忘れ得ぬことどもII

集団的自衛権について

 集団的自衛権の行使容認へ向け、安倍晋三首相が強い決意を見せています。有識者会議「安全保障の法的機番の再構築に関する懇談会」の報告書を受け取り、いよいよ意気軒昂です。
 集団的自衛権については、従来の政府解釈は「所持すれども行使できず」というもので、これが変な状態であることは明らかです。「あなたは選挙権を持っているがそれを行使することはできず、従って投票することは許されない」などと言われたら、誰でも首を傾げるでしょう。行使できない権利というのは、持っていないのと同じことです。行使できるかどうかを自分で決めることができるのが権利というものです。
 そんな変なことになっていたのは、言うまでもなく日本国憲法第9条の文面が足枷になっていたからです。あまりによく知られた文面ですが、いまいちど確認のために掲載しておきましょう。

 ──日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ──前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 素直にこの条文を読めば、日本国は一切の軍事組織を持つことができないとしか思えません。第1項だけだったら、こちらから戦いを仕掛ける、つまり先制攻撃をおこなうことは金輪際ありませんと宣言しているだけで、軍事組織を持つこと自体は否定していないとも言えますが、第2項がダメ押しになっています。陸軍・海軍・空軍共に持たないということが明言されており、誤解の余地は無いように思われます。
 憲法の草案を作ったGHQとしては、もちろんそのつもりであって、日本からすべての軍事組織を抹殺しようとしたのでした。日本さえ丸腰になれば、東アジアはずっと平和であるはずだと考えたのでしょう。日本だけが悪者であって、他の国々はみんな連合国の──というよりもUSAの言いつけを素直に守る、おとなしく扱いやすい相手であると思い込んでいたのです。
 むろんのこと、この幻想は見事に裏切られました。USAが期待していたような殊勝な国はどこにも無かったのです。いや、強いて言えば、ただ日本だけがUSAの期待に応えることのできる国であったのです。
 朝鮮戦争が起こり、USAはそのことを否応なく思い知らされました。日本に攻められていた時にはあんなに哀れっぽく助けを乞うていた中国が、突如として牙をむいたのですから、あわてふためいたことでしょう。逆上したマッカーサーは、朝鮮半島に原爆を使用することをトルーマン大統領に進言して却下されました。そしてマッカーサーはこの時はじめて、先の大戦での日本の軍事行動が、究極的には自衛目的に過ぎなかったことを悟ったと言います。朝鮮半島が共産主義者の手に落ちることがどれほど怖いことなのか、実際に日本に滞在してようやく理解できたということです。
 日本に駐留していたUSA軍(表向きは国連軍)が、迎撃のために朝鮮半島へ渡りました。その分手薄になった日本国内の治安維持と国連軍支援のために、GHQは警察予備隊の組織を指示しました。これが自衛隊の前身であることは言うまでもありません。 
 もしこの時点でGHQが、警察予備隊の存在が憲法第9条に抵触することに気づき、条文を改正するよう指示していれば、その後妙な解釈がまかり通ることもなかったでしょう。それ以上に、改憲ということに対する日本人の心理的ハードルをだいぶ下げることになったのではないかと思います。
 しかしGHQはそこに思い至りませんでした。警察予備隊は一時的なものだと考えていたのかもしれません。また、GHQによる統治が終わったら、憲法などは当然日本人の手で改正されるものと思っていたふしもあります。どうせすぐ変わるのだから、別にいま書き換えなくとも構わないだろう、と判断したのかもしれません。

