忘れ得ぬことどもII

震災五年

 東日本大震災から、今日で5年を経過しました。5年というとそれなりにある節目のようなものを感じるのですが、奇しくも5年前のあの日と同じ金曜日となりました。閏年の入りかたによっていろいろな曜日になるのであって、10周年のときは金曜日ではなく木曜日になります。
 同じ曜日ということで、ことさら鮮明に思い出したかたもおられることでしょう。私の場合は、そのころは金曜の午後の仕事が無かったため、家に居ました。マダムもこのところ金曜の午後のフランス語のクラスに出ていますが、5年前のあの日はそのクラスを受けていなかったのか、それとも学期が終わっていたのか、ともかく在宅していました。ふたりで買い物に出かけようとしていたところに揺れが来ました。
 それまでの人生で、震度4より強い地震に遭遇したことがなかったので、さすがに驚きました。本棚の上に積み重なっていた雑誌が落ちてきました。
 わが家の被害はそれだけだったので、他の人の話を聞くにつれ、なんだか申し訳ないような気がしてきたものでした。棚のものが片端から落ちたり、転倒防止器具がかえって仇になって天井が破れてしまった、なんて話も聞きました。
 あとから思えば、東側から伝わってきた地震だったため、揺れの大きなS波(横波)が南北方向の動きであったのが私にとってはラッキーだったようです。うちの家具は南北方向に置いてあるものが多く、横に揺れるばかりで、前後に揺れることがあまり無かったので、中のものが落ちたりしなかったのでしょう。
 予想されている南海地震のときは地震波が南から訪れ、従ってS波は東西方向になるので、うちでも大きな被害があるのではないかと戦々兢々としています。
 ともかく、ふたりとも家に居るときであったのは幸いでした。どちらか一方、あるいは両方が外出中であったら、心配でたまらなかったでしょう。
 すぐにテレビの速報をつけました。私の住んでいるあたりは震度6弱とか言っていましたが、周辺は全部5強になっていたので、たぶん5強が正しかったのだと思います。川口の測量地点は、いつもわりと大きめの数字を出す癖があるようでした。
 しばらく見ていて、速報がだいたい同じことの繰り返しになってから、予定どおり買い物に出かけました。看板が落ちた店が2軒ほどありましたが、怪我人は居なかった模様です。

 震源に近い東北地方は揺れもひどかったものの、死傷者はごく少ないようだ……と、最初のうちは思っていました。速報を見ていても、倒壊した家があるようでもなく、火災の気配もあまり感じられませんでした。
 発生時刻が14時46分という、あまり火を使っていない時間帯であったのも良かったでしょうが、それよりも建物の耐震化が予想以上に進んでいたことに感心しました。私はこの日誌でも何度も書いているし、これからもしつこいくらいに主張したいと思っていますが、東日本大震災では、「地震による死傷者」は非常に少ないし、「地震による建物の被害」もほとんど無かったのです。つまり日本の耐震技術は超一流であったことが証明されているのでした。
 被害の大半は、よく知られているように、津波によって起こっています。
 こちらに関しては、現在の技術ではどうすることもできませんでした。
 ちょうど民主党政権時代の事業仕分けで、「400年に一度の津波被害を防ぐためのスーパー堤防」の予算が無駄な支出として取り消されたところへ、人間の浅知恵と傲慢を嘲笑うかのように「千年に一度」という規模の大津波が襲来したのでした。
 もともと三陸地方はリアス式海岸が連続し、たびたび津波の被害を受けている地域です。湾口がラッパ型に開き、奥へ行くほど狭くなっているので、波の高さがどんどん上がります。外洋では2メートル程度の高波でも、湾の中に入ると10メートルになってしまうという難儀な地形が、百何十キロにわたって連なっているわけで、過去にも多くの悲劇を生んできました。
 津波の被害の根本的な解決方法は、海の近くに住まないことしかありません。津波そのものを消してしまえるような技術を人類はまだ持っていませんし、どんなに高い堤防を作ったとしても、それを上回る高さの波が押し寄せればどうしようもありません。実際あの時は20メートル以上の高さになっていたようです。7、8階建てくらいのビルが一斉に倒れてくるようなものですから、ひとたまりもないでしょう。
 しかし、漁に出るためにはあまり海から遠ざかるのも不便です。昔から、津波があるたびに「この線より下へは住んではいけない」という申し合わせができるものの、時が経つうちにだんだんと海の近くに家が増え、忘れた頃にまた津波が……という繰り返しであったようです。懲りないといえば懲りない人たちと言えますが、便利さにともなうリスクをどう考えるかということです。
 ともかく「千年に一度の津波」が東海岸をかきむしりました。だから「震災」ではなく「津災(しんさい)と呼んではいかがかと私は書いたことがあります。
 福島原発の事故も、津波によって惹き起こされたのであって、地震の揺れでやられたのではありません。その後の、ちょっと異常とも思われる原発の忌避騒ぎは、なんだかその違いを意図的に混同しているようで、私にはいささかうさんくさく見えるのです。福島のような事故を今後起こさないために必要なのは、津波の対策であって、原発の近くに活断層があるとか、そんなことを調べるのが重要とは思えません。福島原発と同じくらい揺れた女川原発には、別に深刻な事故は起こりませんでした。

