忘れ得ぬことどもII

カステラと軽羹

 私は和菓子の中では軽羹(かるかん)が大好きで、前にいちどだけ鹿児島へ立ち寄った時にも、滞在時間がわずかしか無い中で、軽羹の専門店を探して買い求めたほどでした。
 中にあんこが入った、いわゆる「軽羹まんじゅう」であれば、関東地方でも見かけることがあるのですけれども、私がより好きなのはあんこの入っていない、白いカステラとでもいう形状の直方体のヤツです。しかしこれはあまり見かけることもありませんし、あったとしてもかなり高価だったりして、なかなか口に入る機会がありません。
 このあいだ、立派なのを1本貰ったので、毎日のように薄切りにして食べています。それほど日持ちのするものでもないため、マダムとふたり暮らしでは、毎日のように食べないと間に合わないということもありますが、口に含むとほのかな甘みを残してほろほろと崩れる様子、やはりうまいものだと、そこはかとない幸せを感じてしまうのでした。
 軽羹というわりには、手に持ってみるとずっしりと重みを感じます。「軽」の字は、羊羹などと較べて軽いという意味なのか、それとも口当たりの軽さを意味しているのか、ともあれ食べることで「幸せ」を感じてしまうお菓子など、そう多くはありません。洋菓子ならよほど上等なババロアであるとか、中華菓子ならこれまたよほど上等な杏仁豆腐であるとか……こうしてみると、どうも私は「白いお菓子」が好きであるようですね。

 上に「白いカステラ」と書きましたが、軽羹はたぶん、まさにカステラを意識して発明されたお菓子なのではないかと私は思っています。
 カステラが生まれたのは16世紀、戦国時代後期のことです。ポルトガルから伝わったお菓子を日本式にアレンジしたものですので、起源は洋菓子ですが、カステラそのものは和菓子の範疇に分類されているようです。
 カステラは、異説はありますが、ポルトガル語の「paõ de Castela」が語源というのがまあまあ一般的です。「カスティリャ風パン」ということですね。カスティリャは現在のスペインの大部分を指します。
 もともとはイスラム勢力に支配されていたイベリア半島で、レコンキスタ国土回復運動と訳されることが多いですが、字義どおりの意味は「再征服」で、実際にも「不法に奪われた領土を取り戻す」といったようなきれいごとではなかったようです)の中心となった王国の名前でもありました。レコンキスタを推進したキリスト教の国はカスティリャだけではありませんが、カスティリャ王国は隣接するレオン王国アラゴン王国を吸収合併し、現在のスペインの版図を獲得しました。
 スペインは多言語の国で、いわゆるスペイン語と呼ばれているのはカスティリャ語のことです。この他に、東部ではカタルーニャ語というのが使われており、バルセロナなどでは主にこちらが使われています。「会社」のことを「caixa(カイシャ)」と言ったりする面白い言語ですが、バルセロナの街の中の表記など、時としてカタルーニャ語だけだったりするので少々面食らうこともあります。あと北東部のバスク語や北西部のガリシア語もありますが、まあ大部分ではカスティリャ語が使われていると考えて良いでしょう。
 従ってカスティリャというのはほぼスペインを指す言葉だと思えばよろしい。ポルトガル語ではカステーラであり、これがカステラの語源となったというのは、わかりやすい説明でしょう。
 スペインのパンといえば、コカというのがよく知られています。コカインの原料となるコカとは別物で、平焼きの白っぽいパンです。チーズを使わないピッツァなどと表現されることもありますが、マダムが時おり焼くのを見ると、むしろ中華まんの皮に似ているような気もします。そうだとすると、カステラの食感と多少の共通点は感じられます。しかし、ポルトガル語の「カスティーリャ風パン」というのがこれのことだったかどうかはよくわかりません。
 異説としては、城壁の意味だという話もあります。英語でキャッスル、これがポルトガル語ではカステーロとなります。カスティリャの国名の語源とも言われます。卵白を泡立てる時に「城壁のように高く」と言われたからだというのですが、これは少々無理な気もします。
 ともかく、日本に伝わった時点では、卵と小麦粉と砂糖だけを使ったシンプルなお菓子で、これが日本の菓子職人によって洗練されたものが現在のカステラというわけです。西洋菓子には珍しく、クリームなど乳製品を用いないので、日本でも普及したのでしょう。