 やがて日本は講和条約を結び、独立国となりました。USAは東アジアの安定のためには、結局かつての最大の敵であった日本と手を結ぶのがいちばん得策であることに気づき、日米安全保障条約を結ぶことになります。
 当初はUSAが日本の防衛を代行するという位置づけだったはずですが、USAといえども財源や人材が無限にあるわけではありません。次第に、日本にも相応の責任を分担して貰おうという流れになるのは当然でした。
 自衛隊は年を追うごとに精強になり、もはや能力的には世界でも五指に入るほどの軍事組織となりましたが、憲法の条文はそのまま残ってしまいました。改憲を匂わせただけでも、野党やマスコミ、学者たちが気が狂ったようになってバッシングをはじめるので、手がつけられなかったのでしょう。ただし、共産党が当初「独自憲法の制定」を党紀に掲げていたことは記憶しておいて良いと思います。これは反米というスタンスによるものでした。その共産党が現在護憲ばかり叫ぶようになっているのは、日本に戦力を持たせないほうが彼らの目的(=共産革命)にとって好都合であると判断したからです。
 しかし自衛隊が軍事組織であることはどう見ても明らかです。この明白な事実と、憲法第9条の条文との整合性をとるために、歴代政権は大変な努力と詭弁を傾けたのでした。曰く、自衛隊は憲法に規定された「戦力」には該当しない。曰く、自衛権は憲法の条文いかんにかかわらず国家が保持する固有の権利である。冒頭に挙げた、集団的自衛権は所持すれども行使できないというのも詭弁のひとつです。
 こういう法解釈をひねり出すために費やされる厖大なエネルギーは、まさに知力の浪費であるとしか思えません。もう少し他のことにそのエネルギーを使ったらどうかと言いたくなります。

 自国を護る権利(=自衛権)は、当然認められるべきだと私は考えます。誰にだって正当防衛の権利はあるのです。これを放棄するとすれば、どこか他の国が完全に防衛を肩代わりしてくれるという場合だけで、例えばモナコとかサンマリーノなんかはそういうやりかたをとっています。都市国家に毛が生えた程度の国ならそれもアリかなと思います。日本にとっては、USAが防衛を肩代わりしてくれる相手だったはずですが、日本ほどに大きな、しかも島嶼という防衛しにくい立地の国を完全な責任を持って防衛するなどというのは、いかにUSAが富強であっても無理な話です。当初は無理でないと思っていたかもしれませんが、いずれ無理になるのは眼に見えています。
 完全な責任で肩代わりしてくれる相手が居ない以上、自分の身は自分で護らなければなりません。これを否定するのは、つまり滅亡しても良いという意志になります。一部にはそういう考えかたの人も居るようですが、おおかたの日本人は日本という国の滅亡を望んでは居ないはずです。
 「『昔、日本人という美しい心を持った民族が居た』と語り継がれれば、それで充分じゃないですか。攻められたら亡びればいいんです」
 などとおバカな発言をした経済学者が居ましたが、歴史というものは亡ぼした側が作るものだということを忘れています。語り継がれるのは

 ──昔、日本人という極悪で好戦的な民族が居たので、世界の平和のために滅亡させた。

 ということにしかなりません。誰が「亡びた民族の美しい心」など認めてくれるでしょうか。
 それでまあ、普通の感覚としては滅亡するのはイヤですので、自分の身を護るくらいの用意はしておかなければなりません。これが個別的自衛権というものです。

