忘れ得ぬことどもII

超ひも夢想

  私が超ひも理論を知ったのはもうずいぶん前になります。講談社ブルーバックス『アインシュタインを超える』という本ではじめて接したのですが、この本の刊行は、いま奥付を確認したら昭和63年のことでした。つまりかれこれ28年前ということになります。
 この本は超ひも理論の第一人者と認められているミチオ・カク博士が、サイエンスライターのジェニファー・トレイナー女史と共著で書いたものでしたが、訳文がこなれなかったのか、いまひとつイメージがつかめませんでした。しかし翌年の夏になって、『アインシュタインを超える』の監訳者であった広瀬立成博士が、やはりブルーバックスから『超ひも理論と「影の世界」』という本を出したのでした。こちらはもともと日本人著者が書き下ろしたものでもあり、非常に丁寧にかみ砕いた筆運びになっていたため、私はようやくこの理論の概要を理解することができたのでした。
 いずれにしろ、30年くらい前から唱えられている説であり、決して新奇なものではありません。しかし、現代の観測技術では証明することも反証をおこなうことも困難で、将来それが容易になるだろうという見通しもまったく立っていないので、いまひとつ物理学界の主流的な考えにはなりきれないようです。
 私が上記の本で超ひも理論を知ってのち、私の知る限りでも数回、浮き沈みがありました。
 「これはやっぱり意味の無い理論なのではないか?」
 と否定する声が高くなる時期と、
 「いろんな疑問に説明をつけられるのは、やっぱりこの理論しか無いのでは?」
 と持ち上げられる時期とが交互にやってきているようなのです。要するに、証明も反証も困難であるために、研究者の好悪で判断される面が大きいというところかもしれません。

 超ひも理論の基本的発想はごくシンプルです。「もの」を切って分けて、もうこれ以上分割できない最小の単位となったものを、普通「素粒子」と呼びますが、これが点状の粒子であるという従来のイメージに対して、長さを持つ「ひも(超ひも)」であろうというのが骨子になっています。
 その背景には、加速器の発達に伴って、素粒子とされるものが実に多種類発見されてしまったことがあります。これについては前のエントリーでも書きました。
 「もの」の根源が何なのかということに関しては、人類ははるか昔から考え続けています。西洋の火風水地の四元説、中国の木火土金水の五行説なども、「もの」が何からできているのかを一生懸命に思案した結果の考えかたです。
 2千年以上の試行錯誤の結果、どうやらデモクリトスの唱えたアトム説が正鵠を射ているらしいということになりました。つまり「もの」は非常に微小な、それ以上は分割できない粒子から成り立っており、その粒子の密度や積み上げられかたによって「もの」の性質が定まるのであろうというわけです。
 顕微鏡の発達に伴い、人間は非常に小さなものを観察できるようになりました。この世のあらゆる「もの」は、デモクリトスが言ったように、分子というものから構成されていることがわかりました。
 しかし、分子にもいろんな種類があるようです。種類があるということは、もっと根源的な「もの」が存在することにほかなりません。科学は、ものごとを極力共通した概念で説明しようと言う営みであって、「性質の差」も、何かそこに共通する「もの」があり、その「もの」の「量の差」に還元したい、いや還元できるはずだという信念に基づいて発展してきました。
 分子はどうやら、もっと小さな原子の組み合わせによって構成されているようです。この原子に、デモクリトスの言ったアトムという言葉が宛てられました。人類は今度こそ根源的な粒子を発見したと考えたのです。
 ところが、原子にも多種多様なものがあることが判明しました。それも5つや6つではありません。水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム・硼素・炭素・窒素・酸素・フッ素・ネオン……重さも性質もさまざまな、何十も(当時)の種類の原子が存在しました。こんなに種類があるのでは、原子も本当のアトムではなかったことになります。
 研究者たちは研究を続け、ついに原子が、電子・陽子・中性子の3種類の粒子から成り立っていることを発見しました。原子の種類を確定するもっとも重要なことは陽子の数であったのです。電子は原子の電気的性質を、中性子は同位体の存在を説明するものでしたが、原子に含まれる陽子の数こそが、それぞれの原子の個性を決めることになっていたのです。人類は、「もの」の性質を、ようやく何かの「個数」として表現することができるようになりました。原子を構成する3つの粒子こそ、本当のアトムであったのです。

