忘れ得ぬことどもII

翻訳という仕事

 何日か前の産経新聞に、翻訳家の青山南氏のコラムが載っていました。私は語学はまったくダメで、英語の日常会話でさえおぼつかないくらいですが、翻訳小説はミステリーを中心にけっこう読みますし、無謀にもシャーロック・ホームズミス・マープルの私訳をこさえてやろうなどと試みたこともあります。ひとつの言葉を別の言葉に移すという作業自体には興味を覚えます。ある意味それは、言葉というテキストを音楽に乗せるという、私自身のおこなっている仕事とも通じるものがあるように思えます。
 青山氏は翻訳という仕事をとおして、さまざまな日本語と出逢うことの喜びを書いておられます。英文を読んで、その意味するところはわかるのだけれども、さてそれを日本語に置き換えようとすると、なかなかぴったりくる言葉が思いつかないことが多いようです。

 ──うんうん唸るが、いつまでもうんうん唸っているだけでは埒があかないので、うまい訳語が出ていないかと、つぎつぎと英和辞典をひく。意味が知りたいのではない。意味はもうわかっている。うまい訳語が欲しいのだ。

 この気持ちは、なんとなくわかる気がします。
 私の乏しい経験でも、翻訳というのは決して「単語の意味の総和」ではないからです。ひとつひとつの単語の意味を調べて、それを日本語の語順で並べてみても、全然日本語の文章にはなってくれません。
 例えば、われわれはGood morningという英文を、なんの疑問もなく「おはようございます」という意味だと理解していますが、よく考えてみるとGood morningの「意味」は「おはようございます」ではありません。「意味」は「良い朝」です。逆に、「おはようございます」を意味どおりに英文にしようとすれば、It's an early timeとでもするしかなさそうです。もちろん英語にこんな挨拶はありません。
 要は、日本人が「おはようございます」と挨拶をかわすのと同じシチュエイションで、英米人だったらGood morningと発言するというだけのことであって、お互いが「同じ意味」であるということにはなりません。
 翻訳という作業の難しさは、こういう場合に「おはようございます」と「良い朝を」のどちらを採るかという点にもあるわけです。誰もGood morningを「良い朝を」なんて訳しはしないだろう、などと思ってしまうと、それはそれで発想が固定化されてしまっていると言って良いのではないでしょうか。時にはあえて直訳である「良い朝を」という訳語を用いて、他国の風習というか文化というか、そんなニュアンスを伝えたほうが効果的であるというケースもあるはずです。
 中国語のありふれた挨拶言葉に「喫飯了媽(チーファンラマ)?」というのがあります。文字通りの意味は「メシは食ったのか?」ということなのですが、ほとんど「こんにちは」とか「やあ」とか、その程度のニュアンスで使われます。「メシは食ったのか」なんて言われれば、「大きなお世話だ」と怒り出す人も居るかもしれませんが、そんな人のプライバシーをほじくるような深い意図があって発する言葉ではありません。だからそう訳してしまっては間違いとも言えるのですが、しかしそれを承知で、中国語の面白さを出したいという狙いで「メシ食った?」と訳す場合も無いとは言いきれません。
 挨拶言葉ひとつとってもそんな問題がついてまわります。

 英米の文章には、よくヤード・ポンド法による長さや重さの表記が登場します。日本ではあんまり馴染みがありません。
 例えば「5フィート5インチの小男」という文があったとします(エルキュール・ポワロのことです)。これをどう訳すべきなのか、考えかたはいろいろあるでしょう。
 まず原文のまま「5フィート5インチ」とするやりかたがあります。5-5という語呂が良いですし、読者にある程度の知識があるという前提であればこれで差し支えありません。また、はっきりどのくらいの長さかはわからなくとも、
 「なるほど5フィート5インチというのは小男と言って良い身長なんだな」
 と納得する読者も居るかもしれません。
 しかし、訳者によっては、読者の直感的なイメージを喚起したいと考えて、メートル法に直すこともあるでしょう。5フィート5インチはメートル法に直すと165.1センチです。小数点以下まで記す意味は無さそうですから、「165センチの小男」としたらどうでしょうか。これも間違いとは言えないと思います。ただ、日本人の場合165センチあれば、平均よりは低いとしてもそこまで小男という印象ではありませんので、違和感を覚える可能性もあります。
 もうひとつ、「5フィート5インチ(約165センチ)」のように註をつける方法があります。縦書きの本なら割り註(カッコの中に小さい文字で2行に分けて註記する)を使うことが多いでしょう。これなら原文のリズムをそこなわずに正確さも期せそうですが、あまり多用されると読んでいて煩わしいですね。
 長さのフィートのほうは、それでも日本の「尺」と似た長さであるため、まだ註記無しでも想像がつきます(ただ、インチ=1/12フィートというのをついつい1/10フィートみたいに錯覚してしまい、「5フィート5インチ」を「5フィート半」とイメージしてしまうことが私にはよくあります)。しかし、重さのポンドのほうはイメージの描きようがありません。1ポンドが約450グラムという知識はあっても、「315ポンドの肥満体」などとあっては(ネロ・ウルフですね)もうお手上げです。これも、原文のリズム感を活かしてポンドのままにするか、正確なイメージを期してキログラムに換算するか、それとも割り註つきにするか、その辺は訳者と編集者のセンスにかかってきます。