 ところで、自分の身を護るにあたって、そのすべてを自分だけで賄おうとするとなかなか大変です。それで同盟を結ぶということが大切になります。
 同盟にもいろいろなレベルがあります。敵対国と交戦状態になった時に、そちらには与せずに中立を守るというだけのゆるい同盟もありますし(かつての日ソ不可侵条約など。なおスターリンのソ連はいとも易々とこの条約を一方的に破り、千島諸島を占拠しやがりました)、共に敵に当たるという緊密な同盟もあります。
 日本が今まで結んだ同盟としては、日英同盟がいちばん実があったのではないかと思います。日本が日露戦争を戦い抜けたのは、この同盟があったからこそで、決して自分たちの力だけで勝ったのではありません。英国は当時全世界に拡がっていた植民地ネットをフルに活用して、バルチック艦隊のゆく先々で意地悪をしまくってくれました。おかげでバルチック艦隊は、良質の石炭も積み込めず、食糧も不充分、艦船の整備もしっかりとはできていない状態で日本海海戦に臨まざるを得ませんでした。日本海海戦は、東郷平八郎の卓越した指揮、秋山真之の天才的な作戦によって勝利を収めたには違いありませんが、相手かたのバルチック艦隊を、事前にヘロヘロな様相まで追い込んでくれた英国の存在が無かったら、あれほどまでの完全勝利は得られなかったに違いありません。
 また陸戦に関しては、ロイター通信のおかげをこうむった面がかなりあります。奉天会戦でロシア軍は突然退却を始めましたが、あれはクロパトキン将軍が臆病風に吹かれたわけではなく、緒戦で充分な戦果が得られない場合に、戦線をどんどん引き下げて、敵の補給線が伸び切ったところを叩くという、ロシア軍の伝統的な戦法に従ったまでです。実際、ロシア軍はかつてナポレオンをこの手で撃退しました。ところが、ロイター通信がこの退却を「敗走」として全世界に喧伝したために、みんなロシアが負けたと思い、ついにはサンクトペテルブルクの宮廷すらも負けを信じてしまい、クロパトキンを召還したのでした。当時世界最大の情報力を持っていた英国が、いわば判定勝ちを宣してくれたおかげで、日本は勝ち越しの状態で戦争を終わらせることができたわけです。
 英国は二枚舌・三枚舌の外交をおこなったりして、なかなか一筋縄ではゆかない国ですが、ひとたび同盟を結べば、誠実に同盟国の役割を果たしてくれます。日露戦争における英国の行動は、まさしく同盟国とはかくあるべきと教科書に載るような見事さでした。まあ、「栄光ある孤立」を気取っており、有色人種への偏見も烈しかった英国に、ダメモトで同盟をもちかけて成功させてしまった、当時の日本政府の外交力も大したものではありますが。
 実は英国にとっても、日本と同盟を結んでいた時代がいちばん輝いていたと認める人が少なくないのでした。日英同盟が破棄された時から、両国の低迷がはじまったと言えるのです。

 このように同盟というのは、それを結んだお互いの国にとって利益があることが必須となります。
 日米同盟は、日本にとっては確かに利益があります。USAと同盟していたからこそ、日本は戦後70年間、大きな国際紛争に巻き込まれずに済みました。日本が平和を謳歌できたのは、決して憲法9条があったからではありません。その証拠に、9条を模した憲法を採用した国は世界のどこにも無いのです。本当にあの条文が平和維持に役立つのなら、あちこちの国が争って真似るはずではありませんか。
 USAにとっても、極東地域での駐留費用を全部日本が持ってくれているのですから損は無いはずですが、いざ紛争が起こると、やはりカネだけ出して実際の行動は丸投げするような日本の態度は腹立たしかったでしょう。湾岸戦争あたりで、その不満はピークに達したと思われます。
 かくて、やいのやいの言われた揚げ句に、国連の平和維持活動に参加する場合に限って、自衛隊を海外派遣することが認められました。国連軍というのは実際には米軍が主力となることが多いので、これだけでもだいぶ風当たりは弱まったようです。
 しかしながら、これは集団的自衛権ではないと見なされました。派遣された自衛隊は、自分たちに攻撃が加えられた場合に応戦することは可能(これは個別的自衛権の範疇なので)です。しかし、友軍が攻撃されている場合には、それを助けにゆくということができません。ただ指をくわえて見ていなければならないのです。「自分たちが攻撃されていないのに友軍に助力する」という行動は集団的自衛権に属するからです。
 実際のところ、こんなバカな話は無いのであって、危ない時に助けてくれない友軍などなんの意味があるでしょうか。もしかすると敵よりも恨めしい存在となるかもしれません。
 集団的自衛権の行使というのは、そういう時に味方を助けることができるようにするということに過ぎません。USAがどこかに戦争を仕掛ける時に必ず巻き込まれるのではないかと心配している人が少なくありませんが、そういうことではないのです。
 ただし憲法9条と照らし合わせた場合、やはり無理があると私には思えます。詭弁めいた解釈変更ではなく、すっきりと改正してしまうのが筋であろうと考える次第です。安倍首相も、本当はそうしたいのでしょうが、まだ機が熟さないと見たのでしょう。

