忘れ得ぬことどもII

人気デザイナーの凋落

I

 2020年に開催予定だった東京オリンピックですが、どうも準備段階においていろいろケチがつきまくっており、幸先が悪いような気がしてなりません。
 そもそも、東京の8月に競技会を開くのはかなり無謀な気がします。私が生まれた年(1964年)にやった東京オリンピックでは、開会式が10月10日でした。だからこの日が「体育の日」に制定されたのです。現在は移動休日になってしまっているので、若い人の中には「体育の日」の謂われを知らない人も居るかもしれません。ともあれ、10月開催ならば気候もちょうど良さそうです。
 オリンピックが8月開催になったのは、テレビ局、とりわけUSAのテレビ局の都合に合わせたのだと言われています。つまり、秋の開催にすると、野球のワールドシリーズなどの放映とかち合ってしまうので、どうも具合が悪い。それでその種の行事が少ない8月に開催するようIOCに要請したというのです。IOCとしてもお得意様のことですから無碍にもできず、要請を呑んだというわけです。
 しかし、近年の東京の夏の気候を思うと、8月に野外競技をおこなうのは無理ではないかと思えてなりません。8日間も連続で猛暑日が続くなんてことが、今年だけの異常現象とも思えないのです。これから5年、むしろますます猛暑日が増えてゆく傾向にあるのではないでしょうか。

 鍛錬を積んでいるアスリートたちは、なんとか大丈夫かもしれませんが、観客には間違いなく熱中症患者が頻出するでしょう。ただでさえ蒸し暑い上に、応援で頭に血が昇ります。病院に担ぎ込まれるくらいならまだしも、そのまま昇天してしまうなんてことも無いとは言えません。応援の観客に熱中症による死者が出たりしたら、大会の汚点になります。
 アスリートのほうも、あまりに苛酷な環境では、記録が伸びるとも思えません。新記録がろくろく出ないオリンピックなど、ちっとも面白くないではありませんか。
 とにかく東京という都市は、緯度だけ考えてもヨーロッパのほとんどの都市よりも南にあり、最近の夏の気候ときたら、気温も湿度もほぼジャカルタと同じくらいになっているということを、関係者はいちおう配慮すべきでしょう。テレビの放映権料より人命のほうが大事です。

 さて、ケチのつきはじめはご存じ新国立競技場です。国際コンペにより設計を決めたのは良いとして、建設費があまりに高額になってしまい、とうとう見直しがおこなわれることになりました。
 見栄を張ってゴージャスなドレスを発注したら、思ったより代金が高くてあわててキャンセルしたみたいな、これもあんまり格好の良い話ではありません。しかもキャンセルと決まるまでえらくゴタゴタした印象があります。審査した人のメンツなどもあって手間取ったようです。
 そもそもこういうたぐいの国際コンペというものが、どういった形でおこなわれるのか、私は全然知らないのですが、予算をあらかじめ示すということはしないのでしょうか。あるいは、建設費の見積もりを添付させるなどということもしないのでしょうか。予算の上限が示されないのであれば、それはいくらでも豪華な、また奇抜なデザインができるに決まっています。
 審査に関わった人の話では、採用されたデザインは非常に造形が複雑で建設が難しいように思われたが、わが国の建築技術にとって大きなチャレンジとなることを重視した、というような意図があったと聞きます。芸術や学問というのは採算性をあまり考えずにやっても良いものですが、技術というのは「予算内におさめる」ことも重要であって、野放図に費用を食うのであれば、それはもうチャレンジでもなんでもないように私などは思うのですが、どんなものでしょう。
 異常なバブル景気と、それがはじけたあとの停滞の20年を経た日本としては、こういうところで厖大なカネをかけて人の眼を驚かそうとするのではなく、むしろ低予算の中でどれだけ智慧をしぼって感動を生み出せるかということを考えたほうが、現状にふさわしいと思うのです。そう思って採用デザインを見れば、なんともバブリーであって、バブル時代を満喫した世代の連中が「夢よもう一度」とばかり選んでしまった感が拭えません。
 日程的には厳しいかもしれませんが、見直しに決まって良かったと思います。

