忘れ得ぬことどもII

漢字とのつき合いかた

 漢字をネタにしたクイズのたぐいが、テレビなどでもしょっちゅう見られるようになりました。漢字検定漢検)なども隆盛を誇っています。私は漢検を受けたことはありませんが、たぶん準1級くらいなら受かるだろうと思います。1級になると、外国の地名とか、動植物の固有名詞などが増えてくるので、問題に恵まれなかった場合は合格できないかもしれません。
 年末になると「今年の漢字」といったようなものが発表されますし、「創作漢字コンテスト」みたいな催しも開かれます。漢字好きな人というのは、ずいぶん居るものであるようです。
 こういう風潮が好ましいことなのかどうかはわかりません。クイズ的な興味ばかりかき立てられて、漢字の本来持っている意味とか意義とかいうものが見失われているのではないか、と危惧する識者なども居るようです。日本語についての卓抜な連載エッセイ「お言葉ですが……」の著者である高島俊男氏は漢検にきわめて否定的であると聞いたこともあります。しかしまあ、漢字がまったくおろそかにされるよりは、クイズ的な興味であっても関心を持たれているほうが良いのではないでしょうか。そのうち、本来の大切な部分に眼を向ける人も出てくるでしょう。

 それにしても、漢字とのつき合いかたは、日本人にとっては歴史を通じてつねに大きな問題をはらみ続けてきたと言って良いでしょう。
 そもそもの最初から大変な問題でした。日本には自前の文字がありませんでしたので(漢字以前の神代文字といったものが「発見された」と称されたことは少なくありませんが、すべて後世の偽作であることが証明されています)、隣の超大国で使われていた文字を借用することになったのはやむを得ません。しかし、中国語と日本語というのはシステムがまったく異なる言語であり、そのままの形では日本語を表現することができません。漢字を用いてどのように日本語を表せば良いのか、われわれの祖先たちはまずそこから考えなければなりませんでした。
 その模索の次第が、「古事記」の序文に詳細に述べられています。太安万侶は、いかにして日本語を漢字で書き表すかについて、大いに苦心しました。漢文で書けば簡潔だが日本語の趣きが伝わらない、しかし日本語の発音に漢字を宛ててゆくのではいたずらに長くなり、見た目もわかりづらいと悩んでいます。そこで、基本的に地の文は漢文で記し、固有名詞、それから歌の部分は宛て字で記す、という方針をとることにしたというわけです。
 日本語の発音に漢字を宛て字するという習慣は、その時点ですでに一般的になっていました。「万葉集」の表記はだいたいそうなっています。場合によっては一部分だけ漢文的な地の使いかたをしていることもありますし、何やら判じ物みたいな文字遣いをしていることさえあります(「十六」と書いて「しし(四四)」と読むなど)。「万葉集」がまとめられた頃には、日本人の漢字使いもなかなか堂に入っていたと言えそうです。漢文的な構文が見られるということは、読み下しの習慣もわずかながら始まっていたのでしょう。しかし、「古事記」のような長い物語を記すためには、やはりそういうやりかたでは難しかったものと見えます。
 「古事記」に出てくる人名などを見ると、訓読みもすでにおこなわれていたことがわかります。ヤマトタケルのことを倭建と書いてありますが、これを読む時にワ・ケンと発音していたとは思えません。倭をヤマトと訓読みし、建をタケルと訓読みしていたのです。少し後の「日本書紀」になると、同じヤマトタケル(のミコト)が日本武尊と表記されます。倭という文字が雅びでないことに気がついたのでしょう。ともあれ漢字を、同じないし似た意味の日本語で読み下すという、考えてみればすごい発明が、飛鳥時代から奈良時代にかけての比較的短い期間になされていたようです。
 漢字を漢文として、中国との交渉に用いたというのは、そのずっと前からあったことでしょう。おそらく邪馬台国の使者などもやっていたことだろうと思います。その後、国内用にも漢文を使うようになりました。さきたま古墳群で発見されたワカタケル雄略天皇)の名が入った銘刀でも明らかです。しかしこの段階では、人名などの宛て字を除いては、漢文はまだ漢文として、中国語の発音を日本語式に訛って読まれていたものと思われます。
 聖徳太子十七条憲法も、聖徳太子自身はたぶん音読みで考えていただろうと言われます。「以和為貴」を「ワをモチてトウトしとナす」などと読み下すようになるのはだいぶあとになってからで、太子は「イーワーウェイキー」みたいに発音していたろうというのです。
 これが7世紀はじめであり、「古事記」の成立が8世紀はじめのことですから、訓読みが発明されたのはその100年のあいだということになります。との交流が盛んになり、怒濤のように漢字語概念が日本に入り込んできて、それに対応するために訓読みということをはじめたのでしょうが、このことの偉大さはいくら褒めても褒め足りないくらいです。ヴェトナムでは若干これに類することがおこなわれましたがわずかな例に過ぎず、朝鮮ではついに訓読みがおこなわれませんでした。
 文字には表音文字があり、表意文字があり、表語文字があります。漢字はこの最後の表語文字であり、「発音」と「意味」のふたつの側面があります。朝鮮ではその両側面を切り離して考えることができなかったようですが、奈良時代の日本人は、賢明にもそのことに気がついたのでした。そして、中国語に無い日本独特の概念や固有名詞などを書き表す際には「発音」のみ借りて音標文字として使い、中国と日本に似たような概念がある場合は「意味」のみ借りて日本語で発音する(訓読み)という使い分けを考案したのです。
 これが、日本人と漢字のつき合いにおける第一の転機でした。ここから日本は、漢字文化圏の他の国々とは違った道を歩み始めるのです。

