忘れ得ぬことどもII

飛鳥山博物館「ボンジュール、ジャポン」展

 王子飛鳥山公園に、3つの博物館が並んでいます。公園側から見ると中央にあるのが北区立の飛鳥山博物館、右に王子製紙による紙の博物館、左に澁澤榮一史料館があります。10年くらい前にいちどざっと見たことはあるのですが、小さなミュージアムと思いきやけっこう見ごたえがあって、時間もそれなりにかかります。三館共通入場券というのが販売されていますが、例えば昼過ぎから入館したとして、じっくり見始めると閉館時刻までに3つ全部はとても見きれませんので、なんとその共通入場券に限って有効期間が3ヶ月もあるのでした。購入した時から3ヶ月以内にひととおり見ればOKという、なかなか太っ腹な設定です。
 さて、飛鳥山博物館で、「ボンジュール、ジャポン」なる企画展がおこなわれていて、マダムが通っているフランス語学校も後援したりしています。タイトルからしてフランスがらみであろうことは明らかで、フランスと言えば一も二もなく夢中になるマダムとしては、当然のごとく、観に行きたいと言いました。
 王子はうちからはごく近く、京浜東北線の電車に乗ればわずか3駅です。
 だから行くのは簡単なのですが、案外マダムと私の予定が合う日が少ないのでした。
 金曜日は私が晩にChorus STの練習があり、マダムは通常午後にフランス語の授業に出ていますが、今週はまだ春休みで授業が無かったので、今日行ってきました。自転車で行き、王子駅近辺で昼食をとり、そのあと企画展を観て、できれば他の博物館も観覧し、私はそのままChorus STの練習に行って、マダムは帰宅する、という計画を立てました。

 午前中はあれこれと野暮用があって忙しかったので、家を出たのは正午近くになっていました。少し肌寒いようですが、陽気は申し分ありません。これで花粉さえ飛んでいなければと思います。
 荒川を渡って、隅田川沿いの土手下の道を走ります。北区清掃工場のあたりから北本通りに合流し、王子駅へ向かいます。
 王子駅前にあった小さな店に入りました。夜は居酒屋になるような店で、マダムはこの種の店が好きなのでした。昼を外食にする場合は、よくこの種の店に入っているようです。確かに味も良く、ボリュームもあることが多いようで、今日マダムが注文した「レディースセット」なぞは皿数も多く、ドリンクバーやデザートまでついてなかなか豪勢でした。一方、私のとった週替わり定食は、腹八分目という感じでした。ご飯と味噌汁はお代わり自由ということになっていたので、満腹しようと思えば可能ではあったのですが、まあ遠慮して八分目で済ませました。
 なんとなく居心地が良くて、お尻に根が生えかけているようなマダムを促して店を出ました。もう14時近く、それほど時間がありません。博物館のたぐいは17時には閉館してしまうはずです。
 飛鳥山の坂を上がって、都電の停留所に面したあたりにあるスロープから公園内に入りました。例年だとまだ桜がだいぶ咲き残っている時期ですが、今年は開花も満開も異様に早くて、ほとんど残っていません。飛鳥山公園自体も、とっくにお花見モードを脱している様子でした。

