忘れ得ぬことどもII

中国人の国籍感覚

 民進党の党首となった蓮舫氏が二重国籍であったというので騒ぎになったのは記憶に新しいところですし、その騒ぎは終熄するどころかむしろ燃え拡がりつつあるようです。国会議員の中には二重国籍を持つ者が他にも少なからず居り、しかもそれが民進党とか共産党とかばかりではなくて自民党にも居たということが判明したりして、まだしばらくは右往左往が続きそうです。
 要するに国会議員の国籍条項があいまいであったのが問題だったわけです。日本の政治家が日本国籍を持つということはまあ当然として、「他の国の国籍を持たない」という点については特に規定が無かったそうです。多重国籍なんてことがそうそうあるとは思わなかったのかもしれませんが、実際は考えていた以上に多かったというところでしょうか。
 日本は島国だということもあって、わりとそういうところの意識が甘いのでしょう。日本人の顔をしていて、日本語を話していれば、なんとなく日本国民であってそれ以外ではないと思ってしまうところがあります。少数の例外はあるとしても、おおむね「民族≒言語≒国籍」ということが成り立つと考えていられる、ある意味では幸せな国でした。たいていの国では、これらがそう簡単には一致しません。だから国籍ということに関しては大変厳しいことになります。

 さて、蓮舫氏に関しては、擁護する人、攻撃する人、いろいろ居ましたが、議論はあんまり咬み合っていなかった印象があります。擁護する側の論拠が、主に民族差別とかそんなところに偏っていたせいでもあるでしょう。一方叩く側としては、別に民族がどうということではなくて、他国の国籍を持つ──つまり他国に忠誠心を持つ可能性のある人物が、他の職業ならいざ知らず、この国の舵取りをおこなう政治家であって貰っては困るということで、双方の論点がずれていたのでした。
 そのグダグダな議論の火に油を注いだのが、肝心の蓮舫氏の態度でした。多重国籍の件をはっきりと認めて謝罪もせず、かと言って開き直って問題提起に持ち込もうともせず、忘れたとか確認中とか蜿蜒煮え切らない答弁を続けたあげくに、結局他国の国籍を脱していなかったことがはっきりしました。しかし、終始感じられたのは、いったい自分の何が悪いのかわからないと言いたげな本人の空気だったように思えます。攻撃する側にとっては、その空気がいかにもなふてぶてしさに見えて、余計に腹が立ったのでしょう。

 ところで、本当に氏には「何が悪いのかわからない」状態だったと考えてみたらどうでしょうか。
 蓮舫氏は台湾の国籍を持っていたわけですが、民族意識としてはまあ中国人でしょう。近年は李登輝氏のように「中国人とは異なる『台湾人』」という認識を持つ人が増えてきているようではありますが、蓮舫氏の家族が日本にやってきたのはもっと前のことだと思います。
 そして中国人には古来、あんまり国籍の観念がありません。中国の歴代王朝はちっとも人民を保護してくれませんでしたし、そもそも異民族が王朝を作ることも珍しくありませんでした。鮮卑族モンゴル族満洲族による王朝です。そういう異民族支配の時代はもちろん、などの純然たる漢民族王朝の時代にあっても、中国の人民たちにとっては王朝とは本然的な敵であって、国に頼るというような意識は持ちようがありませんでした。
 その代わりに、人々は自分の一族内での助け合いによって生きてゆこうとしました。まあこれも、半ばは建前であって、一族内で凄絶な殺し合いが起きた例も枚挙にいとまはないのですが、いちおうは自分の属する一族こそ、中国人にとっては拠って立つ基盤だったと言えましょう。いまでも、まったく知らない相手と会っても、同姓であればなんとなく信用するという感覚があるようです。
 この一族のつながりは、一部が外国へ行っても有効で、中国人は新しい土地へ行く際、まずはそこに居る同族たち、あるいは同省の者たちを頼るようです。県人会みたいなものですが、それよりずっと面倒見が良くて頼れる存在です。中国人が世界のどこへ行ってもたちまちチャイナタウンを作り上げてしまう秘密はそこにあります。日本人はむしろ、外国へ行くと同国人と関わるのを避けたがる傾向があるので、日本人街なんてものがある都市はほとんど見当たらないのですが、チャイナタウンはある程度の規模の都市であればたいてい存在します。
 この場合、大事なのは同姓であったり、同省人であったりすることなので、中華人民共和国あるいは中華民国の国民であったという事実は、彼らにとってさほど重要な意味を持ちません。国籍など、いとも簡単に変えてしまいます。
 国籍を変えても、本国の一族の者たちとのつながりは強固なままですので、見ようによっては中国のスパイみたいに見えないでもありません。それで必要もない黄禍論などがちょくちょく湧き起こったりするわけですが、彼らはたいていの場合、出身国である「中国」という「国家」にはなんの思い入れも無かったりします。「中国」が領域としている土地に居住している自分の一族だけが無事ならそれで良いのでした。
 そんなわけで、中国人、というか中国出身者には、どこか

