忘れ得ぬことどもII

火星への移住

 オランダ「マーズワン財団」という団体が、火星への移住者を募っているそうです。
 2025年から順次火星に人を送り込み、最終的には24人送るという、本気なんだかネタなんだかよくわからない計画なのですが、すでに世界中で20万人もの応募者が居り、このたびその中から選考をおこなって100人まで絞ったということです。その中にはメキシコ在住の日本女性も居て、
 「火星ですし屋を開きたい」
 と意気軒昂だとか。この記事を紹介した2ちゃんねるのスレッドには、食材をどこから仕入れるんだと早速ツッコミが入っていました。しかし、その意気や壮というべきでしょう。ちょっと心配なのが、この人は現時点(2015年)で50歳なのだそうで、たとえ第一陣に加われたとしても実際に飛ぶ時には60歳になっており、おからだが保つだろうかという点です。
 それにしても、希望者がそんなに殺到したというのは驚くべきことです。火星に移住したら、おそらく生きて地球には帰ってこられないのではないかと思います。それを承知で行きたいという人がたくさん居るのは、人類という種族の持って生まれた宿業なのかもしれないという気がします。

 考えてみれば、大航海時代に新天地を求めて旅立った人々も、生きて戻ってくることはあまり考えていなかったのではないでしょうか。当時の地球上は、現在の火星やそこまでの航路よりも、はるかに未知の世界でした。運良く新天地にたどり着いたとしても、どんな獰猛な原住民や猛獣が居るかわかったものではなかったのです。幸い、現実にはヨーロッパ人の構える鉄砲よりも強力な武器を携えた敵はどこにも居なかったわけですが、出かける前にそんな保証があったわけではありません。
 行く手段があるのならば、たとえ二度と帰れないとしても行ってしまう……人類には、そういうところがあると思うのです。だからこそ地球上あらゆる場所にはびこることができたのでしょう。火星だろうと、行けるのなら行こうと考える人が世界中におおぜい居るのは、なんら怪しむべきことではありません。

 そうは言うものの、火星にいきなり民間人を送り込むということも無いようには思えます。人間が火星に行くとしても、現在の南極と同様、交代制で研究員が暮らすところからはじめるしかないのではないでしょうか。NASAでは2030年頃から有人探査をおこなう予定であるそうで、マーズワン財団のもくろむ2025年には間に合いそうにありません。
 火星の大気は地球の約百分の一、しかもその組成は二酸化炭素がほとんどで、呼吸することはできません。液体状態の水もおそらく無いでしょう。まずは気密の完璧な基地を建設しなくては話になりません。
 基地の中の酸素は外気の二酸化炭素を電気的に分解することで得られるでしょうが、地球の空気中の大半を占める窒素もまた、無くて済むというものではないような気がします。一見役に立たない窒素が大半を占めているからこそ、本来強烈な腐蝕性を持つ酸素を、地球上の生物はゆっくりとした生化学反応に取り込んで利用できるのであって、純粋な酸素を吸入したらたいていの生物はじきに死にます。火星基地には、窒素を発生させるシステムも組み込む必要があるでしょう。
 水は、液体状では火星上に存在しないでしょうが、地下に氷の形であるだろうとは言われています。それを掘り出して利用することができれば、いちおう問題は無いでしょう。掘ることにどのくらいのエネルギーが必要なのかわかりませんが。
 あとはそのエネルギーです。火力・水力は問題外、地熱や風力も無理でしょう。可能と思われるのは太陽光と原子力くらいでしょうか。太陽光は地球上の半分以下になりますので、よほど効率の良い太陽電池を持ってゆかなければ充分なエネルギーは得られないかもしれません。単純計算として、火星の赤道上で、地球の緯度60度くらいに相当しそうです。オスロ・ストックホルム・ヘルシンキといったスカンディナビア諸国の首都がだいたいそのあたりです。
 基地の資材は、初期段階ではそれこそ宇宙船に積んでゆくよりほかなさそうですが、それを拡張する段階では、なんとか火星上の材料を使いたいところです。工具や部品などは、地球上からデータを送信して、現地で3Dプリンターによって作成するという研究が進められているそうです。すでに宇宙ステーション相手に試みられていると聞きました。
 以上の課題がクリアできたとしても、火星までの距離ばかりはどうにもなりません。去年、インドマーズ・オービターとNASAのメイヴンが火星軌道に到達していますが、現在のところよほど条件が良い状態で10ヶ月あまりという所要時間であるようです。これらはごく小さな探査機で、人間が乗り込めるほどの大きさのものとなると、もう少し遅くなるかもしれません。まあ往路1年というところでしょうか。復路は、火星のほうが地球より重力が弱いため速くできそうな気もするし、逆にスウィングバイ効果が充分に得られないので遅くなりそうな気もするし、やはりいずれにしろ1年内外でしょう。
 地球と火星の位置関係がうまい具合にならないと、その所要時間では無理になるわけで、場合によっては向こうで何年も時期を待たなければならないかもしれません。最低3年、もしかすると5年くらいかかるミッションであり、あたりまえの話とはいえ南極とは較べものにならない大変さです。
 しかし、それでもまあ、行きたがる人はいくらでも居ることでしょう。それが人類の性(さが)というものです。

