてはなりません。
 詩集を読んでいて、「これは!」という詩にめぐりあって作曲する……という経緯であれば話は簡単であり、幸せな推移でもあります。世間の人は、作曲家が声楽曲を書くときはいつもそうやっているものと思っているかもしれません。
 しかしそんなことは滅多にありません。特に委嘱作品の場合は、委嘱元の方針とかキャラクターとか、そんなところもある程度考えなければなりませんので、漫然と詩集を読んでいてふさわしい詩に行き当たる確率は限りなく低いものになります。そもそも、何度も書いていますが、作曲するにふさわしい詩というのは、100篇の詩を読んで2、3篇あればましなほうです。
 これは詩の文学的価値とはまったく別の話で、あくまでも「作曲する」ことを前提としたときのことです。文学としていかにすぐれていても、まるで音楽的興趣をそそられない詩もあります。逆に音楽が欲しくなる詩というのは、もしかしたら文学的に言えば何かが足りないのかもしれません。また考えようによっては、詩と音楽というのは補い合っているものではなく、お互いの価値を高め合うものなのかもしれません。
 いずれにせよ、少なくとも私は、声楽曲を作曲しなければならなくなった時点で、テキストとするべき詩をがつがつと渉猟しはじめます。詩の読みかたとしてあんまり褒められたものでないことは自覚しています。
 今回、ステラ(星)の名にちなんで、星空とか星座とか、そういったテーマの詩を探そうと当初考えました。そんな傾向のものならいくらでもあるだろうとたかをくくっていました。
 現代詩文庫みたいなものに入っているものより、詩画集のようなタイプの本のほうがありそうな気がしました。詩画集というのは一時はやったジャンルで、かわいらしい、あるいはオシャレなイラストに詩が添えられているていの本です。プレゼント用などにも重宝しました。私の書いた曲でも、『一輪ざしの四季』や『あいたくて』などはそういう詩画集をテキストに使っています。
 ところが、書店へ行って探してみても、最近は詩画集というものがあんまり出ていないようでした。流行が過ぎ去ってしまったのでしょうか。
 それではと思い、星の写真集などにも手を伸ばしてみました。詩のようなものがそえられていたりするかもしれないと考えたのでしたが、これもどうも、イメージに合うものはありませんでした。
 大型の書店で「夜のフェア」とか「宇宙のフェア」とかいうのをやっているのを見つけて行ってみても、あんまり詩の本は見当たりません。
 これはもういっそ宮澤賢治あたりまで遡らないとならないかな、と徒労感を覚えました。宮澤賢治には星や宇宙を扱った詩が確かにけっこうな分量ありますし、みずから作曲もした「星めぐりの歌」というのもあります。しかし、なんとなくそちらに進む気にはなれませんでした。最後の手段として考慮はしておきましたが。
 マダムと一緒に銀座教文館まで行き、そこでもぴんとくるものがなかなか見つからず、いささか焦りを覚えているところに、2冊の、奇妙なタッチで描かれた絵本が眼に入りました。
 それが福音館から出ていた、アメリカ・インディアンネイティヴ・アメリカン)の詩を集めた本でした。どちらも金関寿夫氏が訳し(英訳からの重訳のようですが)、秋野亥左牟氏が独特の絵をつけたものです。先に刊行されたのが「おれは歌だ おれはここを歩く」というタイトル、続編のほうが「神々の母に捧げる詩」というタイトルでした。
 星そのものを詠っている詩というのはあまり無いようでしたが、夜、月などに関わるものは少なからずあり、何より大自然と共に息づいている感じが琴線に触れました。
 それで、前回の演奏会のリーフレットに、曲名だけでも予告しておきたいからという話になったとき、

 『大地の歌 星の歌』

 という全体タイトルを思いつき、載せて貰ったのでした。『大地の歌』だけだとマーラーの同名の曲と紛らわしいし、やはりステラ(星)という言葉を入れておきたかったのです。