 ──国籍なんてどうだっていいじゃないか。

 という意識が残っており、それが蓮舫氏の煮え切らない態度にも顕れていたのだという気がします。日本に来て長いのだから日本人の考えかたくらいわかるはずだとも言えますが、はたして日本に何十年住んだところで、国籍についてそんなに明確に考える機会があるとも思えません。なんとなくあいまいなままでここまで来てしまったのでしょう。
 今回は、そういう人がたまたま政党の党首候補になったということで、蓮舫氏のと言うよりも日本人一般の「国籍観」というものが試されることになったと考えれば、それなりに意義があったようにも思えます。移民をどうするかという問題がクローズアップされていることを考えると、タイムリーな問題提起であったとも言えます。

 政治家や高級官僚や上級軍人などが外国籍を持っていては困るというのが近代の考えかたではあるでしょうが、中国はこの点でも、昔から相当ぶっ飛んでいます。
 阿倍仲麻呂が唐で相当な高級官僚まで昇りつめたのは有名です。彼の就いた秘書監衛尉卿という官職は、国立国会図書館長くらいの立場だと言われることもありますが、なかなかそんなものではありません。官位は従三品で、御史大夫と同格です。御史大夫というのは王朝によっていろんな役割に宛てられており、ほぼ宰相に相当することもありますが、唐の場合はまあ官房長官くらいの地位でしょうか。
 仲麻呂はのちに正三品の安南節度使ヴェトナム総督)にもなっています。ほぼ大臣級です。そして最後は従二品の潞州大都督でした。まあこの最後の官職は老臣に対する名誉職であったような気がしますが、それにしても大都督となればいわば大将です。しかも唐代の大都督はたぶん行政監察権を併せ持っていたはずです。これより高い官位を持つのは、実質宰相である尚書令(正二品)を除けば、太師太傅といった宮廷内の儀礼的なものばかりですから、仲麻呂がいかに高位まで昇ったかわかります。現代日本で喩えればどのあたりでしょうか。外務大臣とか、あるいはせめて駐米大使くらいには相当するのではないでしょうか。
 唐は上に書いたとおり鮮卑族の王朝であり、鮮卑族の絶対数が少ないために、大帝国を運営するにあたって人材が不足し、そのため有能でありさえすれば何民族であろうと構わずに引き立てたのだと言われています。仲麻呂以外にも、高位に昇った外国人はたくさん居ましたし、国家にとって肝心要の軍事ですら、外国人の将軍がずいぶん登用されていました。
 太宗のお気に入りで抜群の戦闘力を誇った尉遅敬徳(うっちけいとく)はおそらく高句麗人と思われます。ほぼ同時代の高句麗の将軍に乙支文徳(いっしぶんとく)という人が居ますが、尉遅は中国語で、乙支は朝鮮語でそれぞれウルチと発音しますので、まず間違いなく同族でしょう。
 玄宗時代に西域で活躍した将軍高仙芝も高句麗人です。この頃はもう高句麗という国は亡びていたので、高句麗の遺民と言うべきでしょうが。この人は多少人格的に難があったようですし、そんなに戦争がうまかったとも感じられないのですが、タラスの戦いアッバース朝軍に惨敗し、その結果として製紙法が西に伝わった(唐軍捕虜の中に紙漉き工が居た)ということで、むしろ文化史の面で名前の残っている人物です。
 同じく玄宗時代の武将であった安禄山ソグド人でした。安禄山は玄宗に気に入られたとはいえ、ふたつも3つも節度使を兼任しています。これは喩えてみれば、北海道東北地方の行政権・徴税権・軍事指揮権を外国人が一手に握ってしまったみたいなものですから、危ないことこの上ありません。はたして大がかりな乱を起こし、10年近くにわたって唐朝の屋台骨を揺るがせました。
 唐は歴代王朝でも特に懐の広い世界帝国だったから……と思われるかもしれませんが、他の王朝のときでも、外国人が高位に昇るというのはけっこう見られました。唐と同じく支配層の絶対数が少なかった朝でも同様の傾向が見られます。モンゴル族のような遊牧民は、もともと血統的な民族感覚には乏しく、ひとつの集団の中に近代的な意味でのさまざまな民族が属していることがむしろ普通であったと言いますから、彼らが契丹族であろうとトルコ系であろうと、ペルシャ人であろうとアラビア人であろうと、役に立つと思えばすぐに登用したのはむしろ当然だったかもしれません。
 そもそも中華帝国というのは、領域のはっきり決まった、近代的な意味での国とは違います。皇帝の居る「中原」がいちばん文明度が高く、そこから遠ざかるにつれてだんだんと文明度が薄れ、文明の光(皇帝の威光)が及ばないあたりになると蛮夷などと言われて蔑まれるという、いわば同心円的な世界観であり、その世界観の中での上御一人が皇帝なのでした。蛮夷の地の出身であっても、中華文明を慕って中原を訪れ、そこでの立ち居振る舞いを身につければ、それでもう蛮夷ではなくなったと見なされ、所定の手続きを踏めば高官や将軍などにも就任できるという仕組みでした。
 つまり、もとから「民族」「国籍」などということにあまり意味を持たせていなかったのが歴代の中国だったのです。