 それから、大会エンブレムにもケチがついています。
 もともと、黒い帯が中央を通過しているTの字のデザインは、「なんだか不吉だ」「喪章みたい」などなどとささやかれ、不評だったようなのですが、ベルギーのデザイナーが作った劇場のロゴに酷似しているという話が出て、やにわに盗作疑惑が持ち上がりました。
 比較画像を見ましたが、なるほど似ています。
 デザインのことですから、偶然意匠が似てしまったということが無いとは言えません。しかしそうだとしても、先行のものに似たのがあり、それが問題になったとなれば、やはりケチがついたわけであり、取り下げるのが作家的良心というものではないでしょうか。
 しかし、この作者はしばらく音信不通ののちに記者会見を開きましたけれども、ベルギーのロゴは見たことが無いと主張し、またそのロゴと大会エンブレムがいかに「似ていない」かを必死になって訴えていました。
 人が「似ている」と思うのは、細かい要素の配分や配置がどうだという話ではなく、全体の印象として感じてしまうものですから、そういう細かいところを持ち出して

 ──どうだ、全然違うだろう。

 と縷々説明されても、印象が変わるわけではありません。そういうことは、曲がりなりにも視覚表現を仕事にしている人なら常識としてわかっているとばかり思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。
 ところが、総合責任者と言うべき舛添都知事が
 「(作者の説明に)非常に説得力を感じた」
 と言って、大会エンブレムをそのまま使い続ける意向を明言してしまいました。どこに説得力を感じたのかちゃんと説明して貰いたいものです。なんとなくこれも、メンツがからんでいるような気がしてなりません。
 不思議なことに、テレビでこの問題が採り上げられる際は、作者を擁護し、不使用を訴えたベルギーのデザイナーをくさす論調が多かったようです。また同業者のデザイナーたちも同様でした。中には

 ──これを盗作だなどと言う手合いは、アニメのキャラクターの顔が区別できないオカンと変わらない。

 などと挑発的な発言をする人も居ました。一体に、

 ──シロートが知ったようなことを抜かすな。

 という調子が同業者内の主流であったようです。しかし、エンブレムを見るのは全世界のシロートさんたちなのです。

 ところが、ここ数日、風向きが変わってきました。
 ネット上で、この作者の他の「作品」が次々と検証されはじめたのです。特に、シリーズで委嘱されていたらしいサントリーのトートバッグのデザインなどが槍玉に挙がりました。
 その結果、かなりの割合の「作品」に、先行する「酷似したデザイン」が存在することが判明してきたのです。フランスパンのデザインは、発見された個人ブログの写真と重ね合わせてみると完全に一致していましたし、泳いでいる人のデザインも、多少手足の位置は違いましたが、人体の角度から影のつきかたまでぴったりと一致しました。まあ、中には牽強付会と思われる例もありましたが、それにしても「打率」が高すぎます。
 もちろんデザインという部門には、コラージュという手法があることくらいは誰でも知っています。しかし、コラージュというのは既存の素材を用いて何か別のことを表現するための手法であると私は理解しています。また、しばらく前にマッド・アマノ氏の事件があったように、コラージュは盗用すれすれの技法なのであって、よほど注意深く使用しないと誤解を免れません。
 「コラージュやフリー素材も知らんドシロートどもが」
 最初のうちそんな調子でうそぶいていた同業者たちの中から、
 「ありゃ、これはさすがにアウトなのではないか?」
 と「転向」する人が徐々に出てきました。
 また、大会エンブレムのデザインを審査した委員が、この作者の「身内」とも言うべき人たちだったことも暴露されています。ひとりは彼の「師」みたいな立場であり、もうひとりはかつて彼がコンペで入選させたことのあるデザイナーであったというのです。デザインの世界とは、そんなものなのか……という失望が拡がっています。

 この作者がいささかなりともオリジナリティを発揮したと考えられる「絵」は、非常に素朴なタッチの、童画風なものであったようです。それ以上の「オシャレな」「かっこよい」ものを求められたりすると、どこかから素材を拾ってきてわずかなアレンジを施すくらいしか手がなかったものと見えます。きっと自分でも最初のうちは