 これで終わっていればめでたしめでたしだったのですが、そうはゆきませんでした。原子の内部構造を調べるにあたっては、すでに光学的な顕微鏡は役に立たず、電子顕微鏡、そして加速器がものを言うようになっていました。加速器は、ぶっちゃけて言えば任意の粒子を加速してエネルギーを与え、他の粒子に衝突させて壊す装置です。壊すことで中身を取り出そうというわけですが、その過程で、未知の粒子が次から次へと出てきたのでした。
 それらの粒子は、陽子や中性子、あるいは電子と、どう見ても同レベルのもので、原子のような大きさは持っていません。しかし性質はいろいろ異なっています。つまり、陽子も中性子も、まだ根源粒子ではなかったということになります。
 現在では、陽子と中性子はそれぞれ3個のクオークから構成されていることがわかりました。しかし陽子と中性子を作っているのはアップクオークダウンクオークという種類だけで、クオークには他に、ストレンジ・チャーム・トップ・ボトムという4種類が存在することも判明しています。
 また電子はどうやら内部構造を持たないようですが、ニュートリノという親戚みたいのが見つかり、しかもそれもまた1種類ではないようなのです。
 さらに科学者は、「もの」だけでなく、そこに働く「力」までもやはり同じ土俵で説明しようという野望を抱きました。それというのも、粒子であると信じられていた電子が、実は「波」の性質を併せ持っていることがわかったからです。これは電子だけでなく、他の素粒子にも共通する性質でした。逆に「波」であるとしか考えられてこなかった光などにも粒子としての性質が備わっていることが判明し、「光子」という言いかたがされるようになりました。
 素粒子に、粒子と波の両方の性質があるのならば、「力」を伝える(媒介する)ものもまた素粒子と考えて良いはずです。「力」のひとつである電磁力を媒介するのが光(光子)であることがわかっているので、他の種類の「力」──強い力、弱い力、重力──も素粒子によって伝えられると考えられます。実際には、ゲージ粒子というものを交換することで、物質粒子はお互いに作用を及ぼすと考えられました。この発想の原型となったのが、日本で最初にノーベル賞をとった湯川秀樹博士の中間子理論です。
 この理論は、さまざまな疑問に答えをもたらすことができたので、まず間違いないだろうということになりました。ただし、さまざまな新しい疑問も産み出しました。
 力を与えたり受けたりするのも素粒子、その力を伝えるのも素粒子と考えると、いろいろ矛盾も発生するのです。そのひとつに、あちこちの数値が無限大になってしまうという問題点がありました。電荷が無限大になってしまったり、重力が無限大になってしまったりしたわけです。
 これを解決したのが、日本でふたつめのノーベル賞をとった朝永振一郎博士のくりこみ理論でした。無限大となってしまう要素を、有限値に強引にまるめこんでしまうという力業で、なんだか姑息な手段のようにも見えますが、これにより理論と観測結果がすっきりと一致したため、それで良いということになっています。物理学にはこういう、数学的手順としてはおかしいけれども現実に成立しているのでOK、という理論もいくつかあるようです。
 ともあれ、研究者たちは根気強く理論を立て、観測を繰り返し、疑問をひとつひとつ解明してきました。多くの矛盾は解消しました。
 しかしそれでも、「もの」の究極的な根源をつかまえるには、いまだほど遠い状態です。素粒子の種類や性質は、とても「素」と呼ぶにはふさわしくないほどに増えてしまっています。これを「何かの“量”」に還元できない限り、根源捜しは終わりません。
 そこで出てきたのが、根源は「つぶ」ではなく「ひも」なのではないかという説なのでした。

