忘れ得ぬことどもII

映画「清須会議」

 「原作と脚本と監督」三谷幸喜の映画「清須会議」を観てきました。
 私は特に三谷ファンというわけではなく、せいぜい「古畑任三郎」を見ていたくらいです。その後NHK大河ドラマの「新選組!」を手がけていたので、それも見ました。このドラマは旧来の大河ファンからはあんまり受けが良くなかったようですが、私はけっこう面白いと思いました。キャスティングが香取慎吾山本耕史堺雅人山口智充といった若手(当時)中心で、何しろ重みがないというのがもっぱらの評でしたが、考えてみると近藤勇土方歳三といった歴史上の人物が活躍していた頃の実年齢に近い役者たちであったわけで、そのあたりに一種の見識を感じたのでした。
 また、全49話の1話1話を、すべて「ある特定の一日のできごと」という描きかたで統一していた、いわば舞台演劇のような方法も、興味深く思いました。こんな風に、作劇スタイルに一定のこだわりを持った脚本家は嫌いではありません。私自身、自分の作るものになんらかの「縛り」を課すのが好きなので、共感のようなものを覚えるのかもしれません。
 ともあれ、その三谷氏が清須(清洲)会議を扱った映画を作るというので、前から関心は抱いていました。たまたま、マダムと一緒に映画でも観ようかということになり、作品を選ばせて貰えたので、今日の朝映画館に行ってきた次第です。

 清洲会議というのは、歴史好きにはお馴染みのイベントです。織田信長本能寺明智光秀に討たれ、その光秀も「中国大返し」を敢行した羽柴秀吉に討たれたのち、今後の織田家をどうしようかということで重臣たちが集まって鳩首会談をおこなったというものです。何しろ信長の長男である信忠も一緒に死んでしまっているので、ややこしいことになりました。
 信長の遺児のうち、その時点で成人していたのは次男の北畠信雄(きたばたけのぶかつ)と三男の神戸信孝(かんべのぶたか)でした。当然、どちらかが家督を継ぐのが順当と思われました。しかし信雄は本能寺の変のあと、血迷って信長の居城である安土城を焼いてしまったという狂騒人で、家中の人望も高くありません。一方信孝は信雄よりはましな人物と見なされていましたが、母親の身分が低く、そのため実際には信雄より少し早く産まれていたものの弟ということにされてしまっていたような有様だったのでした。要するにどちらも、信長の跡取りとしては物足りない人物であったわけです。
 清洲会議で実際に決定にあずかったのは、柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興の4名でした。
 勝家より上位に居た佐久間信盛林通勝は、2年前に信長に追放されていましたので、この時点では勝家が筆頭家老というべき存在です。しかし、明智退治の仇討ち戦に参加できなかったので、発言力には少し翳りがさしていました。
 長秀は信長のお気に入りの部将で、この時点では勝家に次ぐナンバー2と見なされていました。が、宿老の中で本能寺に誰よりも近い大坂に、四国攻めのための大軍を率いて駐在していたにもかかわらず、仇討ち戦で秀吉に遅れをとってしまった点で、やはり負い目があったと思われます。
 恒興は、実は宿老というほどの人物ではありません。信長の乳兄弟だったという関係で厚遇はされていましたが、本人の力量や当時の地位はせいぜい連隊長クラスであったと思われます。ただ、秀吉は恒興を味方につけるため、平定済みの領地を大盤振る舞いし、かつての宿老のひとりで信長に反逆して敗走した荒木村重の持っていた領地をほとんど与えてしまっていました。そのため、領地だけで見れば充分宿老レベルになっていましたし、功績の少なさも「信長公の乳兄弟」という権威で補えるわけです。
 本来もうひとり、滝川一益という宿老が居るのですが、彼は本能寺の変ののち、関東で北条軍に大敗してしまい、領地として信長から与えられていた上野国でも叛乱が相次いで、ほうほうのていで大潰走している途上でした。
 また、一般には案外知られていませんが、河尻秀隆という人物が居り、武田勝頼を亡ぼしたあとの甲斐国をまるまる信長から与えられていましたから、実際には一益にひけをとらない地位にあったと思われます。しかし、彼は武田の遺臣の叛乱で生命を落としてしまっています。この叛乱を裏で煽動していたのは徳川家康だったという説もあります。いずれにしろ、一益も秀隆も会議には出席できませんでした。
 さて、会議では、勝家は神戸信孝を織田家の跡取りとして推しました。まあ、成人していて、比較的ましと思われたのは信孝でしたから、普通に考えればまあ順当というか、誰でも考えつく案だったと言えます。
 しかし、秀吉はここで飛躍した発想を披露しました。信孝に対抗して北畠信雄を推すようなことはせず、当時3歳だった信忠の遺児・三法師(のちの秀信)を擁立したのです。信雄も信孝も、すでに他の家(北畠家と神戸家)を継いだ身であり、信長は生前すでに信忠に織田家の家督を譲っていましたので、筋目としてはこれは当然アリでしょう。しかし、平和な時代と違って、この戦乱の世にあえて幼君を立てるという例が滅多になかったため、誰も考えつかなかったのでした。
 会議では長秀と恒興が秀吉に賛成し、勝家は押し切られた形となりました。勝家と、そして後継の座を逃した信孝はむろんのこと面白くなく、両者は結びつきを強めて秀吉に対抗しようとしました。その絆のひとつとして、勝家がかねてより憧れていた信長の妹・お市が、信孝の肝煎りにより勝家と再婚することになったのでした(最初の亭主は浅井長政)。秀吉もお市に憧れていて、この結婚に地団駄踏んだと伝えられています。
 そんなこんなで遺恨を含んで終わった清洲会議は、約1年後の賤ヶ岳の戦いへと連なってゆくことになるのでした。