 ──これは「パクリ」などではない、「コラージュ」なんだ。

 と自分に言い聞かせていたのかもしれませんが、それでけっこう通ってしまったために、だんだんと抵抗感が無くなって行ったのでしょう。トートバッグのデザインをしているくらいだったら、「元ネタ」を検証するような人も居なかったでしょうが、オリンピックのエンブレムともなればそうもゆきません。あいにくと、ネットで画像検索ということが簡単にできるようになっています。誰も疑わなかったうちは安全でしたが、ひとたび疑いを持たれれば旧作を含めて徹底的に検証されることになってしまいます。
 盗作という「意識」はたぶん無かったのでしょう。エンブレムにしてもひょっとすると本当に「偶然」なのかもしれません。しかし、実際に多くの人が「似ている」と感じるロゴがあり、そちらから使用の差し止めを求められている以上、要するに「ケチがついた」わけであり、使用は差し控えたほうが良いのではないでしょうか。
 視覚的なデザインと、音楽のことを同列には論じられないかもしれませんが、既存の曲と「似た」フレーズが出てきてしまうことは私にも無いとは言えません。
 「ここ、○○○に似てますね」
 と演奏者に言われたりしたこともあります。その場合、私の反応としては、
 「あ、そういやそうだね」
 と苦笑するか、
 「そうかあ?」
 と反問するか、そんなものでしょう。
 「バカを言うな、○○○はハ長調だがここは変ホ長調だ。それにテンポも違う。だいたい扱いかたがまるで違っている。どこが似ているものか」
 などと躍起になって否定したら、むしろ変なものです。エンブレムデザイナーの答弁は、これとそっくりである気がするのです。
 お断りしておきますが、私は「盗作」についてはわりと寛容なほうです。オリジナルより良いものができると思うなら堂々と盗めば良い、という考えの持ち主です。それを裁判沙汰にしたりするのは表現者としての敗北にほかならない、とさえ思っています。
 しかし、その私から見ても、今回の大会エンブレム騒動は、どうにもいただけません。
 多くの人が「似ている」というものを、必死で「いや、似てなんかいない」と言い張るのは、やっぱりどこかにやましさがあるんではないかと思えてしまうのです。

 オリンピックについては、あとボランティアの制服デザインもだいぶ批判されています。変にごてごてして、ちっとも日本的でなく、むしろ色づかいなどが李氏朝鮮時代の衛兵の服にそっくりだなどと指摘されています。
 ネット時代で、いろいろ泡沫的な意見がかまびすしいということはありますが、関係者がそれを軽視して無理矢理押し通すというのもいかがなものでしょうか。やはり多くの人に祝福されるオリンピックであって貰いたいと思う次第です。

(2015.8.12.)

II

 引き続き、東京オリンピック大会エンブレム盗作疑惑に関連して。
 ここ数日で、風向きが変わってきたように思います。
 テレビのワイドショーなどでは、当初、この作者、すなわち佐野研二郎氏氏を擁護するような論調が目立ちました。
 「この部分が離れているから、ドビ氏(ベルギーの劇場ロゴのデザイナー)に影響を受けたとは考えにくい」
 「商標登録されているわけではないので、法的にはまったく問題ない」
 といった苦しいコメントから、
 「ドビ氏は今回のことで売名を狙っているのではないか」
 などという失礼きわまる勘ぐりまでおこわなれていたようです。多くの「同業者」たるデザイナーたちも、ツイッターやフェイスブックなどで、素人が知った風な口を叩くなよがしのメッセージを発信していました(ただし、門外漢の私などでも名前を知っているような著名なデザイナーからの発言は、あまり見た記憶がありません)。
 それに対して、ネット上では佐野氏のこれまでの「作品」の検証がはじまっていました。
 いや出てくるわ出てくるわ、佐野氏の「作品」には、続々と「先行する酷似したデザイン」が発見されたのでした。
 偶然似てしまったとかいうレベルではありません。明らかに同じもので、中には素材の加工すらしないでそのまま使っているデザインすらありました。

 「これは先行作品へのリスペクトオマージュというものだ」
 「コラージュという技法を知らないのか、素人ども」
 同業者たちは、いろいろ検証がはじまっても、まだそんなことを言っていたりしましたが、徐々に

 ──あ、これはいかん。

 と気がついたようで、
 「これはアウトではないか」
 と呟きはじめました。
 ことに、「パクられ元」とされるデザイナーたちからだんだんとコメントが発せられるに伴って、沈没船から逃げるネズミたちさながらに手のひらを返しはじめました。
 それと期を同じくして、テレビでも上記の検証が採り上げられ、ゲストなども否定的な発言をするようになってきました。