 なお集団的自衛権の範疇に属する行動は、実際問題としてすでにやっています。言うまでもなく、2013年末に起こった、南スーダンでの韓国軍への銃弾貸与のことです。韓国軍の駐留地が攻撃にさらされる可能性が高まり、防御・応戦のための銃弾が足りないので、同じ規格の弾丸を用いている自衛隊に拝借を頼んできて、自衛隊も快く1万発の銃弾を貸し与えたのでした。戦闘に参加してはいませんけれども、これなどはまったく集団的自衛権の行使にほかなりません。
 この件に関して韓国政府は、頼んでもいないのに自衛隊が勝手に銃弾を送りつけてきたとか、国連軍本部に頼んだら結果的に日本のものが送られてきたとか、とにかく日本に恩を着たという事実が悔しくてならなかったようで、あれこれと言い逃れていましたが、現地では韓国軍の司令官が大いに感謝して、絆を深めてきたようです。
 日本国内でも、若干問題視する向きはありましたが、昨今集団的自衛権で騒ぎまくっている朝日新聞その他も、この時はさほど騒ぎ立てませんでした。相手が韓国軍であったからかもしれません。しかし、言ってみれば既成事実が作られたこの時に騒がないで、昨今になって大騒ぎするというのは、見通しの悪さをみずから暴露しているようなものです。
 なんにしろ、これで若者が戦争に駆り出されることになるなどというのは言いがかりみたいなものでしょう。私には、集団的自衛権の行使を認めることと、若者が戦争に駆り出されることとの関連性がさっぱりわかりません。集団的自衛権は、ほとんどの国が行使を認めていることであって、それらの国の若者が必ず戦争に駆り出されているかというと、そんな事実はまったく無いのです。
 想像するに、そういうことを叫んでいる人の頭の中では、次のような論理展開がなされているのでしょう。

 1.集団的自衛権の行使を認める
      ↓
 2.軍事行動をおこなうことに歯止めが無くなる
      ↓
 3.そうなれば日本は必ずどこかに戦争を仕掛ける
      ↓
 4.そうなれば必ず徴兵制が敷かれる

      ↓
 5.若者が戦争に駆り出される

 風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話ではないでしょうか。
 3と4のところに、ものすごい発想の跳躍があるように思えますが、彼らの中ではこれが必然なのだろうと思います。
 戦後半世紀余りをかけて刷り込まれてきたことが、ここで効いてきているようです。つまり、

 ●日本は軍事力を持てば、必ず戦争をおっぱじめる、とことん好戦的で始末に負えない国である。
 ●日本さえおとなしくしていれば、アジア地域に戦争は決して起こらない。他の国は平和を愛する諸国であるがゆえに、戦争をおっぱじめることなどあり得ない。


 という、常軌を逸したふたつの幻想です。日本の平和教育なるものは、例外なくこのふたつの幻想に立脚して構築されています。
 前者については、そうでないと言い切ることはできないかもしれませんが、もし日本人がそんな固有の好戦性・侵略性を持つ民族であったならば、とっくに占領国憲法など破棄してどこかに攻め入っていたはずです。70年というもの、憲法9条を楯にしてどことも事を構えていないということ自体が、日本人が本来は戦争など好まない民族であることを証明してはいないでしょうか。
 前にも書きましたが、日清戦争でも、日露戦争でも、大東亜戦争でも、日本はいずれも「受けて立つ」形で開戦に踏み切っています。毎回先制攻撃をしているのは、「開戦が避けられないのであれば、緒戦で一撃を加えて機先を制したほうがあとが楽である」という冷静な戦術的行為に過ぎず、すぐに感情的にいきり立って暴力に訴えるDQNチンピラDV夫と同列に見るのは間違っています。
 後者の幻想は、本当に理解不能です。現代史そのものが反証となっているのに、いまだに「日本が手を出しさえしなければ戦争は起こらない」などと信じているのは、どういう心の構造になっているのでしょうか。日本が関わらなくとも、中国は全方位的に紛争を惹き起こしていますし、インドパキスタンも核兵器競争をしていますし、アジアは決して平和ではありません。
 中国はいままで、日本と戦っても勝てないとわかっていたからちょっかいを出しては来ませんでしたが、その後実力をつけ、経済大国となり、軍拡に軍拡を重ね、そろそろ