 第二の転機は、もちろん「仮名」の発明です。
 漢字を音標文字として使う、いわゆる「万葉仮名」がその原型でしょう。音標文字と訓読みという使い分けがはじまったとはいえ、見た目は同じ漢字ですから、当然ながら紛らわしいことこの上ありません。それに、音標文字として使う場合は、日本語のひとつのシラブルに一文字が宛てられるわけで、太安万侶が嘆いたようにいたずらに文字数が多くなります。書くのも読むのも大変です。
 手間をかけずに書くことが求められるようになり、崩し字がはじまりました。漢字の草書体を原型として、さらに筆画を省略した形が追究され、ついに音標文字専用の字体が確立しました。言うまでもなく、これがひらがなです。
 国語の教科書などに、かなと、その原型となった漢字を対照してある表が載っていたりしますが、即座になるほどと納得できる字もあれば、なんでこの字がこうなった、と首を傾げたくなる字もあります。「あ(安)」「う(宇)」「か(加)」「す(寸)」「な(奈)」「や(也)」などはわかりやすいですね。「さ(左)」「し(之)」「ち(知)」「み(美)」あたりになると「どうしてこうなった」という感じです。私が不思議だったのは「つ(川)」です。字体のほうは、続け字をすれば「つ」になりそうな気もしますが、そもそもなぜ「川」という漢字を「つ」という発音に宛てていたのか、そこがよくわかりませんでした。また「ゑ(恵)」は妙に得心してしまいました。
 カタカナのほうは、僧侶たちがお経などに発音や送りがなを振るのに使っていた略字がもとになっているそうです。「キ(幾)」のように、略字とはとうてい思えないのもありますが、これはひらがなの「き(元の漢字は同じ)」が先にあったのかもしれません。
 いずれにしろ仮名文字は、漢字の持つ「意味」の側面を完全に捨て、発音専用文字として改造したものです。これにより、「意味」を担う部分と「発音」を担う部分が完全に分離され、ビジュアル的にもわかりやすくなりました。
 しかも、ひらがなとカタカナをどちらも捨てずに、別体系の仮名として使い続けてきたというところが慧眼でした。近世、というか近代初期までは、この2種類の仮名の使い分けはいまひとつ明確ではありませんでしたが、明治以後、欧米の言葉がどっと入ってきた時に、外来語を表す文字をカタカナに担当させることができたのです。これにより、欧米由来の概念や言葉もビジュアル的に一目瞭然にできるようになりました。近年「カタカナ語が増えた」ことを憂う向きもありますが、仮名が1種類しかなかったとしたら、そのことにも気づかれなかった可能性があります。ましていまだに漢字しか使っていなかったとしたら、とても西洋文明をキャッチアップすることはできなかったのではありますまいか。