 前回も書きましたが、佐野氏の本当のオリジナルと思われるデザインは、童画調の、とてもシンプルなものです。色の使いかたなども単純で、切り絵のようなベタ塗りが基調となっています。これはこれで、独特の味のあるデザインと言って良いと思います。ただし、「達者な絵だな〜」「オシャレなデザインだな〜」等々と感じられるようなものではありません。ひとことで評せば「朴訥」といった印象です。
 そういうデザイナーが、売れっ子になり、業界の寵児となってしまい、ついにはオリンピックの大会エンブレムを任されるほどの晴れ舞台にひっぱり出されたのが、言うなれば悲劇だったのでしょう。
 クライアントから「ぐっとオシャレなデザイン」を求められても、彼にはそれを形に仕上げる力が無かったのではないでしょうか。
 デザインというのは、普通の絵画と違って、クライアントの要望がすべてです。どんなに絵がうまくとも、あるいは味わいのあるタッチでも、クライアントの求めるものと違っていたら価値を持たないし、お金にもなりません。齢が行って、ある程度作風が決まってからは、依頼するほうも「このひとはこういう絵柄だから」ということを考慮するでしょうが、若いデザイナー相手だとそんなことはわかりません。
 実際、イメージが伝わらないことを懸念して、

 ──こんな感じでお願いします。

 と既成のサンプルを見せるクライアントも少なくないそうです。
 ここはどうも私などには理解しにくいところで、私が例えば

 ──ドビュッシーみたいな曲を作って下さい。

 なんて依頼を受けたら困惑するばかりでしょう。そんなクライアントは「おととい来い」と蹴り出してやりたいところですが、私も気が弱いので、
 「いや、それはちょっと、ドビュッシーと私とではそもそも感覚が全然違うわけで……」
 云々と言葉を濁す程度のことでしょう。いずれにしろそんな依頼は受けかねます。
 もっとも、オーケストレイションの仕事で、原譜に「バッハ風」「ここ、ラフマニノフ風」等々と書かれていたことはあります。デザインの世界で「こんな感じに……」というのは、むしろそれに近いのかもしれません。
 佐野氏がどういった制作歴を持っているのかはよく知りませんが、駆け出しの頃はやはりそういった形で依頼を受けていたのではないでしょうか。そして駆け出しの頃というのは、仕事を失うことが怖いので、無理だと思える依頼でもOKしてしまうものです。
 どこかから素材を拾ってきて適当にアレンジする、という制作方法が身についてしまったのはそれゆえではないかと思います。そしてけっこう、その方法で世の中が通ってしまったのでしょう。クライアントはたいてい素人であって、現在のようにネットが普及する以前は、いちいち元ネタをほじくり返したりすることもなかったはずです。仮に
 「これ、○○○のデザインに似てませんか?」
 と疑問を呈するクライアントが居ても、彼は大会エンブレムに関する記者会見の際と同じように、
 「いやいや、ここが離れているし、ここの角度も、ここの色合いも違っているでしょう。ちっとも似てはいませんよ。それに商標登録されているわけではないから、全然問題はありません」
 といった具合に「説明」、悪く言えば言い訳を繰り返してきたに違いありません。クライアント側もたいていは急いでいるし、法的な問題さえ起きないのならまあいいか、と受け容れてしまったものと思われます。
 作者の側としては、

 ──素材は確かに他人の作ったものだが、それをアレンジしてデザインしたのはおれだ。だからこれはおれの作品と呼んで良いはずだ。
 ──元ネタに対するリスペクトさえあればいいんだ。これはいわばオマージュだ。

 などと考えて自分を納得させてきたのではないでしょうか。しかし、それがだんだんと雑になり、ほとんどアレンジのあとさえ見られないようなシロモノが連発しはじめると、自分への言い訳はともかく、他人には通用しなくなってきます。

 とりわけ「盗用?」疑惑の集中したサントリーのトートバッグは、30種ほどあるシリーズの中から、とうとう8種ほどを取り下げることになってしまいました。ただし「盗作だったから」とは認めず、「問題が生じたから」というような「理由」でした。
 元ネタがUSAのデザイナーの作品だったりした場合は、やはり訴訟大国のことではあり、形勢が良くないと感じたのだと思われます。元ネタの作者のひとりは

