忘れ得ぬことどもII

TPP雑感

 環太平洋戦略的経済連携協定──いわゆるTPPについて、覚え書きを記しておきます。
 保守系のブログや掲示板を読んでも、TPPには反対という人が多いようです。「安倍政権は支持しているけど、TPPを推進していることはいただけない」という意見がかなり見受けられます。
 TPPの何がそんなにいけないのか、私にはどうもよくわかりません。推進賛成などというと、「新自由主義者!」と決めつけられるような風潮になっているようですが、新自由主義で何がよろしくないのかもわかっていません。
 反対派の言うことを聞いてみると、これに参加すると、日本の食やら医療やらの安全が脅かされ、農業が壊滅し、労働移民が増えて日本人の雇用が激減し、地方経済がズタズタになる、とのことです。少なくとも、そうなっても良いのかという口調で人々を威嚇しています。
 本当にそうなるのであれば、これは大変ですが、私にはいまひとつ納得がゆきません。

 国内がそんなに大変なことになる協定を、どうして他の参加国は受け容れたのでしょう。
 TPPの原型は、シンガポール・ブルネイ・ニュージーランド・チリの4ヶ国が結んだ経済協定です。この4ヶ国の中で関税を段階的に撤廃し、連携をとりながら市場におけるプレゼンスをアップさせるというのが当初の目的でした。
 そののち、USAオーストラリアヴェトナムペルーマレーシアがこれに加わりました。大国であるUSAやオーストラリアが参加したことで、当初の性格が少し変わったものと思われます。少なくとも、市場におけるプレゼンス云々については、あまり意味をなさなくなったのではないでしょうか。最初は小国の互助組織みたいなものであったものが、一大経済ブロックのようなことになってきました。
 去年末から、さらにカナダメキシコも協議に加わるようになりました。これでまさに「環太平洋」という言葉がリアリティをおびてきたようです。
 こんなに参加国が増えてきたのは、やはり参加することにメリットがあるからに違いありません。反対派の言っているような国内経済の破壊が必須であれば、誰が参加しようと思うでしょうか。
 あんまりはっきりとは誰も言いませんが、反対派の本音は、かつて私の住んでいる川口市の隣町の戸田市の人たちが、川口市などとの合併話があったときに、猛反対したのと同じ理由ではないでしょうか。

 ──戸田市は全国でも有数の「暮らしやすさ指標」の高さを誇る市だ。川口市などと合併しては、それが大いに下がってしまう。

 そういう理由で戸田市民は合併を拒否しました。少なくとも、反対派の市議などはそういうことを言って市民をあおり、それが議会で通ってしまったわけです。
 どうも反対派は、日本がTPPに参加すると、日本のいろいろな高レベルな物が、参加国の「平均」に近いところまで「落とされることになる」ことを心配しているのではないかと思うのです。「食の安全」などではとりわけそういう想いが強いことでしょう。ただそれをあからさまに言うと、他の参加国を蔑視しているかのようで圭角が立つので、国内向けに「脅かされる」ということばかり強調することになります。
 しかし、それだったらUSA、オーストラリア、カナダなどの、さまざまな面で参加国の平均よりは上に居ると思われる国であっても同じ事情です。ですからどの国も、本当に自国にとって急所になるような部分には、いろいろと安全策を施しているはずです。日本もそうすれば良いだけのことではないでしょうか。

 日本がここに参加しないまま11ヶ国の協定ができてしまうと、輸出時の競争力がだいぶそがれてしまうのは確かでしょう。日本は実は貿易立国というわけではなく、むしろ内需の強い国だから、輸出の競争力を無理に強めなくても良いという論もありますが、ここは金額の問題だけではありません。
 むしろ「情報」において締め出されてしまうのが危ないと私は思います。国際協定には、必然的に情報の行き来が伴います。これからの時代において、良質の情報が得られないことは、国の死活問題に関わります。
 日本の貿易相手はここの参加国ばかりではなく、中国韓国も参加していないわけだから、参加しなくても特に問題は無いだろうという意見もあります。しかし、中国や韓国があてになる貿易相手でないことは私が言うまでもありませんし、中国や韓国と一蓮托生になるなどということはご免こうむりたいものです。ヨーロッパは地理的に遠すぎてさらにあてになりません。
 フィリピンインドネシアはまだTPPに参加していませんが、今後参加する可能性もあります。そうすると、太平洋に面したおもだった国々は大体カバーされてしまうことになります。
 言うまでもなく、こういう協定は、後になってから参加するほうが不利です。もう大体ルールが定まったところに入ってゆくわけなので、どうしても自国の主張は抑えられる形になってしまいます。12番目という日本の順番は、根本的なルールの策定に携われるぎりぎりのラインだと思います。それだからこそ、野田佳彦元首相が交渉参加を決意し、安倍晋三首相もそれを引き継いで交渉を開始したわけです。

