忘れ得ぬことどもII

陳舜臣氏の訃報

 陳舜臣氏が亡くなったという報を聞いて、残念に思いました。まあ90歳になっていたということで、死因も「老衰」とのみ触れられており、大往生であったのでしょう。
 同窓生にして畏友の司馬遼太郎氏がわりに早く亡くなったことを思うと、むしろよく生きていてくれたと考えるべきかもしれません。
 同窓生というのは大阪外語学校(現在の大阪外語大学)でのことで、学年もほぼ同じくらいだったのではないかと思います。その後私の大伯父のひとりがこの学校の卒業であると知り、急に身近な気がしてしまったものでした。司馬氏はモンゴル語科で、陳氏はペルシャ語科であったようです。
 司馬氏のモンゴル語というのがまさに奇想天外で、ほとんど使い道もなかったのではないかと思います。青年時代、司馬氏は本気で満洲へ渡って馬賊になるつもりだったそうで、そのためにはモンゴル語がわからないといけないだろうと思ってその科に入ったというのだから、とぼけているというか呑気というか。結局卒業前に学徒動員され、戦車隊に配属になって満洲へ送られたというのだから、オチまでついています。ただ、その後作家となって、日本のみならず大陸の歴史も扱うようになりましたが、中国を語る際に、決して中国に身を置いた立場にならず、周辺民族──特に北方の遊牧民族──の立場から中国を俯瞰するという、一般的な中国文学者とは違ったスタンスであり続けた点は、やはりモンゴル語を学んだ余得というものだったかもしれません。
 これに対し、陳氏のペルシャ語というのも、昭和初期という時代としては、不思議な気がします。当時はほとんど必要がなかったでしょう。陳氏の実家は神戸の貿易商だったそうですが、中東まで手広く相手にするような店であったとも思われず、ペルシャ語を学んだのはやはりなかば趣味的なところがあったのではないでしょうか。
 それにしても、華僑の家の息子として、最初から日本と中国というふたつの軸足を持っていたところへ、ペルシャ語という第三の軸足をも身につけたのは、氏が真の意味でのコスモポリタンになろうとしていた証かもしれません。氏は入学後、アラビア語の講座にも出席してそちらも堪能になったそうです。第四の軸足です。
 本貫は福建のあたりだったようですが、主に台湾で栄えた一族であったようなので、戦後になるとさらに、大陸中国と台湾という相反する立場を内包することにもなったはずです。中国という厄介な世界を、自分のものとして感じると同時に、司馬遼太郎氏と同じく「外から」眺める眼も持つことができたというのが、陳氏の強みだったと言えるのではないでしょうか。

 私は陳舜臣氏の作品はかなり愛読しましたが、初期の推理小説はほとんど読んでいません。もっぱら歴史ものの著作を愉しみました。
 確か、司馬遼太郎氏との対談集を読んで興味を持ち、『中国五千年』を手に取ったのが最初ではなかったかと記憶しています。これは大著『中国の歴史』のダイジェストというべき本で、それまで常石茂氏や駒田信二氏らが共著した『新十八史略』やせいぜい三国志関係の本を何冊か読んでいたものの、それほど中国史に関心もなかった私を、開眼させるきっかけになったものです。
 ほとんど引き続いて『中国の歴史』を読みました。講談社文庫で7冊組になっていますが、1冊ずつが普通の文庫本の2、3冊分に相当する分厚さなので、読み応えがありました。『中国五千年』もそうでしたが、ですます体で書かれているのが特徴的で、そのせいか直接会って話を聞いているような感じでもあり、頭に入りやすかった気がします。
 近年、歴史学の方法論みたいなことがやかましく言われ、歴史を扱った著作についても、あれはちゃんとした歴史学の方法論を踏んでいないから意味がない、といったことを平気で言う人が少なくありません。まさにタコツボ的と言うべきでしょう。
 歴史学者歴史家は違うのだと言っても良いかもしれません。歴史学者はタコツボでも良く、文献や資料にもとづいて、限られた空間や時代の、こまごましたことを立証してゆくことに専念していれば良いのですが、歴史家というのは彼ら歴史学者の上に立って──と言うのが不適当なら、歴史学者の調べ上げた「史実」をひとまとめにして──ひとつの物語(story)として歴史(history)を紡ぎ上げるのが仕事です。
 そういう意味では、陳舜臣氏は歴史学者ではなかったかもしれませんが、れっきとした歴史家であったと言えるのではないでしょうか。ともかく、通史をまとめ上げるなどというのは、よほどの碩学にしか許されぬ所行でしょう。日本、台湾、中国、ペルシャ、アラビアという5つもの視座を持っていたからこそ可能になった偉業だと思います。

 このあと、『新西遊記』などの随想紀行みたいなものをいくつか読み、小説を読みはじめたのはそれからでした。アプローチが逆かもしれませんが、まあ人それぞれで構わないでしょう。
 小説にしても、最初は『小説十八史略』からだったように記憶しています。これはまあ小説ではあるのですが、『中国の歴史』の前半部分を小説風にリライトしたという感じでもあります。著者の言葉にも、