 ──なるほど、私の作品と非常によく似ている。しかしまあ、デザインの世界では影響し合うこともよくあることだ。私としては特に法的措置をとるつもりはない。

 と鷹揚な態度を示しました。これは例の「泳ぐ女性」のデザインで、人物の角度や影のつきかたなど酷似しているのですが、人物のポーズがわずかに異なっているため、「盗作ではないか」と断定もできない気分だったのでしょう。
 しかし、「BEACH」と書かれた矢印の作者のほうはそれほど寛容でもありませんでした。こちらは矢印のアイディアはもちろん、「BEACH」という文字の字体や間隔まで完全に一致し、違うところと言えば地の色のトーンがわずかに暗いという程度に過ぎませんでしたから、お目こぼしの余地もなかったと考えられます。
 なお、まだ取り下げていないデザインの中には、黒猫が顔を半分出しているものなどもあり、これはタオルや生活雑貨のデザインでよく知られた俣野温子氏(マダムも大いにファンです)のトレードマークみたいなものです。ほんのちょっと猫の顔のラインが違ったり、猫に黒目が入っていなかったりといった程度のアレンジがされており、そのためか俣野氏もあまり問題視するつもりはないようですが、ただ「(佐野氏は)少し自分に甘いのではないでしょうか」とご自身のブログに書かれていたとのこと。内心ではけっこう腹を立てていそうです。

 さて本命の大会エンブレムですが、ドビ氏はついに不使用を求めた訴訟を起こしたようです。たとえ意図的な盗作ではなくとも、これだけ似ているとまぎらわしいのは事実です。使用差し止めを求められても、大半の人は「無理もない」と思ってしまうのではないでしょうか。
 ところが、東京の大会組織委員会はドビ氏の提訴を批難する声明を出したそうです。
 「われわれの詳細な説明に耳を傾けようとせず、提訴するという道を選んだ」
 などと述べられているらしいのですが、いったい誰のメンツを守ろうとしているのか、恥の上塗りとはこのことです。
 「詳細な説明」というのが佐野氏の記者会見程度の内容であったのならば、それで納得しろというほうが無理でしょう。まあ舛添要一都知事だけは心から納得したようですが。多くの自国民さえ納得していない説明を、著作権にうるさい欧米人に納得させられるわけもありません。少なくとも、どういうコンセプトでエンブレムのデザインを委託し、どんな経緯であのデザインに決まったのか、といったことを、誰にでもわかるように説明して貰わなくては、納得どころか理解することも不可能です。
 芥川賞直木賞などの選考にあたっては、必ず審査員ひとりひとりのコメントが発表されます。全部の候補作に言及しないコメントもありますし、どうも読みかたが見当外れではないかと思われるようなコメントもありますが、いずれにしろ審査員の文学観などが浮き彫りになって、それ自体がなかなか面白い読み物になっていたりします。
 毎年おこなわれる芥川賞などでさえそうしているのに、オリンピックという、ひとつの国家がその歴史上1度か2度できれば充分と思われるほどのイベントにかかわるいろんな「選考」の過程が、これほど不透明であるというのは、どうかしていると思います。一般の人々から見ると、いわば密室で決められてしまったとしか考えられないのです。
 委員会は愚にもつかぬ非難声明など出す前に、議事録でも公表すべきでしょう。