 素朴な疑問として、長さを持っているのなら例えば半分に切ることができ、最小単位とは言えないのではないかという気がするのですが、その点についてはっきりした説明を読んだことがありません。たぶん切っても属性は変わらないのでしょう。それ以上に、問題の「超ひも」が極度に小さくて、切断など人為的な操作など加えようがないということなのかもしれません。
 超ひもの長さは、おそらくプランク長以下であろうと考えられています。プランク長というのは、不確定性原理物質の位置と運動量、あるいは時間とエネルギー量は決して同時に確定できず、それぞれの誤差を掛け合わせたある値よりも厳密に決めることが原理的に不可能であるという理論)に基づく長さで、約1.6×10−35mと考えられています。
 10-35メートルなど、まったくイメージが湧かないと思います。最近はやりのナノテクは、10-9(10億分の1)メートルくらいの大きさのものを扱う技術です。陽子や中性子は10-15(1000兆分の1)メートルくらいの大きさです。プランク長はそれよりさらに20桁くらい小さいことになります。陽子や中性子が直径10キロくらいの小惑星だとしたときの、当の陽子や中性子の大きさにあたります。とにかく想像を絶した小ささであると同時に、プランク長よりさらに小さいとなると、上記の不確定性原理により、超ひもがどこにあるのか、どのくらいの速さでどちら向きに動いているのか、一切わからないことになりますので、切断などの操作のしようもないということです。
 超ひもには2種類しかありません。環になっているものと、なっていない棒状のものです。環になっているのが物質粒子、棒状のものがゲージ粒子に対応するとされています。
 そして、これらの超ひもは、振動します。振動というのが本当に物理的な振動なのか、クオークの「色」や「香り」と同様の比喩表現なのかは知りません。ともあれ、人間はその振動を従来の「素粒子」として認識するのだそうです。
 イメージとしてはヴァイオリンの弦でしょう。例えばG線を弓で弾くと、中央のドのすぐ下のソの音が鳴りますが、実際には同時に無数の「倍音」が鳴っています。1オクターブ上のソ、その上のレ、そのまた上のソ、その上のシ、といった具合に……。
 弓で弦を弾くと弦が振動し、それが空気の振動となってわれわれに音として認識されるわけですが、弦は全体が振動すると同時に、2分の1、3分の1、4分の1……という長さでも振動しており、実はその足し合わせが「ヴァイオリンの音色」として認識されます。楽器によって、特定の倍音が強かったり弱かったりして、それによってわれわれは、クラリネットの音、マリンバの音などを区別できるわけです。
 倍音を聴くのは簡単で、弦の長さの半分のところに軽く指を当てると、基音が消えて、2分の1の長さに相当する音、つまりオクターブ上の音がよく聞こえるようになります。同様に3分の1のところに指を当てると1オクターブと5度上の音が、4分の1のところだったら2オクターブ上の音が聞こえます。弦楽器のフラジオレットという奏法は、弦のこの性質を利用しています。
 1本の超ひもも、ヴァイオリンの弦と同じように、多数の振動が足し合わされた形で振動しており、われわれは状況によって各種の振動を別個の素粒子として認識するということになります。基音に相当するのが、ごく普通のアップクオークとかダウンクオークとかなのでしょう。そこにエネルギーを足してゆくと、他の素粒子としても見えるようになってゆくわけです。倍音は原理的に無限に存在しますので、今後いくら素粒子が増えてもこの説明で事足ります。
 超ひも理論が劃期的だったのは、「もの」であったはずの素粒子を、振動という「こと」で説明してしまえるという点でした。まさに発想の大転換です。その点が、飛躍を好む研究者からはもてはやされ、地道な積み重ねを好む研究者からはうさんくさく思われる原因になっているのだと思われます。

 うさんくさいといえば、超ひも理論にはもっと信じがたい性質があります。理論が成り立つ条件を探ってみると、われわれの認識している4次元時空ではまったく足りないことがわかったのです。なんと超ひも理論が過不足無く成立するためには、26次元空間が必要というのでした。
 どうしてそんなことになるのかは、私にはさっぱりわかりません。超対称性という数学概念を用いて計算するとそうなるのだそうですが、超対称性など、名前はカッコ良いとは思うものの、どんなことなのか見当もつかないのです。現代数学の中では、私は無限論などはわりと好きでいろんな本も読み、理解はできていないにしてもいちおう話についてゆくくらいはできると思っていますが、超対称性というのはたぶん群論の発展した先にあるもので、そちらにはまったく歯が立ちません。群論を創始したのはガロワですが、私はガロワすらちんぷんかんぷんです。
 26次元などというべらぼうな話に、思わず眉に唾をつけた研究者も多かったものと思われます。まさしく、うさんくささ満開です。
 その後、いろんな人が計算し直して、さすがに26は不要、10次元だか11次元だかで成立するはずだということになったようですが、それでも6つか7つ次元の数が余計です。
 超ひも理論反対派は、このためにいまだに超ひも理論を信用していません。一方賛成派は、それらの次元はどこへ行ったのだという反対派からの攻撃に対し、

 ──宇宙のインフレーション期に、非常に小さな領域(たとえばプランク長以下)にまるめこまれてしまったのだ。

 と説明しています。いかにも苦しい説明ではあります。素人である私でもそう思うのですから、反対派の研究者ならいくらでも反論の根拠を考えつけるでしょう。
 とにかく話が突飛すぎて、はたして何をどうすれば証明もしくは反証できるのかという道筋さえ見えていません。現在の観測技術で扱えるのは10-20メートル(10京分の1ミリメートル)程度の小ささまでで、超ひもの大きさとされる10-35メートルまでには、いまだ15桁ほど精度が足りないのです。従って直接の存在証明(もしくは反証)をおこなうのは当分無理でしょう。そういう場合は、他の現象から間接的に証明するというのが常ですが、その方法もまだ見つかっていないのでした。
 30年間、持ち上げられたり貶められたりを繰り返して、さっぱりらちのあかない超ひも理論が、この先、私の生きているあいだになんらかの進展を見せてくれるのかどうか、まるで見当もつきません。あらゆる物質、あらゆる力を一元的に説明してしまおうというこの理論は、ヒッグズ粒子が確認されて現在最終段階を構築中である「標準理論」の2段階か3段階あとに、はじめて真剣に検討されるべきものなのでしょう。半可通の門外漢としては、期待を込めて見守っているよりほかに仕方がないことなのかもしれません。

(2016.1.27.)

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