 日本に無いか、普及の薄い品物や文化を訳す場合にも困ることでしょう。USAの小説などでは「summer stock」という言葉がちょくちょく出てきますが、これは株式用語ではなくGoogleで「サマーストック」と検索したらほとんど株式用語ばかり出てきて笑いました)、リゾート地などで夏のシーズン中におこなわれる劇団の公演のことです。「夏芝居」「夏季公演」などと訳されていることがありますが、日本にそういう公演形態があまり無いため、そう訳されてもなんのことやらよくわからないでしょう。かと言って、割り註でことこまかに説明されても読書の興をそがれかねません。
 訳された当時は馴染みがなかったものが、いまではすっかり普及したというケースもあります。「カフェオレ」は昔の翻訳を読むとたいてい「ミルク入りコーヒー」などと書かれていて苦笑します。ポワロの好物が「デンマーク風ブリオッシュ」と書かれていて首を傾げたことがありましたが、ある時はたとひざを打ち、なんのことはない「デニッシュ」のことではないかと気がつきました。「ミルク入りコーヒー」とか「デンマーク風ブリオッシュ」とか書かれている翻訳は、カフェオレやらデニッシュやらの実体が日本でも知られてくると、すっかり古色をおびて、「訳文が古くさい」などと評されるようになるわけです。
 こういう場合に割り註をつけるのも善し悪しで、上に書いたようにあまり多くなると煩わしいのですが、効果的で記憶に残る割り註というのもあります。私はドイツ料理の「ザワークラウト」を、「大どろぼうホッツェンプロッツ」という童話を読んで知ったのですが、その訳書ではザワークラウトをそのまま記し(「ザウアークラフト」となっていたような気もします)、割り註で「(はっこうさせたしおづけキャベツ)」と書いてあったのでした。これは簡にして要を得た註記と言うべきで、小学生当時の私はザワークラウトの現物などまったく知らなかったにもかかわらず、大人になるまでそれを憶えていて、実際に食べた時に
 「ああ、これかあ!」
 と思わず感激してしまったものです。これ、もし訳文が子供にわかりやすいよう「キャベツのつけもの」とか「しおづけキャベツ」となっていたら、こんなに記憶には残っていなかったと思います。

 色とか匂いとかの表現も、訳すには注意が必要なところかもしれません。たとえば英文学には「orange cat」がちょくちょく登場します。ダイダイ色の猫とか、オレンジ色の猫とか訳してしまうと、大変奇異な印象になります。アメリカには変わった色の猫がいるもんだなあ、などと思ってしまうのですが、実はただの茶猫のことで、彼らはわれわれの言う茶色の猫のことを「orange cat」と認識するというだけの話です。
 同じようにフランス人が
 「ああ、あそこに『Le chien jaune』が居る」
 と言ったとして、私がそれを見れば、ありふれた「茶色い犬」が居るに過ぎないに違いないのですが、ジョルジュ・シメノンのこのタイトルの小説は「黄色い犬」と訳され、その訳題が日本ではすっかり定着しています。日本では「黄色」というのはレモンとか卵焼きとかの色であって、樹の幹や薬壜のような色まで「黄色」には含めないのが普通ですが、フランス語のjauneはそれよりもずっと範囲が広いようです。この小説が日本でメグレ警部シリーズの代表作のように見なされているのは、もしかしたら「犬が黄色?」と思ってしまう驚きと違和感のせいであって、日本人の感覚に合わせて「茶色い犬」と訳されていればそれほど受けなかったかもしれない……などと私はつい想像してしまいます。