 史実の清洲会議は、周到に準備工作を張り巡らせていた秀吉が、凡庸な発想しかできない勝家を圧倒したというイベントで、事実上秀吉のひとり勝ちだったと思われますが、映画ではもう少し緊迫した設定になっていました。城の中での5日間に絞ってドラマを作り上げるのですから、それも当然でしょう。今回も、三谷氏は非常に演劇的な発想で映画を制作しています。
 人物像としていちばん従来の説を逸脱しているのは丹羽長秀でしょう。長秀という人は、戦場では豪毅な猛将であり、平時には細心な良吏というタイプの人物であったと考えられていますが、堺屋太一氏などは、これらは小心さの顕れであると断じています。つまり、信長の命令第一で、信長を喜ばせることを何よりも優先しようとしていたのが、結果として猛将となったり良吏となったりしたのだというわけです。
 従来のイメージも、篤実な武将というのが主なところでしょう。自分から何かを企画したり策を巡らせたりするたちの人物ではなさそうです。そして、おおむね生涯を通じて、秀吉に対して同情的であったのも確かだと思います。
 しかし、映画の長秀は、完全に策士タイプとして造形されていました。豪快で単純質朴という造形であった、役所広司氏演ずる柴田勝家との対比を考えてそうなったものと思われます。最初から秀吉を敵視し、勝家を焚きつけ、いろんな策を巡らせて主導権を握ろうとする人物になっていました。長秀役の小日向文世氏が、また小利口な策士を演じさせたら天下一品だったりするので、ひと味違う丹羽長秀になっていました。
 池田恒興も、どちらかというと直情的な猛将タイプというイメージが強い武将で、特にのちの長久手の戦いにおける行動などを見ると、利害得失などよりも「武士の面目」といったことにこだわる人物であるように思われるのですが、映画では利にさとい日和見なキャラクターとなっていました。この映画、衣裳の色などにもこだわりがあって、秀吉の味方は黄色、勝家方は青、織田家の人間は赤を基調とした衣裳をつけているのですが、恒興は最初、緑色の服で登場しました。どっちつかず、というわけです。ちなみに長秀は最初は青系、最後のほうでは黄色系の服になっていました。元来さわやか系のキャラが多い佐藤浩市氏をあえて恒興役に宛てたのも面白いキャスティングであったと思います。
 恒興は滝川一益の到着が遅れているので急遽会議に招かれた人物ということになっており、彼をどちらが味方につけるか……という駆け引きがひとつの山場となっていました。実際には恒興は清洲会議の時点で、巨利を食らわせられてとっくに秀吉の与党となっていたのですが。
 秀吉が三法師に注目したのも、清洲3日目くらいのことで、まったく偶然という描きかたになっていました。それまでは信雄を推すつもりでいたのに、信雄があまりにもおバカで困り果てているという設定です。実際の信雄はそこまで愚人ではなかったと思うのですが、まあ作劇上のキャラ立てとしてはやむを得ないでしょう。それが、川で遊んでいる三法師を見て、ぴんとひらめくという筋なのでした。
 そんな風に秀吉絶対有利ではなく、かなりの鍔迫り合いが展開される物語となっており、これは史実がどうだとか言うよりも、三谷氏の換骨奪胎を愉しむことを心がけるべきところでしょう。