 それにしても、配置その他をアレンジしさえすれば、素材そのものは借り物でも差し支えないというのがデザイン業界の「常識」であるらしいことには驚かされます。
 佐野氏がデザイナー仲間から批判されはじめたのは、素材が借り物であったことについてではなく、その素材をアレンジする手間すら惜しんでいると見られたからでしょう。そこまで行くとやっぱり「パクリ」ではないか、というわけです。
 それこそコラージュ式に、いろんな素材をひとつの画面に貼りつけてゆくというのであればわかります。その貼りつけかたに独創があると言われれば、それはそれで納得できるのです。
 しかし、単一の素材を持ってきてそれを使うのでは、いくらアレンジしたとしても、作家的良心は痛まないのだろうかと思ってしまいます。
 音楽で言えば、そういうのはまさに「アレンジ(編曲)」であって、決して「コンポジション(作曲)」とは呼ばれません。作曲のほうで「パクリ」とか「盗作」とか言われるのは、主にメロディーについてですが、実はメロディーというのは音楽全体の構成の中では要素のひとつに過ぎません。本当の「盗作」と呼べるのは、メロディーのみならず、コード進行から全体構造までひっくるめてそっくりなものを「自分の作品」として発表することですが、メロディーはいちばんわかりやすいため、それだけで判断されやすいと言えるでしょう。ポップスやアニソンなどでは、ちょっとメロディーの動きが似ているだけで「パクリだ」と2ちゃんねるあたりで断罪されることもあり、デザインの世界に較べるとずいぶんと厳しいものだと思います。
 他人の作品を素材として用いて「自作」にする、というと「変奏曲」などの扱いがそれにあたるかもしれません。例えばパガニーニの有名なイ短調の主題など、リストブラームスラフマニノフからルトスワフスキ一柳慧に至るまで、実に多くの作曲家が変奏曲の主題として使っています。こういう場合、タイトルに「パガニーニの主題による」といった文言を添えておくのが仁義というものです。聴く者も、パガニーニの「あの主題」をそれぞれの作曲家がどう「料理」したかを愉しむのであって、「こんなものはパガニーニのパクリに過ぎないじゃないか」などといきり立つ野暮天はまず居ません。
 ついでに言えば、リストの『パガニーニによる大練習曲』という曲集は、6曲ともパガニーニのヴァイオリン曲のアレンジなのですが、正確に「リスト編曲」と書いてあるプログラムのたぐいはほとんど見ません。あそこまで改変してしまうと、もはやリストの「作品」と見なして良いではないか、というのが一般的な受け止めかたです。実際この中にはリストの代表作ともされる「ラ・カンパネラ」なども含まれています。このあたりのカネアイはまことに微妙なものがありますが、まあ自分で「作曲」とは称さないほうが無難ではありましょう。
 しかしデザインの場合は、音楽で言う「編曲」に相当する作業であっても「作品」になってしまうらしいので、やはり表現活動とは言っても感じかたはだいぶ異なるのだな、とあらためて思いました。

 人がふたつのものを「似ている」と感じる心理的メカニズムは、まだよくわかっていないそうです。定規や分度器で測れるようなものではなく、「クオリア」という概念が介在しているらしいのですが、そのあたりいくら本を読んでも腑に落ちたためしが無いのです。要するにまだ不明なところが多いために、著者も腑に落ちるような書きかたができないのでしょう。
 それゆえ、「幅が違う、角度が違う、色合いが違う、ほらこんなに違うだろ」といくら説明されても、

 ──そうは言っても、やっぱり似てるよねえ。

 と感じてしまいます。新聞の風刺マンガに出てくる政治家などの似顔絵を思い浮かべれば良いでしょう。相当にデフォルメしていますが、やっぱり似ていると感じます。
 大会エンブレムとリエージュ劇場のロゴはそういう意味で「似ている」のであり、もし意図的に似せたのならもちろん盗用と見なされても仕方がありません。しかし意図無くして似てしまったというのであっても、それは作者の独創性の無さに由来しているのであって、そういう独創性の無いデザイナーに委託発注したのはなぜかという疑いを持たれるのはやむを得ないことです。前項の繰り返しになりますが、要するに「ケチがついた」のであって、じたばたせずに取り下げるのが吉であると思わざるを得ません。

(2015.8.17.)