 こう考えてくると、翻訳というのは、訳者が自分の属するすべての文化的背景をたずさえて、対象国のあらゆる文化現象と格闘するような、まさに血みどろの作業であって、そう片手間にできるものではないという気がしてきます。
 原文の「意味」はわかっているのに「訳文」になってくれない、という、一見不思議な苦しみも、そうであってみれば当然のことではないでしょうか。中学や高校でやるような「英文和訳」では、まるで使い物にならないのです。学校の英文和訳は、「意味」が通じればそれでマルを貰えるわけで、達意の日本文を書く必要はありません。と言うより、文化的な差異を考慮しなければならないような問題は、生徒には出さないでしょう。
 そういえば私の高校時代、英語ではありませんが、漢文のレポートで、任意の漢詩を訳すという課題が出て、

 ──逐語訳や読み下しは不可。日本語の詩として読めるようにせよ。

 という条件が付されていたことがあります。私が選んだのは李白「黄鶴楼に孟浩然の広陵へ之くを送る」で、ああでもないこうでもないといろいろ考えましたが、結果的に高校時代のレポートとしてはいちばん記憶に残るものとなりました。

  故人西辞黄鶴楼   故人 西ノカタ黄鶴楼ヲ辞シ
  煙花三月下揚州   煙花三月 揚州ニ下ル
  孤舟遠影碧空尽   孤舟ノ遠影 碧空ニ尽キ
  惟見長江天際流   タダ見ル 長江ノ天際ニ流ルルヲ

 拙訳として提出したのはだいたい次のとおりです。提出後も少しばかり推敲したので、このままではありませんが。

   なつかしきわが友は黄鶴楼を出でて
   花霞む春弥生 揚州へ旅立てり
   ひとりなる帆影はすでに天空に溶けゆきて
   見るはただ長江のはてもなき流れのみ

 まだだいぶ原文にとらわれている気配がありますが、まあ高校生の訳としてはこんなところでしょう。5音節を1単位としてリズムが感じられるように作り、なおかつ3行目などではその単位をあえて崩してアクセントになるように配慮しました。提出したレポートは特に返しても貰わなかったのに、30年経っても憶えているのは、この「翻訳」が私にとっても渾身の作業であったからだろうと思うのです。あまたの「英文和訳」の課題ではまったく味わえなかった充実感でした。
 そんな経験もあるので、翻訳家のかたがたの労力には頭が下がる想いがしますし、会心の訳語や訳文を思いついたりめぐりあったりした時の喜びもわかるような気がするのでした。

 日本は世界でもぬきんでて翻訳文化が発達している国です。あらゆる文献を翻訳してしまい、自国語で読むことが可能になっています。こんな国は他にほとんどありません。大学レベルの講義が自国語だけで可能などというのは、おそらく英語圏の他には日本しか無いでしょう。
 日本人が外来文化に対してそれだけ貪欲であるということでもあるでしょうが、例えばお経などがいまだに「ハンニャーハーラーミーター」と「日本式発音による漢文」のままで、一向に訳されていないのでもわかるとおり、昔からそうだったとは言いきれないかもしれません。外国の文献を営々と翻訳しはじめたのは、やはり明治以降の話であり、外国の「すぐれた文明」を自国語で受け止められるようにして日本の文明レベルを底上げしなければならない、という責任感が、知識人のあいだに生まれたという事情があったものと思われます。
 おかげで大量の翻訳概念が日本語に流入しました。そのために同音異義語がおそろしく増えてしまったという弊害もありましたが、ともかくも知識の大衆化が図れたことは間違いありません。大衆のほうも、江戸期以来の伝統で、知識を得ることに貪欲であったわけで、需要と供給がともに相当な規模で存在したと言えそうです。
 最近になって、国際的に通用する人材を作るのだと言って、講義を全部英語にしてしまう大学なんてのも出てきましたが、これなどは日本のアドバンテージをみすみす捨てているような気がしてなりません。英語がうまいことと「国際的に通用する人材」とはあまり関係が無いことです。
 訳語を探すことを放棄して、外国語の概念をそのままカタカナで書いているだけの文章が多くなっていることも気になります。確かに正確を期そうとすればそのほうが良いのかもしれませんが、「より多くの人に伝える」という責任感を捨ててしまっているように思えます。身近な例では、映画のタイトルなどもそうですね。
 翻訳という仕事は、現代でも決して重要性が減ってきてはいません。海外の多様な文化と否応なく触れ合わなければならないこの時代、翻訳家の仕事は「文章のフォーマット変換」だけではなく、「文化の紹介者」としてとらえなければならないでしょう。その意味ではこれからますます必要とされる職業であろうと私は考えています。

(2013.12.3.)

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