忘れ得ぬことどもII

一人称と三人称

 小説投稿サイトをちょくちょく覗いています。
 詳しくは知らないのですが、システムとしてはブログと同様、利用者登録をすれば誰でも投稿ができるということになっているのでしょう。内容についてはまったく自由ですが、「異世界転生もの」「異世界召喚もの」などと呼ばれるジャンルの小説がきわめて多いようです。当のサイトでは「異世界テンプレ」などとも呼ばれているようです。筆者の数に対して読者数がそう多くはないようなので、どうしても人気を得ようとするとその比較少数の読者に受けるものを書かざるを得ないという事情もあるのかもしれません。
 登録にあたっては審査のようなものは無く、いままで文章など書いたことが無いような人でも参加でき、その意味では大変ハードルの低い媒体と言えるかもしれません。書いたものの内容に問題があった場合は運営からイエローカード、レッドカードが示されるようではありますが。
 そんなわけであちこち流し読んでいると、本当に
 「はじめて投稿します。いままで小説など書いたことがありませんが、よろしくお願いします」
 というような筆者コメントのついた文章にいくつも行き当たりました。
 そういうのを見ると、段落のはじめをひと文字空けるとか、句読点の使いかたとか、カギカッコのつけかたとか、基本的な原稿の書きかたもよくわかっていないような様子もあって、むしろ微笑ましかったりもします。読者コメントもそういうところは容赦なく指摘を寄せてくるので、まあそうやって揉まれて、だんだん書きかたも上達してゆくということなのでしょう。その意味では同人誌に近いノリとも言えます。
 司馬遼太郎氏なども、最初は原稿用紙の使いかたがわからず、句読点に1マスを宛てるということすら知らなかったそうです。まあその話はどこまで本当かわかりませんが、やはり同人誌に投稿してゆくうちに書きかたのコツを憶えたということですので、それがネット化したのが現在の投稿サイトなのかな、という気がします。
 ただ、昔の小説書きは、発表する以前にかなり大量に、自分だけで書きためていたりしたと思うのですが、投稿サイトの場合は本当の初心者がいきなり発表してしまったりしているので、失意に陥る筆者も多いのではないかと思います。それとも私の考えるよりもライトな意識なのでしょうか。

 まあ初心者は酷評や無評価(このほうがこたえるかもしれません)にめげず、精進していただきたいと思うばかりですが、私がどうしても見逃せず気になってしまうのは、人称の問題です。
 いまさら言うまでもありませんが、小説の書きかたには一人称三人称があります。「私」「おれ」など、登場人物のひとりの視点から語られるのが一人称小説、すべての登場人物を「彼」「彼女」で表せるようになっているいわば「神の視点」から語られるのが三人称小説です。
 たまに、三人称ではあるのですがひとりの登場人物の視点にひたすら寄り添って叙述する、「一人称的三人称」というのもありますけれども、まあ勘定に入れなくとも良いでしょう。
 二人称小説というのはあるでしょうか。書簡体のもの、例えば「あしながおじさん」の最終章などはそんな感じでもあります。ついに正体を顕したタイトルロール・あしながおじさんの言動を、語り手のジュディが終始「あなた」という二人称で描写しています。しかしこれも、例外的と言って良い数しか無さそうです。大部分の小説は、一人称か三人称に分類できるわけです。
 この、一人称と三人称がごっちゃになってしまっている文章が、初心者の書いたものには思ったよりも多いのでした。これはあきれるというよりもむしろ、不思議な、興味深い現象だとすら思えます。一人称と三人称の使い分けは、そんなに難しいことなのでしょうか。
 私はそんなところに苦労したことがないので、よくわからないのです。
 一人称と三人称を交互に用いている小説というのはあります。ビル・バリンジャーの作品などは章ごとに一人称と三人称が交代するものが多く、それが一種の目くらましになって真相を覆い隠し、ミステリーとしての面白さを深めています。いわゆる叙述トリックというヤツです。
 バリンジャーの作品の多くでは、一人称の章と三人称の章とでは時間軸も異なっていて、一人称の章ではまさに進行中の事件の中で、主人公が先の見えない状況にあがき続けます。一方三人称の章ではその事件が「すでに起こったもの」として与えられており、刑事たちが捜査しています。そのため、最初の数章を読んだ段階では、読者には何が起こっているのかわからずに五里霧中に陥ったりします。しばらくして、ああこれは別の時間軸なんだと気づくことになります。読者の視点からは、一人称の章の主人公が、三人称の章で約束された未来に向かって、あがきながらもあらがうことができずに押し流されてゆくのを見ることになり、そこに言いようのないサスペンスを感じるわけです。
 一人称と三人称の混在は、こういう具合にうまく使われていれば非常に面白い作品に仕上がるのですが、初心者の書くものにそんな緻密な計算がおこなわれているわけもないのでした。
 ひどいときには、同じ段落の中で混在していたりします。以下、実際の作品を引用するわけではありませんが、わりによく見るようなパターンを挙げてみます。