 ──架空の人物なども導入して面白くしようと思っていたら、史料に出てくる人物だけで充分に面白くなってしまった。

 といったことが書かれていました。
 そんなわけで陳舜臣の「歴史小説」として最初に読んだのは『阿片戦争』であったと思います。これは陳氏としても歴史小説の原点と言うべき作品だったでしょう。後年の作品に較べると、文体にもかなり気負いが感じられます。
 『中国の歴史』でも、アヘン戦争のあたりはかなり詳しく記されており、重複する部分もたくさんありました。先に『中国の歴史』を読んでいたので、史実と創作の境目が見えやすかったと思います。
 『阿片戦争』の主人公は連維材という架空の豪商なのですが、彼の子孫がまた『太平天国』『山河在り』といった作品で主人公もしくは重要人物として登場しており、一大大河小説としての体裁を備えています。
 実在の歴史上の人物とつかず離れずと言った位置に架空の人物を設定し、その視点から歴史の動きを見据えるという『阿片戦争』で試みられた手法は、そののちも陳氏の常套手段となりました。『秘本三国志』でも、陳潜という人物が主人公になっています。彼は当時盛んだった新興宗教「五斗米道」の教主張魯(これは実在人物)の配下として、いろんな有力者に近づき様子を見る役目を負っているという設定です。曹操にも劉備にも孫権にも等しく一目置かれるという、いささか都合の良すぎる立場であるようで、そのせいか後半はほとんど活躍しなくなってしまっています。この架空の人物に「陳」の姓を与えたのは、もしかしたら作者が自分の分身というイメージを持っていたからかもしれません。
 『太平天国』は連維材の四男の連理文が主人公ですが、彼も太平天国という由々しき宗教団体に同行しつつ、自身はその宗教に帰依することなく、そのくせ教団の幹部たちと自由に話ができるという都合の良すぎる立場です。私もこのあたりまで読んで、

 ──これは、ちょっと……

 と思いはじめましたが、これはこれで陳舜臣節みたいなものかもしれない、と考えました。
 近松門左衛門『国性爺合戦』で知られる鄭成功とその父を扱った『風よ雲よ』『旋風に告げよ』にしても、主題は鄭父子ではありましたが、主人公、というか視座は別の架空の人物になっています。
 もしかすると、これは推理小説における「ワトスン役」なのではないか、と私は思いました。ワトスン博士は物語の語り手になっていますが主人公ではなく、シャーロック・ホームズという主人公を外側から描くための「視座」の役割を持っています。陳舜臣氏が歴史人物の近くに配している、視座となる架空の人物は、推理小説からスタートした陳氏としては自然な発想である「ワトスン役」だったのではないでしょうか。
 そういえば、ホームズ顔負けの名探偵のような人物もよく登場します。『阿片戦争』で言えば、連維材の番頭であった温翰という人物がそれにあたります。歴史の行く末をあらかじめ知っているのではないかと思えるほどに先が見えて、適切な手を次々と打ってゆく、これまた少々都合が良すぎるのではないかと思われる役柄です。
 こういった人物は、後年はあまり使われなくなりましたが、しかし主役や「ワトスン役」ではないにせよ、自由人というか、どこにでもひょっこり出入りできるようなキャラは、後期の『魏の曹一族』などにも登場しています。

 『チンギス・ハーンの一族』あたりから、少々モウロウ体みたいな雰囲気が出てきたようです。齢をとるとそういう雰囲気の出る作家というのは居るもので、星新一氏なんかも晩年の作品は一種モウロウとしたところがありました。
 悪く言うと、登場人物たちみんなが何もかも知っているというか、ひとり合点したまま話が進んで行っているように思えるのでした。読者としてはやや置いてきぼりを食らっているような気がするのです。誰がどの時点で何を知っているといった、細かい設定を調整する根気が無くなってきたのかもしれません。登場人物同士の会話が、みんなツーカーで通じ合ってしまい、激しく論戦をかわすといったことが見られなくなりました。
 前回のエントリーでも触れた『桃源郷』は、中国史の一時期を彩ったマニ教徒たちの消息を推測したもので、水滸伝宋江なども登場させつつ、西域からペルシャアラブ方面まで舞台を拡げた壮大な物語でしたが、できればもう少し若い頃に挑戦しておいていただきたかったというのが率直な感想でした。この小説の中でマニ教徒たちは、キリスト教やイスラム教を含めたあらゆる信仰に寄り添って浸透することで、マニの「まことの教え」を世界に伝えようと考え、そのためにはマニ教という教団を解体するも苦しからず、という境地に達します。いくぶん理想主義に過ぎるようではありますが、中期に見られたもっと緻密な書きかたの文章で読みたかったと思われてなりません。

 司馬遼太郎氏は63歳で『韃靼疾風録』を書き上げ、もう小説を書く体力が無いと言って、あとは『街道をゆく』などの随筆に専念しましたが、陳舜臣氏は最後まで「小説家」であり続けようとしたようです。ご冥福をお祈りいたします。

(2015.1.31.)

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことどもII」目次に戻る