 「おれは歌だ……」のほうは、寺嶋陸也くんがすでに合唱組曲にしていたとあとで知りましたが、それは別に差し障りにはなりません。同じ詩に作曲されることはよくあります。ゲーテ「野ばら」など、シューベルトヴェルナーだけでなく、150人くらいが作曲しているそうです。それは極端としても、日本でも金子みすゞ「鈴と小鳥と私」などいったい何人くらいが曲をつけていることやら。
 それに寺嶋くんは続編の「神々の母に捧げる詩」のほうは扱っていないようでしたし、その意味でも特に二番煎じということにはならないでしょう。
 テキストとしてはじめて「翻訳された詩」を使うことになったこともあり、その詩がきわめて素朴で祈りに満ち、われわれが太古に持っていたであろう原型的な宗教感覚というものを励起させる内容であったことから、私自身もある程度、いままで女声合唱ではやっていないような書きかたをするべきだろうと思いました。
 また、コーロ・ステラという合唱団も、約20年を経て、周囲からの評価がだいたい固まってきています。ちょっと小洒落ているけれども、そんなにパワーやエネルギーがあるようではなく、良くも悪くもきれいにまとまっている、といったところでしょうか。
 指導者のひとりとしては、やや歯がゆさを感じないでもない評価です。
 当初の腹案どおり、サンリオあたりから出ていた詩画集のたぐいをテキストにしていたら、たぶん「そういうステラ」にぴったりしたような曲になっていたかもしれません。
 しかし、ネイティヴ・アメリカンの詩という、特異なテキストを入手したからには、

 ──あのコーロ・ステラが、こんな曲も歌えるのか。

 と言われるような曲にしたいという欲が出てきました。
 骨太で、少し乱暴だけれども、原初の心に直接響くような。
 それは私が、実のところ自分の曲にずっと欲しいと念じていて、なかなか果たすことのできないキャラクターでもありました。私の曲は、自分で狙ったわけでもないのに、なぜか
 「フランスっぽいですね」
 と言われることが多く、向こうは褒めたつもりで言っているに違いないのですが、自分としてはどうも物足りなさを覚えてならないのです。大学受験前にフランスものの和声課題をやりすぎた酬いかもしれないと思っています。導入がテオドール・デュボワ、その後がアンリ・シャランやらノエル・ギャロンやら……となると、そりゃあ染まりもするよなあ。私が欲しいのはむしろロシア的な骨太さであるとか、北欧的な鮮烈さであるとか、そういった資質なのですが、なかなかうまくゆきません。
 その意味では、ネイティヴ・アメリカンの詩を扱うことは、私にとってもコーロ・ステラにとっても、いままでに無いチャレンジであったと言えましょう。

 そんな風に意気込んではみたものの、どうも作曲ははかどりません(いや、むしろチャレンジである以上はかどらないのが当然かもしれませんが)。
 8月頃から、月1回くらいのペースで指導に行っていましたが、その直前になってようよう1曲を仕上げて持ってゆくということの繰り返しでした。6曲で完結で、1月の指導日が今日だったのですから、まさに1回1曲です。半年近くかかってしまいました。もう少し早く揃えるつもりだったのですが、やむを得ないことです。
 意図したわけではないのですが、「おれは歌だ……」と「神々の母に捧げる詩」の2冊から、それぞれ3篇ずつ採用しました。6篇とも、別々の氏族の詩になっています。
 面白いのは「夜の歌」という1篇で、

 ──オホホホ ヘヘヘ ヘイヤ ヘイヤ……

 といった調子で、意味の無いかけ声のようなものが蜿蜒と続いてゆきます。英訳者も金関氏も、意味を探るのは諦めたのでしょう。日本の東北地方の、やはり歌詞の意味がさっぱりわからない民謡、例えば「なにやどやれ」ヘブライ語で解読するというようなトンデモ説が横行したことがありますが、これなどもそんなアプローチをする人は居ないでしょうか。
 4曲目にこの「夜の歌」を入れておいたので、先々月に譜面が渡っていることになります。メンバーが自分のパートを家でさらっていたら、家の人から
 「ステラで今度はそんなのを歌うのか?」
 と訊かれた、などという話が伝わってきました。いままでに無い異色の歌であることは確かなようです。

 ことさらにネイティヴ・アメリカンの音楽を意識したというわけではありません。ネイティヴ・アメリカンの音律はわれわれにも親しいペンタトニック(五音音階)で、かつて『Mes Petites Amies』という三重奏曲を書いた際に、その中の「インディアン人形──ミミ」という楽章では少々意識したこともありますが、今回はそれはやめておきました。むしろ発想が限定されてしまいそうな気がしたのです。
 3曲目に置いた「恋歌」だけ、ちょっとそれっぽさを出したかもしれません。ただ、ネイティヴ・アメリカン音楽そのものと言うより、それに影響を受けたUSAの作曲家マクダウェル「睡蓮に」という曲の線を狙った感じです。
 ただ、ピアノ伴奏に打楽器っぽさを求めたところは少なくありません。歌もユニゾン(同音)にできるところはどしどしユニゾンにしてしまいました。そのせいか、馴れた音調ではないにもかかわらず、メンバーの音取りは案外早かったようです。

 この作品は、松永さんが指揮をし、私がピアノを弾くということになりそうです。ピアノを弾いてしまうと曲全体を聴く余裕が無くなって、自分としてはあまり好ましくないのですが、記念作品としてはそういう形になるのもやむを得ないことでしょう。ピアノを練習しなければと思っています。

(2017.1.31.)