III

 佐野研二郎氏デザインによる東京オリンピックエンブレムが取り下げになりましたね。いろいろ大騒ぎになって、佐野氏が知られたくないであろうことも片端から掘り返されて、日本のデザイン業界の闇のようなものさえあばきたてられ、すったもんだのあげくようやく決着がついたという観があります。
 審査委員のひとりで業界の長老みたいな人が、
 「修正をしてああなった。修正前のデザインはリエージュ劇場のロゴとはまったく似ていなかった」
 と証言して、さらに混沌とした様相をおびました。それなら、記者会見のときに仰々しく見せびらかした「あのレタリング」によるアルファベットはなんだったのかということになります。また、修正が必要だったのは、もとのデザインが既成のものに似ていたからというのですが、そんなものを修正させてまで採用する意味が、素人にはわかりかねます。
 ちなみにその、原型とされたものに類似したデザインもすぐ発見されました。モダン・タイポグラフィの巨匠であるヤン・チヒョルトの作品です。そしてこちらに関しては、佐野氏自身が「こいつはヤバい(「すごい」という意味でしょうか)」とSNSで呟いている履歴がしっかり残っていて、リエージュ劇場のときに断言した「見たことがない」というような言い訳は絶対に通用しない状況だったのでした。
 審査委員は、佐野氏が剽窃などしていないという援護射撃のつもりで発言したのだと思いますが、疑惑はさらに深まるばかりだったのです。援護射撃が味方に当たった、フレンドリーファイアみたいなことになってしまいました。

 それが一転して取り下げになったわけですが、ロゴが盗作だったと、佐野氏や委員会が認めたわけではありません。
 あのロゴの「展開例」として、羽田空港渋谷駅前に掲示されたイメージ画像が公開されたのですが、その素材になった空港や駅前の写真もまた、外国人のブログから勝手にひっぱってきたものでした。これもすぐさまネットで検証されており、
 「写真くらいは自分で撮りに行けよ」
 と、いい加減佐野氏の素材パクリに慣れっこになっていたネット民もあきれていたほどです。しかも悪質なことに、羽田空港の写真の原版にクレジットされていた権利表記を消しての無断使用だったのでした。
 エンブレムの取り下げは、表向き、この写真の無断使用を問題にしたということになっているようです。なるほどそれなら、

 ──些細な瑕疵でもすぐに責任を取って取り下げる潔癖・清廉なデザイナー

 というイメージが強調できそうです(いまさら誰が信じるのかという話もありますが)。
 なおこの無断使用についても、佐野氏は
 「クローズドなもののつもりだった」
 つまり、せいぜいJOCくらいまでの内部資料としてうちうちに回覧する程度のことで、一般公開するつもりはなかったということを言っています。しかし、彼のオフィスのサイトにしばらく堂々と掲示されていたと言いますから、クローズドでもなんでもなかったはずです。
 それから、
 「誹謗中傷が家族にまで浴びせられて、人として耐えられない」
 という理由も挙げていました。これだとなんだか被害をこうむった人であるかのようです。
 はたして彼の作品と他の人の作品の類似点を指摘するのが誹謗中傷にあたるのか、そのあたりは微妙です。「触れて欲しくない点をほじくり返された」という点では、本人としては誹謗に感じられるのかもしれませんが、元はと言えば自分の作ったものが原因です。また、家族と言いますが、佐野氏の奥方はオフィスの広報担当であり、何か佐野氏の仕事に対する批判があれば、その矢面に立って対応するのが、いわば職務であるはずです。
 「なんで被害者づらしてるの?」
 とさらなる批判が起こったのも、無理はないように思われます。
 要するに、エンブレムのデザインは断じて剽窃でも盗作でもないが、その呈示の仕方に瑕瑾があったのと、批判の声がうるさいから、ひっこめることにした、というのが佐野氏の公式な立場であるわけです。面倒くさくなった、というのが本心かもしれません。
 まあ、剽窃を認めてしまったら、彼の作家生命は終わりを告げるでしょうから、ここはどうあっても認めるわけにはゆかないと思います。もっとも、これだけ騒ぎになったあとで、彼に仕事を依頼するクライアントがどれほど居るかというと、これも心許ない限りで、当分は「年収5億円」には遠く及ばない仕事しか来ないのではないでしょうか。