 ──鋭い矢が何本も飛んできた。俺は身体をひねってそれを避けた。
 「ふっ、こんなものが俺に通用すると思っているのか?」
 内心でそう呟くクリフであった。


 嘘だと思われるかもしれませんが、この文中の「俺」と「クリフ」は同一人物です。こういった混在が、ひとりふたりではなく、ずいぶん多くの筆者の作品に見られるのでした。
 そこだけ取り出して読んでみれば、おかしいのがすぐわかると思いますが、執筆に熱が入ってくると気がつかなくなってしまうのかもしれません。

 実は、一人称の小説というのは意外と書くのが難しいとされています。
 星新一氏も、まず三人称で書いてみるようにとアドバイスしています。ショートショートの審査員などをしていて、一人称作品の多さと、そのレベルの低さに辟易したのでしょう。同じストーリーを三人称で書き直してみると、なかなかうまくゆかないのがわかるはずだということをどこかに書いていました。

 ──「おれは息が絶えた」
 それなら、この文章は誰が書いたのかだ。


 星氏のそういう指摘を読んで、思わず笑ってしまいました。いかにもありそうです。
 筒井康隆氏の短篇などには、「おれ」が最後に死んでしまうように見えるものがちょくちょくあって、つい真似をしたくなるのかもしれませんが、筒井氏の作品にしろ、よく読むと単純に「おらは死んじまっただ〜♪」で終わっているわけではないのがわかります。死ぬ直前、このまま行けば間違いなく死ぬ、というところで筆を擱いているのです。そのさじ加減が絶妙なので、なんとなく「おれ」が死んで終わったという印象を持ってしまうのでしょう。
 最後に死ぬオチはともかくとして、一人称小説はその他にもいろいろと制約があります。
 最大の制約は、「語り手が知ることのできる範囲の出来事しか叙述できない」という点です。これは初心者でなくとも、けっこうプロの作家の作品でも、

 ──この語り手はこの時点ではこんなことは知り得なかったんじゃないか?

 とツッコミを入れたくなる場合がときどきあります。時代ものを一人称で書くようなケースでよく見られます。
 また当然、語り手以外の人物の心理などは、語り手に推測できる以上のことは描写できません。他の人物の心理を表すためには、
 「眉をひそめた」
 「鼻にしわを寄せた」
 「首を傾げた」
 「腕組みをして仰向いた」
 等々、ボディランゲージの描写を多用せざるを得ず、そうなると相当な語彙力が必要になってきます。
 神の視点から叙述する三人称なら、そんな手間は要りません。「彼女はこう考えた」ですっきりと描写できます。
 だから、本当は小説執筆の初心者は、三人称の小説を書いたほうが良さそうなのでした。
 しかし、一人称で書き始める人が多いのはなぜでしょうか。なんとなくカッコ良い気がしてしまうのでしょうか。