初演

 コーロ・ステラ第10回演奏会がありました。
 2年にいちど、律儀に開催しています。第1回を開催するまでには3年かかっているので、今年で設立21年ということになります。私の母の仲間たちが集まって結成したくらいなもので、もとからそんなに若いメンバーの合唱団というわけではなかったのに、よくぞ続いているものだという気がします。
 結成に際して少々トラブルがあったことと関連して、私も最初から薄く関わっては居たのですが、本格的に関わり始めたのはメイン指導者である松永知子さんが産休をとったときに、代役で指導を務めたときからの話です。全面的に代行したのではなく、確か4ステージ中3ステージ分を受け持つという形ではなかったかと思います。その産休で生まれた男の子が、もうとっくに声変わりして、両親より背も高くなっているのですから、時の経つのはまったく速いものです。
 産休のときに団員にもお世話になったというので、松永さんが詩を書き、それに私が作曲したのが「ステラの四季」という、まあいわば団歌で、2004年の第3回演奏会でお披露目され、以後毎回、演奏会の幕開きで演奏しています。「四季」というタイトルのとおり、それぞれ春夏秋冬を歌った4番まである曲で、初お披露目の際には全曲演奏しましたが、長いので2度め以降は春と夏の2番までということになっています。コーロ・ステラの演奏会は毎回夏に開催されているので、その点からも夏までで切るのは妥当と言えそうです。
 実は、長いことつきあってきて、私がコーロ・ステラのために書いた曲はこの「ステラの四季」だけでした。私の作品としては『移る季節』『一輪ざしの四季』を歌ったことがありますが、いずれも他の合唱団のために書いたものです。また編曲ものは毎回のように作って居るものの、オリジナル曲を作ったことは無かったのです。
 第10回にして、ようやくオリジナルの合唱曲を書くことになりました。アメリカ・インディアンの詩(もちろん訳詞)をテキストにした『大地の歌 星の歌』です。コーロ・ステラ創立20周年記念委嘱作品、ということで頼まれました。正確には20周年は去年だったわけですが、去年は演奏会の無い年でしたので、今年初演となった次第です。
 コーロ・ステラのいままでの持ち味とはやや違うほうにトにンガってみました。この合唱団の持つ雰囲気や声質に適うのは、前にやった『移る季節』とか『一輪ざしの四季』のようなタイプの、どちらかというと繊細で小洒落た感じの曲だろうと思うのですが、そこをあえて外してみたわけです。

 実のところ、この「繊細で小洒落た感じ」というのは私の書く女声合唱曲に共通する印象でもあります。『一輪ざしの四季』を1995年に共立女子高の合唱部で初演して貰ったとき、一緒に鈴木輝昭さんの合唱組曲の初演もあったのですけれども、輝昭さんの曲と較べると、私のはどうしても「メインステージにはならない曲」であったように思われてならなかったのでした。言ってみれば、コンクールで喩えれば自由曲として選ばれない課題曲タイプと申しましょうか、演奏会であれば「サブメイン」に置かれるタイプと申しましょうか。
 サブメインでも良いじゃないか、という考えかたもあるでしょうが、私はどうにも口惜しさを抑えられませんでした。
 その頃から、私は曲想のスケールアップと、曲調の骨太さをなんとか実現したいと考えるようになりました。女声合唱曲で言えば、『一輪ざし』の次に書いた『恋が終わった日には』では、ある程度のスケールアップはできたと思いますが、力強さという点ではまだ及ばずの観があります。次が『移る季節』で、上に書いたようにやはり「もうひと息」感がぬぐえません。
 そのあと書いた『インヴェンション』では、ピアノを用いないという条件のせいもあってか、少し力強さが生まれてきたような気がします。
 『インヴェンション』が2005年の作品で、考えてみればその後長いこと、私は女声合唱曲を書いていないのでした。『大地の歌 星の歌』まで12年ほどの空白があります。
 その空白期間に、私はけっこう大規模な曲を書いています。オペラ『葡萄の苑』『セーラ』、コーロドラマ『ま昼の星』『星空のレジェンド』、モノドラマ『愛のかたち〜パラクレーのエロイーズ』、それに『レクイエム』などなど。
 これらの曲を考えると、スケール感は充分にあると思います。何も演奏所要時間の問題だけではありません。聴いた人に与える音楽の重量感というか、そういうものはだんだんと身についてきたかな、と思うわけです。少なくとも「メインステージには置けない感じ」は無くなってきました。
 これは、毎年オペラの編曲に携わっている成果とも言えるかもしれません。モーツァルトビゼープッチーニから、音楽のドラマティックな盛り上げかたというものを教わっているみたいなものです。
 これだけの経験を積んだいまなら、ずっしりとした重量感のある、骨太な女声合唱曲というものも書けるのではないかと思いました。
 コーロ・ステラの殻を破る作品、それと同時に私の女声合唱曲の殻を破る作品、ということを強く意識して、『大地の歌 星の歌』を書いたのでした。