 テラフォーミングという言葉が、天文学者やSFマニアだけでなく、わりと一般的に使われるようになりました。テラは地球、フォーミングは形を調えるということですから、他の惑星を改造して地球のような環境を調え、人間が住めるようにするという意味合いです。
 火星に関しても、けっこう以前からテラフォーミングの方法が考案されてきました。
 地球上でも、ずいぶん苛酷な環境下で生育できる植物などはいろいろあるもので、それらを遺伝子操作などでうまく改良し、火星の、低温・低圧・乾燥・無酸素という状況でも繁殖できるようにするというのが第一段階です。コケの仲間とか藻類などが候補に挙がっています。
 これを火星に持って行って、表面を覆い尽くすほどに大いに繁殖させます。光合成によって酸素が供給されるようになり、一方火星表面が「黒っぽく」なることによって太陽熱の吸収率が上がり、気温も上がることになります。現在の火星は、赤道上でちょうど地球の極地方くらいの気温ですが、平均気温を10度上げるだけでも、だいぶ過ごしやすくなることでしょう。地中に封じられた氷が融けて液体の水が表面に現れてくると思われ、そうなると他のもう少し高等な植物なども生育できるようになるかもしれません。
 重力が弱いので、せっかく酸素ができてもすぐに宇宙空間に逃げてしまうのではないかという心配をする人が居るかもしれませんが、これは案外大丈夫であるようです。
 というのは、大気の濃さは重力とまったく無関係ではありませんが、それほど決定的な相関は無さそうなのです。地球と金星は大きさがほぼ同じで、従って重力も同じくらいですが、気圧は金星のほうが100倍も高くなっています。土星の衛星であるタイタンは地球の半分以下の大きさ(直径にして。容積なら15分の1以下)にもかかわらず地球の1.5倍の大気圧を持っています。タイタンよりも大きい木星の衛星ガニメデには大気が無く、少し小さい水星にもありません。水星とほぼ同じサイズである木星のカリストにもありませんが、もっと小さいイオにはわずかながら存在します。イオは地球のと同じくらいの大きさですが、月には大気がありません。ところがもっと小さい木星のエウロパ海王星トリトンには薄い大気があるらしいのです。
 そんなわけで、半径1,000キロ〜10,000キロくらいの天体における大気の有無や量は、わりとランダムであって、いろんな条件によって違ってくるようです。タイタンよりも明らかに大きい火星に、地球並みの大気が存在していても、別におかしくはないわけです。
 ある程度植物が生育したら、これまた低温低圧に耐えうる動物を持ち込み、生態系を形成させます。そのうち、重力以外は地球と似た環境になるだろうということです。
 こうやって、人間が宇宙服無しで火星に暮らせるようになるまでには、約10万年を要するとのことです。とんでもない時間のようですが、惑星の歴史のうちではほんの短期間に過ぎません。

 とはいえはたして10万年も待っていられるかどうか、人間はその前に亡びてしまうのではないかとも思われますので、もっと短期間になんとかならないものかという研究も進められているようです。
 最近話題に上がることの多いマンガ「テラフォーマーズ」では、何をどうやったのか、500年くらいでテラフォーミングが完了した設定になっています。そして繁殖力の強い動物として送り込まれたゴキブリが、その短期間でとてつもない進化を遂げ、人間型になって人類を襲ってくるという物語です。
 実際にはゴキブリは、すでに三億年くらい前には現在とほぼ同じ形状に達し、その後の気候の激変や、恐竜が絶滅したほどのインパクトを経ても、さほど変わったようではないので、火星に送ったところで急激に進化するとは思えません。「テラフォーマーズ」の主眼はそういう考証ではなくて、いろんな動物の能力を付け加えられた改造人間たちがゴキブリ人間と闘う異種格闘技戦みたいなところにあるわけなので、それはそれで良いのですが……
 ゴキブリはともかくとして、火星に移植された動植物が、地球と異なる環境下でどんな進化を遂げるのか、そこまではまったく想像するよすがもありません。
 重力が弱いので、一体に体長・体高が大きくなる傾向はあるでしょう。一方、同じ理由で骨密度や筋肉などは薄いことになりそうです。火星基地ではじめて妊娠した女性研究者が、出産するかどうか悩むというSFドラマも見たことがあります。おそらく火星で生まれた子供は、倍以上の重力を持つ地球に来訪することは困難だろうというのでした。
 基地が拡大し、テラフォーミングも進行して、火星生まれ火星育ちの「火星人」が増えてくると、地球に対する独立運動などもはじまるかもしれません。
 そういうことが、ここ数百年くらいのうちにバタバタと進んでゆくのか、それとも何千年もあとのことになるのか、それもなんとも言えません。
 しかしいつかは、火星に普通に人が住むようになるだろうと思いますし、もっと遠くの惑星、あるいは恒星系に至るまでも到達することになるに違いありません。何度でも繰り返しますが、それが人間の性質だからです。行く場所と行ける手段があれば、片道切符であろうと行く者は必ず居るものです。
 火星の大地に立って、全天でひときわ青々と輝く地球(実際、太陽と、火星の衛星であるフォボス・ダイモスを除いては、火星の夜空では地球がいちばん明るいはずです)と、それに寄り添う月(ほぼ0等星くらい、つまり非常に明るい星のひとつとして見えるそうです)の姿を見上げてみたいというのが、私の子供っぽい夢のひとつです。億万が一、何かの機会があれば、私も片道切符で行くことにするかもしれません。

(2015.2.18.)

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