 5年という歳月が過ぎて考えてみると、思ったより復興が進んでいない気がします。それだけ大きな被害だったということも言えるでしょうが、日本という国が、5年かけてこの程度のことしかできないのだろうかと、やや歯がゆい想いがしてなりません。関東大震災の5年後(昭和3年)にはもっと目覚ましい復興がされていたように思えますし、戦後5年の昭和25年も、もう少しなんとかなっていたような気がします。
 国全体として、活力が無くなってきていると見るべきなのでしょうか。
 それもあるかもしれません。ただ私はそれよりも、復興のグランドデザインを描ける人物が居ないことに問題があるような気がしてなりません。関東大震災の直後には、後藤新平というすごい人が出ました。復興院総裁となった後藤は、この際東京を大改造しようともくろみ、矢継ぎ早にヴィジョンを発表しました。大風呂敷と呼ばれましたが、大災害で人々の気持ちが委縮しているときには、そういう大風呂敷を拡げられる人物こそ大事です。
 残念ながら、後藤の大風呂敷は、現実の予算の壁に突き当たって、その大構想のほんの一部しか実現はしませんでした。銀座通りなどは後藤の遺産です。後藤はああいう大通りを東京に何本も造り、交通体系や建造物を一変しようと考えていました。大通りを造るのは火災が拡がらないための対策でもあります。
 そういえば後藤の出身は岩手県でした。彼がいま生きていたら、われわれが思いもつかなかったような壮大な復興プランをぶち上げてくれたのではないでしょうか。それはもしかしたら経費がかかりすぎて現実には無理な案かもしれません。しかし少なくとも、人々が夢を見、元気になれるような、そんな案であるに違いありません。
 そういうデザインを描ける政治家となると、現代では石原慎太郎氏くらいしか居なかったと私は思い、彼が「最後の仕事」として東北復興の指揮をとってくれないかと期待したものでしたが、残念ながらそのようにはなりませんでした。
 現状、復興については各自治体がバラバラに考えているばかりで、それではなかなからちがあかないのも無理はありません。市町村レベルでは予算規模が小さく、従って考えることも小さくならざるを得ないのです。そこを超えて、どういう「新しい東北沿岸地域」を構築してゆくのか、大きな発想力を持つ政治家が望まれます。小役人に考えられることではありません。

 それにしても、あの日のことはついこの間のように憶えているのに、もう5年経ってしまったというのが不思議な気がします。
 震災の記憶を風化させてはならない、などとよく言われていますが、体験者にとっては風化させるも何も、忘れようがないことであったのではないでしょうか。ほとんど物理的被害を受けなかった私でさえ、鮮明に憶えているのです。風化させてはならない、などというのは、余計なことであるようにも思えます。
 むしろ逆に、忘れてしまいたい人だって居ることでしょう。いまでもあの日の夢を見て、真夜中に飛び起きる人も居ると思います。なぜあのときこう行動できなかったかと悔いを残している人も少なくありますまい。そんな人々に、3.11を忘れるなというのは、ある意味残酷なことなのではないでしょうか。
 憶えている人は憶えている、忘れる人は忘れる、それで良い気がします。もちろん行政などに対して「忘れるな」と念を押すのは悪くないと思いますが。

(2016.3.11.)

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