 エンブレムはあらたに公募することになったようですが、
 「なぜあらたに公募しなければならない? 前の次点作はどうした? それをまず検討すべきじゃないのか?」
 という不審の声が挙がっています。
 「前の次点作なんか、実は無かったんだろう」
 と勘繰る人も居るようです。つまり前回、公募したなどというのはフェイクで、最初から佐野研二郎にのみやらせる手筈だったんじゃないのか、ということです。修正を求めたというのも、次点の作品など存在せず、そもそも佐野氏の作品しか無かったのだとすれば納得できます。
 そういう、内輪で仕事やら賞やらをまわし合うという閉鎖的な体質が、日本のデザイン業界にはどうやらあるらしいと明らかになってきたのも、今回の騒ぎの結果と言えましょう。批判はいまや佐野氏のみならず、当初彼を擁護していたようなデザイナー仲間から、審査委員を務めた長老たちへも向けられはじめています。エンブレムを取り下げたからと言って、これですべての騒ぎが終熄すると考えるのは甘いかもしれません。
 あるいはこの際、業界の膿を出しきってしまう覚悟を、関係者はそろそろ決めたほうが良いのではないでしょうか。
 ある委員は、
 「(佐野氏の説明は)われわれには非常によくわかるが、一般の国民には通用しないようだ」
 と発言しています。なんらかの専門家の集団の中で、専門外の人々を「一般人」と呼ぶのはよくあることとはいえ、それが「一般の国民」となると、何やら選民意識のようなものさえ感じられる言いぐさではありませんか。
 学術の世界なら、まあそういうこともあるかもしれませんが、デザインというのは基本的にはその「一般人」を相手にしなければならない仕事であるはずです。「一般人」の感覚として「おかしい」と感じられるものは、どれほど正当化の論拠を並べようと、やはり「おかしい」のです。常に「一般人」を相手にしなければならないデザイン業界が、「象牙の塔」みたいなものになってしまってどうするのだ、と言いたくなります。
 そのあたりも含めて、いったん根元から掘り返してみないと、佐野研二郎という一デザイナーばかりでなく、日本のデザイン業界全体への不信感のようなものが払拭できないのではないか、と私には思えるのです。

 私の属している音楽の業界に、似たような事情はあるのだろうか、とつい考えてしまいます。
 仕事をしてゆくにあたって、コネというか人脈がものを言うということは、やはりあると言わざるを得ません。テレビドラマの劇伴などで若手の作曲家が起用される場合は、たいてい身内がその局のプロデューサーだったりすることが多いのは事実です。
 ただし、起用されてもそれなりの結果が出せなければ、二度とは頼まれないでしょう。よく名前を見かける人は、やはりそれだけの仕事をしているのです。
 しかしそういう中にあって、佐村河内守氏のような人がときどき出てきてしまうのも、また困ったものではあります。
 それでも、ごく大雑把に言って、公正さは保たれているような気がします。私自身はいわゆる商業音楽とは縁がないので、そちら方面のドロドロした(しているかもしれない)世界を知らないということもありますが。
 演奏畑であれば、35年ばかり前に、海野事件というのがありました。ヴァイオリニストの海野義雄氏が、自分の学生にヴァイオリン購入の斡旋をして、楽器店から謝礼というかマージンを受け取っていたというもので、これまた当時はとんでもない悪党扱いされたものでした。マージンを受け取っていたのは確かに行き過ぎでしょうが、それと同時に、学生を自宅にレッスンに来させて、大学の学費とは別にかなり高額のレッスン料をとっていたことなども批難の的になりました。
 もっとも、枠外のレッスンで別に謝礼をとるということは、他の先生も多かれ少なかれやっていることです。本格的に指導をしようと思えば学校の規定のレッスン時間程度ではとても足りないので、別に時間をとらざるを得ず、それを全部無料奉仕でやれと先生に要求するのはさすがに酷でしょう。しかし、そういうことも当時は「音楽教育界の闇」みたいな扱われかたで報じられていたのを憶えています。
 問題は東京藝大が舞台であったことで、この大学が国立であったために論議を呼んだわけです。つまり藝大の教授というのは国家公務員であり、従って副業は許されないはずだという建前を振りかざす論者が多かったわけです。そう言われればごもっともではありますが、それなら藝大の教授は演奏してもギャラを受け取れず、CDを出しても印税を受け取ってはいけないのかとなると、それはそれでいささか無理な話でしょう。これが東大の教授だって、よそで講演会をすればギャラが出るし、本を出版すれば原稿料や印税を手に入れているわけです。
 しかしまあそういう、ずっと受け継がれてきた「暗黙のグレーゾーン」を、いったん日なたに引き出してしっかり吟味するという契機にはなりました。
 そんな記憶もあるので、デザイン界も今回のことを契機に、いちど「暗黙の○○」を再検討してみてはいかがなものかと思う次第です。

(2015.9.2.)

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことどもII」目次に戻る