 現在も交渉中ですが、この「交渉」を誤解している人は居ないでしょうか。「遅ればせながら、参加させて下さいm(_ _)m」と頼み込む交渉ではありません。
 いわば、ルール作りの交渉です。
 ですから、例えばUSAからいろんな要求を突きつけられてもいますが、日本側からも要求を出しています。交渉ですから、当然「その要求は呑めない」とはねつけることもありますし、「その代わり、こちらでは譲歩しよう」ということも出てきます。逆に、「そちらのその要求は受け容れるので、当方のこの要求も呑んで欲しい」と言う場面もあるでしょう。そういうことを丁々発止でおこなっているのが現状です。
 先日、ある新聞報道がありました。
 現在、豆腐や納豆の原材料名のところに、よく「大豆(遺伝子組み換えでない)」ということが書かれているのはご存じと思います。遺伝子組み換え大豆というのが本当に何か害があるのかはわかりませんが、日本人は基本的にそういう不自然な食べ物を嫌います。
 ところがUSAで作っているのは大半が遺伝子組み換え大豆なので、日本でなかなか売れません(家畜用飼料としてならいくらでも入ってきていますが)。そこでTPPの交渉にあたり、「(遺伝子組み換えでない)」という表記を禁止するように求めてきていました。つまり、遺伝子組み換え大豆を使っているかどうか、消費者にはわからないことになります。いや、「消費者に知らせるな」というのがぶっちゃけUSAの要求でした。
 このこともTPPのデメリットの好例として反対派を勢いづかせていましたが、日本側の主張により、この表示を続けることが認められた……という報道でした。
 オーストラリアとニュージーランドも日本に賛成したそうです。USAも要求をひっこめざるを得ませんでした。確かに、消費者への情報開示を阻もうとする態度には、自由主義国としてあまり正当性が無さそうです。
 わりと簡単にスルーされてしまった記事で、ネットでもさほど話題になりませんでしたが、これは非常に重要な報道であったと私は思います。
 つまり、まっとうな理由さえあれば、日本の主張は充分に通るということをはっきり示していたからです。
 冒頭に書いた、食や医療の安全が脅かされ、農業が壊滅し……云々のおそるべき事態は、USAの出してきた要求を全部唯々諾々と呑んだ場合の話であって、そんなことはまず起こり得ません。

 日本人は、なんとなく「自分がルールを作る」ということが実感としてよくわからないのではないでしょうか。明治以来、「すでにできている枠組み」の中になんとかして割り込もうとしてきたのが日本の近代史でした。枠組み自体を作る側にまわる……ということに馴れていません。かろうじて、戦前の一時期、国際聯盟が発足した頃にはそうした立場に立ったこともありましたが、やはり立場として不馴れであったために、短期間でそこから離れてしまい、代わりにアジア圏に新しい枠組みを作ろうとして失敗したのが大東亜戦争です。
 戦後は再び「すでにできている枠組み」に入れて貰おうと涙ぐましい努力を重ねました。だから日本人にとってほとんどの場合ルールというのは「与えられるもの」であり、「自分が作るもの」としては認識されていません。
 有名な話ですが、オリンピック競技でさえ、日本選手が高得点を上げるようになるとルールが変えられてしまっています。体操、水泳、バレーボール、スキージャンプなどみんなそういう憂き目を見ています。ルールが変えられても日本人は文句も言わず、なんとか新しいルールの中で頑張り続けます。自分たちに都合の良いルールを採用させようとあの手この手で運動するなんてことはほとんど(まったく?)やっていません。その点韓国などはえげつないほどにそれをやっています。日本人から見ると卑怯な気がしますが、世界的にはあたりまえの話なのです。
 それだから、USAの出してきたただの要求、というより要望を、所与のルールであるかのように勘違いした議論が一般に広まってしまっているように思えます。実態は、あくまで交渉のための叩き台であるに過ぎません。
 あるいはおそらく、日本の政治家や官僚は、USAの要求に逆らうようなことをするはずがない、という諦念も働いているのでしょう。どうせ要求を全部呑むに違いないと思っているのです。自国の政治家や官僚の外交力をまったく信頼していないのです。
 確かに、信頼に価しないような外交力しか持たない政治家や官僚が相次いだのも事実ですから、そう諦めてしまうのも無理はありません。しかし不思議なのは、安倍晋三首相の外交能力を手放しで称えているような層でさえ、ことTPPに関してはまるっきり信用していないかのように見えることです。
 安倍首相は、就任してわずか半年のあいだに、おそろしく数多くの海外要人と会い、自分も各国を歴訪して、たちまちのうちに良い関係を築きました。これほど短期間のうちに多くの外交的成功を収めた総理大臣は、日本では今までほとんど出ていません。鳩山由紀夫元首相などは「アジアを軽視している」等々と安倍外交を批判していますが、とんでもないことで、これほどアジア諸国を重視した政治家も珍しいと言って良いほどです。あえて接触せずに宙ぶらりんにしているのはほとんど中国と韓国だけで、それは安倍首相の国際戦略をはっきりと示していると言えます。鳩山氏の眼中にある「アジア」というのは、たぶん東南アジアもインドも中東も含まれず、中国と韓国だけなのでしょう。櫻井よしこ女史の名言ではありませんが、「あなたのおっしゃるアジアって、どこの国のことかしら」というところです。
 中東やアフリカとの関係も強めているあたりを見ていると、あたかも中国の張り巡らせた「連横(れんこう)の網を、瞬く間に「合縦(がっしょう)策で切り崩してゆくような小気味良ささえ感じました。他ならぬ中国の戦国時代の蘇秦張儀の知恵比べを見ているかのようです。その時は蘇秦の合縦策が張儀の連横策に敗れましたが、今度はどうでしょうか。ちなみに合縦というのは、当時の超大国・に対して、他の国々が同盟を結んで一致して対抗しようという外交戦略、連横というのは、それぞれの国がおのおの秦と同盟を結んで侵攻を手控えて貰おうという戦略です。現在、秦にあたるのが中国でしょう。
 英国フィリピンとは、ほとんど軍事同盟に準ずるような協定さえはじまりつつあるようです。どこの国でも、日本は非常に好意的に迎えられました。むしろ、