 大泉洋氏の秀吉は、いかにも才気煥発な感じで、私としてはわりと気に入りました。今までいろいろ見てきた秀吉役のうち、西田敏行氏は少々朴訥に過ぎ、竹中直人氏はがむしゃら過ぎる観があったように思います。泥臭い「水飲み百姓」出身という固定観念にとらわれすぎたキャスティングが多かったのではないでしょうか。他のところに書いたように、私は秀吉については商人上がりという面がむしろ重要と見ており、その点で大泉氏のキャラクターは適っていたのではないでしょうか。ただちょっと柄が大きすぎるかなという気はしました。
 細かいところですが、戦後まったく顧みられなくなった「秀吉六本指説」を思わせる描写があったのも注目したいです。本当かどうか、秀吉の右手には指が6本あったと言われており、戦前までの人はたいてい知っていたのですが、戦後は障碍者への配慮ということなのかまるで触れられなくなりました。「非凡な人物には非凡な身体的特徴がある」という中国古来の通念(例えば孔子などは、史書を信ずるなら、ほとんど化け物のような容貌になってしまいます)により作られた話なのかもしれず、真偽のほどは明らかではないのですが、とにかくそういう説があったのは事実です。映画の中で、秀吉が親指をそれとなく隠すシーンがありましたが、おそらく六本指説を意識した演出に違いありません。

 全体を通じて、女たちの描きかたにも興味深いものがありました。主要人物としては、信長の妹のお市、秀吉の妻のねね(映画では「ねい」となっていました)、それに織田信忠未亡人である松姫が登場します。お市(鈴木京香)と松姫(剛力彩芽)は、最近の映像作品には珍しく、ちゃんと眉を落としてお歯黒をつけたメイクになっており、それが特異な印象を醸し出していました。ねね(中谷美紀)が人妻なのにそうなっていないのは、身分があまり高くないからということでしょうか。
 あまり詳しく書くとネタバレになりますので、それぞれの女性がどのように扱われていたかには触れませんが、なんとなく男どもがみんな、彼女らの掌の上で転がされていたようでもあり、いわば女の怖さを感じさせられる話でもありました。剛力彩芽さんはネットでは「ごり押しタレント」「原作クラッシャー」などと叩かれていることが多いのですが、ああいう怖さを演じられるとは意外でした。

 神戸信孝は柴田勝家と組んで秀吉に対抗しますが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ去るとよりどころを失い、北畠信雄に迫られて切腹します。秀吉の差し金であることを重々承知していた信孝は、

 ──昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前

 なる呪いの辞世を詠んで死んだと伝えられます。内海野間というのは知多半島の先っぽにある地名で、信孝が切腹するまで幽閉された土地で、「内海(うつみ)」は「討つ身」に掛けています。この土地では、かつて源義朝頼朝義経などの父)が配下の長田忠致(おさだただむね)らに討たれているので、それを踏まえた内容となっています。とはいえ、この辞世は後世の講釈師が作ったものであろうという説が強いようです。
 思いきりおバカに描かれていた北畠信雄は、そののち徳川家康と組んで秀吉に対抗しようとしましたが、小牧山で秀吉とにらみ合っている家康を尻目にさっさと和睦してしまいました。このあたり、やはりどこか欠けたところのある人格であったことを思わせます。美濃・尾張の織田の旧領を領しますが、小田原攻めのあと、関東に移された家康の後釜として駿河・遠江・三河への移封を秀吉から打診された時に断ったため、秀吉を怒らせ領地を全部取り上げられてしまいます。もっともちゃっかりした性格であったらしく、常真と号して秀吉の御伽衆(顧問)として舞い戻り、秀吉の死後は従妹の淀殿やその子秀頼の後見として大坂城に居坐りつつ、これまたちゃっかりと家康に内通し続けます。その功を買われ、上野国小幡2万石を与えられました。彼の家系はのち出羽国高畠、さらに天童に移封され、無事に明治維新を迎えています。清洲会議では哀れにもハブられていた信雄が、結局は織田の嫡流を後世に伝えることになったわけですから皮肉なものです。ちなみにフィギュアスケートの織田信成選手は信雄の子孫です。

 全体として、歴史の予備知識があれば笑いどころも多く、愉しめる映画であったと感じました。マダムは残念ながら歴史知識が足りなかったために、時々理解困難で意識が飛んでいたようです。
 しかし、秀吉の「狡知」のようなものは感じられた様子でした。また秀吉が、一庶民から天下人に成り上がった点ではナポレオンと比較できるということを私が吹き込むと興味を持ったようで、そのあとで行ったフランス語学校の授業の時に、教室で秀吉の話をしたそうです。
 ところが、同級の仲間があとふたりも、「清須会議」を観てきて秀吉の話題を出したのだそうで、思いきりかぶってしまってみんな苦笑していたとか。人気のある映画であることは確かであるようです。

(2013.11.22.)

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