 しかし、近代に至って、漢字が日本の発展の足枷になっていると考える人が少なからず生まれました。こんな、習得するのに時間のかかる前近代的な文字を使っているものだから、日本は文明の進歩に後れてしまったのだ、というわけです。
 森有礼は日本の公用語を英語にしようとしましたし、志賀直哉フランス語にしたいと考えました。志賀のほうは一文学者の感慨ですのでまあ捨て置いても良いのですが、森の場合は文部大臣でしたから、危ないところでした。
 このふたりは日本語そのものを廃止しようとしたわけですが、漢字を廃止すべきだと考えた人々はもっと広範で、ローマ字会とかカナモジカイとかを作って、漢字を用いない日本語の表記を普及させようと努めました。
 彼らの努力は、戦後になって、もう少しで実を結びそうになりました。つまり、戦争に負けたことで、人々のあいだに「日本の古いものはみんなダメなんだ」という意識が広まり、その中に漢字も含まれていたのです。漢字なんか使っていたからアメリカに負けたんだ、という、相当にぶっとんだ議論も真顔でおこなわれました。
 文教界でもその意見が多数を占めるようになり、漢字は「ゆくゆくは廃止されるべきもの」と位置づけられました。とにかく習得に時間がかかるのが無駄であり、その時間をもっと他の学問に振り向けるべきだ、という主張が、もっともなものとして受け容れられたのです。
 しかし、急に使用を禁じても社会に混乱が起きると思われたので、まずは使う漢字を制限するという方針が立てられました。これによって「分はいても良い漢字」と定められたのが、いわゆる当用漢字です。
 当用漢字以外の漢字は、禁止はされないものの、「なるべく使わないほうが好ましい」という位置づけでした。
 しかし、こんな方針がうまく運ぶはずはありません。ボキャブラリーのことを「語い」と書くような見苦しい交ぜ書きも増えましたし、「障碍」を「障害」と書き換えて悪いイメージを増長したような例も枚挙にいとまがありません。「花瓣」「辯護士」「辨当」の「ベン」のところをすべて「弁」で代用してわけがわからなくなったという例もあります。
 要するに、漢字を「ゆくゆくは廃止しよう」とする文教界の意図とはうらはらに、人々はあいかわらず漢字を使いたがり、そのために相当な混乱が発生してしまったということになります。

 漢字廃止が遅々として進まないうちに、日本は高度成長期を迎え、科学技術立国となり、世界でも一二を争うほどの高度文明国に躍り出てしまいました。
 こうなると、どうも漢字が日本人の足枷になっているという説そのものが、疑わしいことになってきます。漢字は別に文明の発展を阻害するものではないのではないかと考えられはじめました。鈴木孝夫氏のようにさらに一歩を進め、漢字仮名交じりという日本語の表記システム自体が、むしろ日本の発展の礎になっていると主張する学者も現れました。
 考えてみれば、漢字を制限したり廃止したりすれば、ゴマンとある同音異義の漢字語を区別することが困難になります。本来のやまとことばには、そんなに同音異義語が多いわけではありませんが、明治以降、西洋概念の翻訳語として、漢字熟語が山のように創られ、ここに同音異義語がものすごくたくさん含まれています。われわれは日常会話の中でも、
 「あの、いまの言葉、どんな字を書きます?」
 というやりとりをごく自然にしています。耳で聞いただけでは区別できない言葉が無数にあり、その意味を認識するためには漢字の字面を確認しなければなりません。こんな社会で漢字を廃止して仮名やローマ字だけにすれば、人々の意思の疎通がきわめて不自由になることは容易に想像できます。同音異義は厄介ですが、それらの言葉を用いないことには、おそらく近代文明を維持することができません。
 実は、それをやらかしてしまった国が近くにあります。言うまでもなく韓国のことです。
 韓国では漢字を使わないことにしてしまい、学校でも教えなくなり、音標文字であるハングルだけになりました。ところが、韓国語の中には、多くの漢語が含まれていました。日本で創られた翻訳漢語も大量に入っています。従って、日本語と同様、朝鮮語にも同音異義語が山のようにあります。
 時には、まったく反対の意味を持つ言葉が同音であるなんてこともあって、実際にその弊害が出ています。「防水」と「放水」が同音であったため、枕木に使うコンクリートの材料を間違えてしまって鉄道事故が起こった、なんて話も記憶に新しいところです。日本で漢字を廃止すれば、同様の事故が次々と起こることでしょう。
 さしも猛威を振るった漢字廃止論も、かくて勢いを失いました。まだほそぼそと続けている人も居るようですが、もはや大勢とはなり得ません。当用漢字表も放棄され、「日的にいる漢字」のガイドラインだけを示した常用漢字表がそれに代わりました。確かに漢字の習得には時間がかかりますが、一旦習得すれば、かけた時間以上のメリットがあるということがはっきりしたのです。フォーマットに手間がかかるけれどもきわめて使い勝手の良いOS、と私は以前喩えたことがあります。
 故金田一春彦博士は、当初は漢字制限論者であったそうですが、晩年は意見を変えたようです。それはワープロの普及によるものだったと回顧しています。彼もやはり、漢字の学習の手間をネガティブに捉えていたのですが、コンピュータによって自動的に候補漢字が示される、つまり書けなくとも読めれば良いというワープロ時代を迎え、もはや学習の手間を云々する必要もなくなったと判断したのでしょう。