 その事情は、中華帝国が成立する前の、春秋戦国時代でも同様でした。この時代は、といういちおうの宗主国は存在したものの、いまのヴァティカンみたいなもので宗教的権威を持っているに過ぎず、実際には現在のヨーロッパ同様の、中小規模の国家が並立している国際社会でした。
 そういう時代の国籍観とはどういうものだったかというと、春秋時代初期くらいまでは、それぞれの国がいわばひとつの氏族であり、同じ祖先を持つ血族集団、もしくはその祖先を神とする教団みたいなものであったと思われます。そうであれば、おそらくよそ者はあまり歓迎されなかったことでしょう。
 春秋中期になると、周囲の国々を併呑して強大化する国が出はじめます。そうなると、同じ国の中に本来とは別の血族集団、もしくは別の神を信ずる教団を抱えることになります。そのための厄介さは当然あったことでしょうが、新しい人材を採り入れることもできたわけです。この時代に成立した孔子教儒教)は、見かたによってはそれまでのように以心伝心でものごとが運ばない、異質な血族集団や教団を抱えた場合の──言い換えれば「他人を使う」必要に迫られた為政者のためのマニュアルを作ろうという試みであったようでもあります。
 春秋後期から戦国期にかけては、逆に人材のほうから為政者に自らを売り込み、立身出世を目指す図があちこちで見られるようになります。
 なかば伝説的な存在ではありますが、縦横家の蘇秦など、なんと5ヶ国の宰相を兼任したとされています。こんなことが現代社会でありうるでしょうか。英国首相がフランス・ドイツ・イタリア・スペインのそれぞれの首相を兼任するようなものです。
 また、戦国時代には不思議な国際慣習もありました。「置相」と呼ばれる慣習で、自国の重臣を他国に送り、高位の大臣として据えるというものです。大国が属国に対してそういうことをおこなうことはよくありますが、戦国時代の中国では、この置相を相互におこなっていたというのだからあっけにとられます。
 重臣を他国に送るのだから、まあいまで言う大使と考えれば良さそうですが、その大使をお互いに政権内に取り込んで政治に参画させるというのですから、現代の感覚では信じがたいようなことが実施されていたのでした。日本政府がケネディ大使を副総理大臣くらいの立場で雇い入れると考えてみてください。
 最終的に戦国最強となり、天下を統一したなどは、外国人を登用しまくったことで躍進したような国です。西方の小国だった秦がいちおう立派な国家として存在感を持ったのは、春秋中期に宰相となった百里奚(ひゃくりけい)の功績が大きいとされますが、この人は少し前に亡びたの国の重臣でした。