 いくつか、いままでの私の同ジャンルの曲とは違う要素を加えています。
 例えば、パートのユニゾンをかなり大胆に使ってみました。私は合唱というと、なかば本能的に「和声」をイメージしてしまうため、ユニゾンを多用することに不安がありました。しかしたぶん『レクイエム』あたりから、ためらいなく同音を使えるようになったようです。『レクイエム』は合唱部分が多いとはいえ、楽器編成がそれなりに厚く、感覚的にはオーケストラをイメージした音響ですので、合唱がそんなに「和声」を担わなくても良かったというのが大きな要因でしょう。この頃から、合唱や重唱が、基本的にユニゾンで動いて、ここぞというときに拡がって和声を形作るというやりかたが、好きになってきたように思います。
 女声合唱に旋法的な処理を多用しはじめたのは『インヴェンション』からだったでしょうか。混声合唱ではそれ以前からやっていましたが、女声合唱の響きというものにある種の固定観念があったことは否定できません。
 アメリカ・インディアンの音楽は、日本の陽旋法律音階に似たペンタトニック(五音音階)を用いるものが多く、意外とわれわれには親しい感じがします。ドヴォルジャークの交響曲『新世界より』や弦楽四重奏曲『アメリカ』、あるいはマクダウェルのピアノ曲などを見るとわかりやすいですね。『大地の歌 星の歌』では特にインディアン音階を用いたということはないのですが、題材に旋法的な処理を施しやすいということはあったと思います。
 訳詞を用いた作曲というのも、はじめての試みでした。本来のインディアンの詩というのは、口承文学の一部で、多くの口承文学がそうであるように、使われている言葉やそのリズム自体に、ある種の呪術性が込められています。稗田阿礼が先祖代々語り継いできた口承文学を逐一記録した『古事記』を音読するとき、われわれはなんとも言えない陶酔感と呪術性を感じとることができるのですが、事情はそれと一緒なのでしょう。
 古事記を読んでも別に陶酔感も呪術性も感じないぞ、という人は、たぶん黙読しているからだと思われます。ぜひ(できれば大きな声で)音読してみてください。例えばイザナギイザナミ両神による国産みの場面。

 ──かれ二柱(ふたはしら)の神、天浮橋(あめのうきはし)に立たして、その沼矛(ぬぼこ)を指し下ろして画(か)きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴らして、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂(オノゴロ)島なり。

 実は私はこの部分が大好きで、大学1年のときの提出作品がまさに「クラリネットとピアノのための『オノゴロ島』」という曲で、この部分をエピグラフとして冒頭に記載しておいたものです。
 今回使ったテキストの原詩をインディアンが唱えるとき、彼らは古事記の文章が日本人に与えるのと同じような感覚を持つのではないかと思います。
 それをまず英訳し、さらに日本語訳したものをテキストとして使ったわけですから、当然リズム感や呪術性といったものは犠牲になっているはずですが、その失われたリズム感や呪術性を、音楽によって補うということは可能だろうと思うのです。今回の作曲では、そんなことを考えながら作業を進めました。
 団員たちは、最初は面食らったようですが、練習を進めるうちに、だんだんわかってきたような雰囲気になっていました。「考えるな、感じろ!」といったところかもしれません。