 飛鳥山博物館の開館15周年企画展「ボンジュール、ジャポン」は、なんと観覧無料でした。常設展を観る際には入場料が要るのですが、この企画展はフロント近くの特別展示室ふたつを充てて開催され、入場券は必要ありません。太っ腹なことです。
 「ゆかしくカワイイ、和のかたちと風景」という副題がついています。要するに、幕末から明治初期にかけて日本、とりわけ王子あたりを訪れた、主にフランス語圏の人々による紀行文などを紹介するところからはじまり、彼らが書いた文章や祖国に持ち帰った土産物などが西洋人たちに衝撃を与えたことで巻き起こったジャポニスム(日本趣味)の潮流、それに呼応して起こった日本側の動きなどを検証しようというのが、今回の企画展の趣旨でした。
 なぜフランス、とも思いますが、ジャポニスムの中心がフランスだったからでした。英国人やアメリカ人などアングロサクソン系の異国人が往々にして尊大な態度をとり続けたのに対し、フランス人はもっと好意的に日本の風物に接しています。王子近辺はその頃、江戸〜東京からほど近い手頃な行楽地として知られ、この地を訪れた異国人も多いのでした。
 フランス人が好意的であったのは、ひとつには、末期の徳川幕府がフランスを非常に重んじたという事情があったからかもしれません。最後の将軍徳川慶喜は、フランスかぶれと言われるほどにフランスを好み、新しく創設した幕軍の教練をフランス式でおこなったりしています。当然、フランス人の来訪者に対しても厚遇したことでしょう。
 明治政府もはじめはフランスを重んじました。それがのちになんでもドイツ式に切り替わったのは、普仏戦争の影響が大きかったようです。当時、ナポレオンの作ったフランス軍は世界最強と思われており、だからこそ日本人も手本にしていたわけですが、それがビスマルクのプロイセン軍に手もなく惨敗したのを見て、日本はたちまち転向してドイツを手本と仰ぐようになったのでした。その頃の日本のフランスびいきは、決して情緒的なものではなくて、きわめて功利的な理由によるものであったことがよくわかります。
 しかし、厚遇されたという経験だけ持って帰国した旅客たちは、もちろん日本に対して好印象を持ち続けます。いくつかの紀行文が展示されていましたが、いずれも、日本人からすると面映ゆくなるような讃辞が並んでいます。
 彼らが主に男であった以上やむを得ぬことですが、とりわけ日本女性の素晴らしさについての記述が目立ちました。「彼女らの肌は、少なくとも若い頃は、伝え聞いたような黄色などではない」などと大まじめに記している者も居ます。
 そういえば、日本人が「黄色」だというのは誰が言い出したのでしょうか。戦国時代に日本を訪れた宣教師や商人などの記録には、日本人の肌は「白い」、という記述がむしろ多いのです。モンゴロイドの一派であるなどという近代の「人類学的知見」を外して虚心に眺めれば、「黄色い」日本人などはほとんど存在しないような気がします。
 むろん、西洋語の「黄色」の指す色彩域は、日本語のそれよりもはるかに広いものです。例えばフランス語のjauneは、薬壜のような、われわれから見ると明らかに「茶色」と判断される色までを含んでいます。ジョルジュ・シメノンメグレ警視シリーズの名作に、「黄色い犬 Le chien jaune」というのがありますが、犬の色を奇異に感じる必要はないのであって、日本人が見れば「茶色い犬」「褐色の犬」と表現されるであろう犬であるに過ぎません。
 そういうことを考慮に入れてもなお、日本人の肌が「黄色い」という感覚には首を傾げたくなるものがあります。