 「俺は……」「私は……」という書きかたで書いたほうが、筆者の感情が移入しやすいということは確かにあると思います。自分のことを書いているような気がして、あるいは自分が主人公に乗り移っているような気がして、書きながらテンションが上がるのかもしれません。三人称で書くのはある程度の冷静さが必要なので、一人称に較べると勢いが出ないということはありそうです。
 しかし、それ以上に、三人称で文章を書くということに馴れていない可能性があります。
 考えてみれば、学校で書かされる作文で、三人称で書くという条件を与えられることはまず無いように思えます。私もほとんど記憶にありません。小学6年のとき、国語の教科書に載っていた物語の「後日譚」を書いてみる、という課題がありましたが、おそらくそれだけだったのではないかと思います。
 私はそのくらいの年齢の頃に、すでにいろんな種類の小説を読んでいたので、作文の授業で扱われなくとも三人称の書きかたをなんとなく身につけていたと思いますが、そういう時期にあまり小説など読んでいなかったり、読んでいるにしても「俺」が活躍するライトノベル調の小説ばかりであれば、いざ自分で書こうとしたときに、三人称では書きづらいという意識になるのも、わからないではありません。一人称で書くのは、作文の延長上という気分もあって気安いのでしょう。
 しかし、上に書いたように、一人称の小説というのはいろいろ制約が多く、難しいものです。ことに、現実世界を舞台としておらず、作者の頭の中で構築した世界において一人称主人公を活躍させようとすれば、描写の難度ははね上がります。
 それで、いつの間にか三人称が混在しているなんてことにもなってしまうのでした。
 もう少し手馴れた筆者にしても、単独の人物による一人称で通すのはしんどさを感じることが少なくないようです。ときおり、別の語り手を起用した章を挟むなどの手段をとっていることがよく見受けられます。わざわざタイトルに「○○視点」と註釈をつけてくれているものもあります。
 複数一人称という技法も、そんなに新しいものではありません。コナン=ドイルよりもっと前に活躍した英国の作家ウィルキー・コリンズの推理小説はよくそういう手法を用いていました。有名なのは「月長石」ですが、事件に関係したさまざまな人物の手記を寄せ集めるという体裁になっています。同じ事柄、同じ人物に関する見かたが、人によって大きく異なるというところがミソで、読者は最初の語り手によって大体の人物像を形作られたキャラが、どんどん覆されてしまうあたりに右往左往しながら、徐々に真相に迫ってゆくことになります。コリンズはディケンズの親友でもあり、ディケンズには推理小説ではないにせよこうした複数視点の作品もあるので、その辺から発想したのかもしれません。
 もう少し時代は下りますが、リチャード・ハル「伯母殺人事件」なども複数一人称の好例です。実はこれを掘り下げようとするとややネタバレになってしまうのですが、邦訳本ではもともとネタバレ同然の訳しかたがされているので構わないでしょう。
 「伯母殺人事件」は、金持ちの伯母を殺害しようと企むニートな甥の手記という形で話が進みます。彼は何度も失敗しつつその都度案を修正して、完璧な殺害計画を練り上げてゆきます。第4章までがそんな調子で、さて第5章に入ると一転して標的となった伯母の語りとなり、甥の邪悪な計画をいかに見破ってきたかが語られ、そして最後には完璧な殺害計画を逆に利用して……というオチになります。
 訳がネタバレ同然と言うのは、日本語訳(創元推理文庫)では甥の自称が「ぼく」、伯母の自称が「わたし」となっていて、第5章の語り手が違っていることが一目瞭然だからです。原文の英語ではどちらも「I」ですから、読者は語り手が代わったことにしばらく気づかず、違和感を積み重ねてゆき、ある時点で「あっ、そうかぁ!」と腑に落ちる仕掛けになっているわけで、そこをきれいさっぱり訳し損ねた翻訳者には猛省を期待します。
 コリンズの例もハルの例も、語り手が代わることがプロットそのものの重要な要素になっていることが明らかです。「俺」の語りきれないところを補足する便宜のために代えているわけではありません。語り手交代という技法も、よほどの腕前を持った作家が注意深くおこなわないと、そうそううまくゆくものではなさそうです。

 かく言う私は、高校時代にとある文芸サークルに入っていて、いくつか短編小説を発表したりもしたことがあります。パソコンどころかワープロも普及する以前なので、ガリ版刷りで会誌を出していたものでした。
 それで思い返してみると、上に偉そうなことを書いたわりには、私自身の作品も大半が一人称小説だったのでした。ただし、もちろん三人称を混在させたりはしていません。
 そういえば他の仲間の作品も、一人称のものが多かったっけ。
 本人は女性なのに必ず「僕」か「俺」で書く人も居ました。
 上に書いた星新一氏の指摘につい笑ってしまったのは、その頃の私自身が、一人称主人公が自分自身を刺すというオチの小説を書いていたからでもあります。ただ、死んだかどうかははっきりしないような書きかたにしてありました。もしかしたら助かったのかもしれません。
 ペドフィリア(幼児性愛)とカニバリズム(食人)を組み合わせたかなり危ない小説も書きました。私は一人称で書く場合はたいてい「私」を使うのですが、この小説だけは「ぼく」を使った記憶があります。徐々に狂ってゆく男の独白ということで、なんとなく「ぼく」のほうがしっくりくる気がしました。
 2年足らず属していたサークル活動に過ぎませんでしたが、趣味全開で愉しめた点ではいままでの生涯でも屈指の時であったように思えます。小説を書いてみたいという気持ちはいまでもあるのですが、この齢になるとかえって怖さが先に立って、なかなか踏み切れません。
 いま、この年齢の私が、異世界召喚ものを書いて投稿サイトに出してみるとしたら、どんなシロモノになるだろうか……などと、ときおり妄想したりしています。

(2016.10.12.)

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