 そして、漢字は衰退するどころか、愛好者を増やしつつますます意気軒昂な状態です。漢検1級問題など、かつての当用漢字の考えかたからすれば、とんでもない暴挙と言えそうですが、いまや小学生が堂々と1級合格をやってのける時代となりました。
 ここまで来たのであれば、私はもう一歩進めて、旧字体、いや舊字體を復活させればどうかと思います。何も全面的でなくても良いので、新字体で明らかに不合理な略しかたや置き換えをおこなっていると考えられる字だけでも戻して、文字の成り立ちや意味合いの類推がしやすいようにするべきではないかと考えるのです。「書けなくとも読めれば良い」のですから、できないことではないのではないでしょうか。
 現在の新字体は、戦前、筆記時に習慣的に用いられていた俗字や略字がもとになっているものが多く、部首などが理に合わないケースが少なくないのでした。例えば上記の「体」という字は、自筆原稿などでは戦前でも使われていました。しかし活字になる時にはあくまでも「體」だったのです。
 台湾ではまだ頑固に旧字体が用いられています。日本人もせめて旧字体を「読める」くらいにしておけば、台湾の人々との意思疎通も便利になることでしょう。

 漢字の使いかたは、その人なりのこだわりがいろいろあることと思います。やまとことばには基本的に使わない、という人も居ますし、同じ「みる」という言葉でも状況によって10種類くらいの文字を使い分けるという人も居ます。それによって文章の見た目にも個性が出てくるようで、日本語独特の性質と言えましょう。
 私に関して言えば、年を追うごとにだんだんと漢字の割合が減っているような気がします。読みかたに迷うような場合はなるべく仮名にしたいと思っており、だから「おこなう」はまず漢字にしません。「行う」なら良いのですが、過去形にして「行った」となると、「いった」と紛らわしいので、「おこなった」と書き、そうすると「おこなう」のほうも仮名書きにしないとバランスがとれません。
 「方々」も、ほうぼう、かたがた、と迷いが生じますので、仮名書きにしました。そうすると「あっちの方」の「方」、「読み方」の「方」も「ほう」「かた」と書くことになります。「自ら」=みずから、おのずから、なども同様ですね。
 そんなわけで、徐々に仮名書きの部分が増えつつあるようでもありますが、これは私が漢字制限論者であるからではなく、読みかたの迷いを減らそうとしているだけのことです。
 私は基本的には漢字が好きですし、外国の地名を漢字書きしたものを眺めたりするのも嫌いではありません。中国で買ってきた字引の巻末に、国名と首都名の一覧表があり、これはどの国にあたるのかということを考えて大いに愉しんだこともあります。日本の流儀とちょっと違う表記もあり(アメリカは美国、フランスは法国、ドイツは徳国となります)、興味深いことでした。漢字の歴史や社会学などの本もずいぶん読みました。
 そして、日本人は今後とも漢字とうまくつき合ってゆくべきだと思っています。クイズ的な興味が優先するのも、それはそれで構わないのではないでしょうか。

(2014.7.3.)

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