 ところで、小麦粉というのは、鎖国中の日本ではそれほど一般的な食材ではなかったと思われます。まあ、ウドンやテンプラなどの材料には使われますから、珍しいというほどのものではなかったでしょうが、何しろ製粉する必要があるので、一般家庭ではあまり使われなかったはずです。流通量も少なかったでしょう。
 もっと豊富にある食材──つまりコメを使ってカステラのようなお菓子ができないかと考えたのが軽羹の発祥ではないかと私は見ています。
 小麦粉ではなく米粉を使い、つなぎに卵ではなくてヤマノイモを用いたのでした。焼くのではなく蒸すことであの食感を出したわけです。
 今でも正統派の軽羹は、米粉、ヤマノイモ、砂糖だけで作られています。とろろごはんに砂糖をふりかけて……などと考えるとちょっと気持ちが悪くなりそうですが、米粉は近年になって、小麦粉よりヘルシーな食材としてパンやお菓子にも多用されるようになりましたから、軽羹はそのハシリと言って良いでしょう。
 記録では、1699年に薩州公島津綱貴の50歳の誕生日の際に献上されたのが最古であるようです。
 江戸時代、薩摩は「鎖国内鎖国」みたいな状態で、幕府の隠密さえも容易に侵入できなかったと言われます。それゆえ全国的な商品流通網も、薩摩にはわりと薄くしか及んでいなかったのではないでしょうか。それで小麦粉とか、普通の和菓子に必須なアズキとかを入手するのが難しかったのかもしれません。その一方、奄美大島を支配したり琉球を服属させたりしていたため、砂糖はかなりふんだんに手に入ったでしょう。軽羹が鹿児島特産のお菓子になったのは、そういう事情だったのではないでしょうか。
 薩摩藩の江戸屋敷にも持ち込まれて、他家の使者の接待などにも使われたので、だんだんと全国的に知られるようになりましたが、製法などはなかなか明かさなかったのではないかと思います。薩摩藩というところは、幕末から西南戦争頃の様子を見ても、基本は秘密主義で、よそ者を容易に信用しないたちだった気がします。
 その点、長崎の開明ぶりとは対照的だったでしょう。長崎のカステラは製法ぐるみ全国に伝わり、各地で作られましたが、軽羹はいまもって鹿児島が圧倒的なシェアを占めています。他の地方ではせいぜい軽羹まんじゅうしか入手しづらいということからも、そのことはわかります。今回私に軽羹をくれた人も、近くのデパートなどでは買うことができず、わざわざ取り寄せてくれたとのことでした。
 シンプルな材料だけに、その材料の吟味や配合などに、店ごとの秘伝があるに違いありません。

 江戸時代までのカステラは、いまで言えばパウンドケーキかマドレーヌみたいな食感だったようで、明治になってから材料の砂糖を水飴で替える製法が開発されて、現在の文明堂のカステラのようにしっとりとしたものになったそうです。
 主に西日本で、パウンドケーキのようなさっくりした食感よりも、もっとしっとりとした食感が好まれたためだ、とwikipediaなどでも説明してありました。しかし、これも私の想像なのですが、今度はカステラの側が「軽羹のような食感」を求めたということはあり得ないでしょうか。
 水飴は古来の甘味料で、おそらく有史以前から用いられていました。人々がカステラにしっとりとした食感を求めていたのだとしたら、何も明治を待たずとも、江戸時代にすでにそんな工夫がされていたはずです。つまり、江戸時代の人たちは、カステラというのはいまで言うパウンドケーキのような食感のものだと思い込んでいたのでしょう。
 幕末に至って、薩摩藩が大活躍を始め、当然ながらあちこちで要人を接待したり手みやげを持って行ったりする必要も出てきて、そういう場には軽羹がよく供されたに違いありません。
 そうやって市中に出回った軽羹を口にしたカステラ製造者が、その食感をすばらしいと思い、これをカステラでも実現できないだろうか、と思いついて工夫を重ね、水飴カステラを開発した……と考えれば、明治になってしっとり系が急に出現した理由も説明がつきそうです。
 日本では、洋菓子のスポンジケーキも、しっとり系の食感を旨としているように思えます。欧米で食べたケーキで、日本のようなしっとりしたスポンジケーキを用いたものにはお目にかかったことがありません。パウンドケーキ系か、もしくはもっとパンに近いようなもそもそした食感のものがほとんどでした。
 16世紀に入ったカステラの影響が、17世紀に軽羹を生み出し、その軽羹を手本として19世紀にカステラの製法が変わり、それが現在の日本式洋菓子にもつながっている……というのはあくまで私の想像でしかありませんが、日本人の「改良への貪欲さ」そして「味への執拗さ」を思えば、あり得ないことではなさそうです。考えていると、とても楽しくなってきます。

(2013.11.9.)

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