 さて、曲について語りすぎましたが、今日の演奏会のことです。
 いままでの演奏会は、第1回と第8回を除いて、代々木上原にあるけやきホールJASRAC古賀政男記念館が共同運営するホール)で開催していましたが、今回はかなり遠い、橋本相模原市)の杜のホールという会場を使いました。松永さんがしばらく相模原市内に住んでいたことがあって、ぜひそこでやってみたいと考えたようです。ほとんどの団員にとっては土地鑑の無い場所なので、お客が集められるだろうかと心配していました。
 しかも、けやきホールは200人ばかりのキャパシティですが、杜のホールは530人です。あまり少ないと見ばえがよくありません。
 ただ、コーロ・ステラの演奏会では、いつも入場整理券(けやきホールでは入場料を取れないのでいつも無料であり、整理券だけ発行していた)の調整が大問題で、つまり放っておくとキャパシティ以上のお客を呼んでしまいそうだという状況でした。言い換えれば、例年はあまりお客を呼びすぎないようにセーブしていたということです。
 蓋を開けてみれば、驚いたことにほぼ満席でした。2階席の端のほうは空いていましたが、1階席のほうはいっぱいになっていたのです。印象としても大盛況で、コーロ・ステラがセーブしないでお客を呼ぶとこんなことになるのかと唖然とするほどでした。まあ、滅多にお客を呼ばない私すら、自作の初演とあって少しは配券を手伝ったのだから、他の団員も気合いが入っていたのかもしれません。ちなみに私が配券したのは主にクール・アルエットのメンバー相手で、大半は新宿区民のため、京王線1本で行ける橋本に対して、それほど面倒くささを感じていなかったように思われます。
 けやきホールのときにも常にほぼ満席なので、どうやらコーロ・ステラは「満場のお客を前に歌う」ことに馴れているというか、お客が満員でないと張り合いを持てないたちになってしまったようです。何しろ本番直前まで音程が危なかったりした箇所が、本番ではほとんど直っていました。「張り合い」という要素を考えないと説明がつかなさそうです。

 恒例の団歌「ステラの四季」を歌ったあと、第一ステージは横山潤子さんの『日本の子守歌』でした。各地の子守歌を女声合唱にアレンジしたもので、若干子守歌でない歌も含まれています。この『子守歌』、実は第1回の演奏会のときに演奏したもので、そのときは私がピアノを弾いていました。練習のときに横山さんが顔を出して、もう少しペダルを使うように私に指示し、
 「わたし、(ペダル)依存症なんです〜〜」
 と言ったのを記憶しています。
 第二ステージはアンドレ・カプレ三声のミサ曲でした。近代作品としては珍しく、無伴奏女声三部合唱という編成で書かれたミサ曲です。かなりの高難度曲で、私としては、コーロ・ステラもカプレなんか歌うようになったか、という感慨を覚えます。
 そして第三ステージが『大地の歌 星の歌』、第四ステージが今回のために編曲した映画音楽のステージです。実は映画音楽のプログラムのうち最後の2曲「ある愛の詩」「ニューシネマパラダイス」は松永さんの独唱つきで、結局松永さんは全ステージフル出場ということになっていたわけです。
 松永さんだけではありません。ピアノの笈沼甲子さんは、本来の役割つまりピアノを弾いたのは第一・第四ステージだけだったのですが、ピアノを使わないカプレ、私がピアノを弾いた『大地の歌 星の歌』のステージでは、なんと合唱団に混じって歌ってくれていました。合唱団もこのところ少し人数が減り気味であることに加え、音感が確実である笈沼さんが加わってくれるのはありがたい話なのですけれども、そんなわけで彼女も全ステージ出場だったのでした。そして私は、当日こそ後半だけの出場でしたが、2ステージ分の譜面を作成するということで、3人とも相当な仕事量であったと言えます。
 ちなみに当日のスタッフなども、ほとんどが団員の家族が駆り出されています。団長のAさんのところなど、ご主人が受付元締め、お嬢さんがステージマネージャーと大活躍でした。うちのマダムも受付やドア担当を頼まれて仕事をしていました。ドア担当ということで、いちおう演奏は全部ホール内で聴けたようだったのは何よりです。
 当日もさることながら、アメリカ・インディアンの詩集を見つけたのはマダムに連れて行って貰った銀座教文館書店でのことですし、映画音楽ステージを締める「ニューシネマパラダイス」の案を出してくれたのもマダムでした。けっこう裏で協力して貰っています。

 20周年記念、第10回記念ということで盛大に演奏会を開催しましたが、団員の高年齢化がだいぶ進み、いちばん若い人でも50代後半となってしまっています。今後つなげてゆくには、もっと若い団員を増やすことが必要なのでしょうが、これについてはクール・アルエットなども憂慮しているところで、難しいところです。マダムが入っている国立音大OGによる女声合唱団も、ここ20年近く、ずっとマダムが最年少……ということはつまり、マダムより若い代の人が全然入ってくれない状態であるようです。高齢化は、長く続いている一般合唱団共通の悩みと言えるでしょう。Chorus STだって、当初はほとんどの団員が20代、中には10代すら含まれており、「若々しい混声合唱団」として知られていたのに、創立30年近くを経て、当時の若手メンバーがそのまま齢をとり、いまや大半がアラフィフ・オーバーフィフの合唱団になってしまいました。若いメンバーも若干居ますけれども、先行き不安にならざるを得ません。

(2018.7.8.)

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