 ──USAと離間しさえすれば、いまなら日本に勝てるかもしれない。

 という自信をつけ始めたからこそ、尖閣諸島に対して実際行動を開始したのです。それまでは、ありとあらゆる手練手管を用いて、棚上げにしようとしていました。その棚上げ論を手もなく信じ込んでしまった日本の政治家こそ可憐、いや無能と呼ぶべきでしょう。ともあれ現在は、中国は全力を傾注して、日本とUSAを離間させようと努力しています。まだ成功とまでは言えませんが、両国の政界や経済界には、一定の浸透が図れてきているようでもあり、油断はできません。

 もし万が一、戦争をはじめようとしたとして、その際には必ず徴兵がおこなわれると考えるのも、現代戦というものを理解していない脊髄反射的発想と言わざるを得ません。いまの兵器はきわめてハイテク化していて、徴兵して何ヶ月か訓練しただけの兵士に使いこなせるようなものではなくなっています。また徴兵された兵士というのは一体に士気が低く、全体から見ればむしろ害になることのほうが多いと考えられます。そのため、多くの先進国では、すでに徴兵制はやめてしまい、志願制が主流となっています。若者の数が一体に減ってきているという要因もあるでしょう。
 後方支援のための「徴用」はもしかしたらあるかもしれませんが、前線に送る兵士を強制的に集める「徴兵」は、いまや実施する理由も意味も無くなっていると言えます。
 若者が「その意に反して」戦場へ送られるなどということは、現在の日本の体制と世界情勢が続く限りでは、もう起こらないでしょう。
 ただし、若者が「志願して」戦場へゆくようになることを懸念するという意味ならば、わからないではありません。日本の若者はチャランポランなようでいてけっこうものごとを考えているもので、もし本当に危機が迫ってきたならば、志願して戦おうという人は決して少なくないような気がします。特に最近のように、若者の職や収入が減る一方で、前途にあまり希望を見出せなくなっている時代では、その傾向も強いでしょう。
 それを心配するのなら理解はできます。ただ、国の危機に際して国民が立ち上がるというのは普通のことであり、その普通のことを日本でだけは認めないということになると、やはり日本を亡ぼしたいどこかの勢力の息がかかっているのではないかと思いたくなります。

 義を見てせざるは勇無きなり。自分さえ無事ならそれで良いというメンタリティは、本来の日本人には無かったはずのものです。
 実力を持った国際的な司法組織も警察組織も存在しない世界において、他人の信頼をかちとるのは、古い言葉のようですがやはり「仁義」の他には無いと思います。その「仁義」を近代的な形にしたものが集団的自衛権であってみれば、いつまでも背を向けているわけにはゆかないでしょう。幸い日本の自衛隊は、士気の充実ぶりも規律の厳正ぶりもトップレベルであり、海外でも高い信頼を受けています。その信頼性が、いざという時の安全保障となります。
 思えば、英国が日英同盟に踏み切ったのは、義和団の変における日本軍の士気と規律を評価したからでした。北京に侵攻しても、一物をも掠奪せず、域内の民間人を完全に保護した日本軍への驚きと感動が、英国をして「栄光ある孤立」を捨てさせ、極東の一小国と同盟を結ばせるきっかけになったのでした。軍事組織というものは、そういう使いかたもできるのです。
 国内のお花畑な人々と、特定アジア三国──中国、韓国、北朝鮮──は猛反対するかもしれませんが、日本が集団的自衛権を行使できると決めることで喜ぶ国はたくさんあるでしょう。USAだけではありません。安倍首相の精力的な外国訪問は、このための根回しでもあったろうと思います。
 朝日新聞は例によって、「若者たち」の「反対の声」をピックアップして大仰に報じていますが、このところ、

 ──朝日の言うことの逆をやっていれば、まず間違いはない。

 とごく普通に言われるほどになっていますので、そんな記事はむしろ推進剤にしかならないかもしれません。首相には信念のままに歩んで貰いたいと思っています。

(2014.5.16.)

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