 ──ようやく日本が動き始めてくれたか。

 というのが各国の偽らざる心境だったように思えます。
 ともあれそれだけの外交能力を証明した安倍首相にして、TPP交渉でだけはUSAの言うなりになってしまうだろうと思っている人が多いのは、どうしたことだろうかと首を傾げたくなります。

 安倍首相は、このタイミングしかないという判断でTPP交渉に臨んだはずですし、日本の言い分をかなりの程度通す自信もあったことでしょう。日本はそれだけの力を持っています。
 確かにUSAは厄介な相手です。なんと言っても軍事的な面で現在の日本はUSAに頼りきりですので、なかなか頭が上がらないところもあるでしょう。
 しかし、USAとて絶対的な世界の支配者というわけではありません。内部にも外部にもさまざまな問題を抱えた一国家であることに変わりはありません。
 いわば「保護者」とも言えるUSAに、日本は一対一で臨めばどうも分が悪いということもあるかもしれません。しかし日本は、(中国と韓国を除いて)世界の大半の国々と良好な関係を持っているという、考えようによっては非常に強力な武器を携えているのです。対米交渉で協力してくれる国を募れば、味方は必ず現れます。現に遺伝子組み換え表示の件ではオーストラリアとニュージーランドが味方してくれました。日本だけならコワモテを見せて要求を押し通そうとするUSAも、複数の国が日本に賛同しているとなると、譲歩せざるを得ません。
 まさにこの点に、TPPというグループに日本が参加する意味があるように私には思われます。従来の二国間交渉では得られなかった「援軍」を期待することができるのです。
 他の参加国にとっても、日本の参加は歓迎したいところであるはずです。今までのメンバーだと、圧倒的に巨大なUSAの主張がどうしても通りやすくなってしまいますが、USAに次ぐ経済大国である日本(中国がGDP2位になったという話はしばらく措きます)が加わり、しかもUSAに物申してくれるとなれば、これほど心強いことはありません。

 ──日本が言うなら、乗るよ。

 という国は参加国の中にもたくさんあるでしょう。日本は、いわば「格下」の相手と交渉する時でも、必ず相手の顔が立つような落としどころを見つけるのが得意です。自国の都合を世界の正義と信じて押し通してくるUSAとはまるで違います。TPPの中で、日本は決して孤独ではないのです。
 安倍政権が気に入らなくて、貶めたいためにTPP参加を批難している人たちには別に言うべき言葉もありませんが、安倍首相を支持しているのにTPPだけはどうも……という人たちに対しては、私は声を大にして言いたいと思います。安倍政権の外交力を──というより日本の潜在力を、もう少し信じてみてはいかがですか?……と。

(2013.6.29.)

【後記】その後、USAが脱退したりして、TPPは大いにもめましたが、なんとか無事スタートを切れそうです。太平洋地域に多くの連邦参加国を持つ英国も仲間に入りたがっています。(2021.2.3.)

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