 戦国期には、出身の公孫鞅商鞅)によって法治の基礎が築かれました。次いで出身の張儀によって外交におけるしたたかさを身につけ、出身の魏冄(ぎぜん)が国力を大いに伸張させ、魏出身の范雎(はんしょ)が遠交近攻策を唱えて天下統一の道筋をつけました。最終的に統一を推進したのは始皇帝と言うよりもその大番頭というべき呂不韋でしたが、この人はまたは衛の出身とされています。
 彼らは外国出身でしたが、いずれも誠心誠意秦のために尽くしました。中には私腹を肥やしたと思えないでもない人物も居ますが、国を食い物にしたわけではなく、自分の財を増やすことが秦の財を増やすことにもなると信じていただけのことでしょう。
 ただし、彼らの終わりはあまり芳しくありません。彼らはいずれも、時の君主に信任されることで権力を手にしましたが、その君主が代替わりすると邪魔者扱いされてしまうのでした。遠い牧歌的時代の百里奚は別として、戦国期に挙げた5人の外国人宰相のうち、商鞅は叛逆に追い込まれて戦死し、范雎と呂不韋は自殺せざるを得なくなり、張儀と魏冄は失意の内に秦を去って間もなく死にました。王様に信任されたことで感奮して辣腕を振るうものの、他の大臣や人民、あるいは王様の後継者などに疎まれて斥けられる、というのがパターンになっていたようです。
 もっとも、当人は斥けても、その方針は受け継ぐというのが秦の体質の面白さであったように思います。商鞅が死んでも法治は残りましたし、范雎が自殺しても遠交近攻策は国策として揺るぎませんでした。外国の才能をうまく使い潰しながら躍進したのが秦という国であったと言えるでしょう。そして秦が天下を統一し、「外国」というものが無くなって間もなく、秦はあっけなく亡びました。そう考えてみれば、天下統一の歩みそれ自体が、亡びへの道であったと言えなくもありません。
 しかしこういう歴史を持っているために、中国は代々、外国人を政権中枢に登用することにあまり違和感が無かったのかもしれません。
 そしてはるかな後世、その末裔が日本を訪れて、政権中枢に近いところ(というか、民主党政権時代はまさに政権中枢そのものでした)に昇った際に、外国籍を有していることの何が問題なのか理解できないという事態が起こるというのも、そんなに驚くような話ではない……と言うこともできそうです。
 残念ながら、日本人は外国人の才能を「使い潰す」ほどの甲斐性も冷酷さも持ち合わせていないように思えます。だとすれば、やはり政治家や高級公務員の国籍問題は、いちどしっかりクリアにしておいたほうが良いのではないかと思う次第です。

(2016.10.9.)

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