 説明板には、日仏両語で説明が記されているところがいくつかありましたが、「ゆかしくカワイイ」の部分にあたるフランス語は「gracieuse et mignon」となっていました。ミニョンのほうは「カワイイ」でまあ良いと思いますが、グラシューズというのは「優雅な」「優美な」という意味合いであって、「ゆかしい」という日本語に含まれる「謙虚さ」「懐かしさ」というニュアンスは訳しきれていないように思われます。つまりフランス語には「ゆかしい」にジャストヒットするような単語が無いわけです。そもそもそういう概念が無いということにほかなりません。翻訳というのは厄介なものですが、とりわけ感覚をあらわす形容詞や副詞に関しては難しいようです。
 それについて、こんなことも思い出しました。中国から日本に帰化した石平氏が書いていたことですが、孔子がやかましく言い続けた「仁」という概念が、後世の中国ではほとんど理解不能なものになっていたというのです。いろんな学者が、誇張でなく百万言を費やして「仁」を定義しようとしましたが、ぴったりくる説明がどうしてもできないということでした。石平氏もそれで悩んでいたところ、日本語の勉強をはじめてみると、「やさしさ」という言葉で「仁」のすべての意味合いが過不足無く表されることを知って茫然自失したと言います。「仁」の概念は現代中国には伝わらず、日本に伝わって、しかも古語としてではなく普通に現代人の感覚として残っていたのでした。なお日中辞典では、「やさしさ」という日本語の単語に対し、ぴたりと一言で対応する中国語の単語が無く、やたらと説明が長くなっているそうです。現代中国人には、日本語の「やさしさ」に相当する感覚、概念が存在しないということになります。
 そこで話を戻しますが、「ゆかしい」という感覚や概念は、いったい現代日本人にちゃんと伝わっているのかどうか、少々心許ない気がしてなりません。派生語である「おくゆかしい」はちょくちょく使われますが、その他には、薪能(たきぎのう)だとか流鏑馬(やぶさめ)だとかの伝統行事がおこなわれる際に、ニュースなどで「古式ゆかしい」という常套句が使われているのがほとんど唯一の使用例ではないでしょうか。殺伐とした事件の報道や、モンスターペアレントだのモンスタークライアントだのの話を聞くにつれ、現代の日本人は「ゆかしさ」という感覚を理解できなくなっているのではないかと危惧せざるを得ません。日本語の形容詞の中でもとりわけ美しい言葉だと思うので、その表す感覚・概念ともども、廃れさせたくないと念じるばかりです。
 その点、幕末から明治初期の日本人には、あふれるほどの「ゆかしさ」がありました。それに惹かれるあまり、日本に帰化してしまったモラエスハーン小泉八雲)などの異邦人たちも居ます。数週間滞在しただけの旅人たちも、「ゆかしさ」への感激を持って帰って行ったとおぼしいのです。そして称賛に満ちた文章を書き、彼らの持ち帰った土産物の包装紙に使われていた浮世絵が、ヨーロッパの芸術界を震撼させたのでした。ゴッホなどがほとんど浮世絵そのままの絵を描いたのは、その衝撃がいかに大きかったかの証拠となるでしょう。

 もっともジャポニスムというのは、西洋人が一方的に日本を「発見」しただけではなかったようです。日本人の側も、そういう向こうの嗜好に応えて、ぶっちゃけて言えば「西洋人たちはこういうものが好きなんだろう」と見越して多くの品を制作し輸出するという一面があったのでした。今回展示されていた中でも、極端な浮き彫りを多用した「墨田焼き」という陶芸品などは、いささか西洋人の好みに迎合しすぎている観があり、われわれから見るとむしろ悪趣味と感じられるのではないでしょうか。
 その辺を指摘していたのが、今回の企画展の重要なメッセージであったように思われます。
 展示の終わりのほうに、現代の、いわばネオジャポニスムとでも言うべき、日本のオタク文化の受容について触れられていました。それははたして「ゆかしい」のかどうかは限りなく疑問ですが、「カワイイ」のは確かでしょう。なお日本でオタク(ヲタク)というと軽蔑をおびた否定的なニュアンスが大半を占めますが、フランスでOtakuというと、尊敬まではされないまでも、深い知識を備えた人物としてのポジティブなイメージが強いそうです。
 ゴスロリなどのファッションはパリでも日常的なものになっているようですし、萌え絵の描きかたを手ほどきした本なども堂々と刊行されています。ボーカロイドなども人気があって、初音ミクなどはもはや常識、最新版の巡音ルカまでが普通に登場しているのでした。
 そうしたものは、本来日本人が日本人自身の愉しみのために開発したアイテムに過ぎなかったのが海外で熱狂的な支持を受けているというあたり、幕末から明治初期にかけての現象と非常によく似ています。その一方で、墨田焼きのような迎合的なもの、「おまえらはこんなのが好きなんだろ?」的な発信もおこなわれつつあります。村上隆氏の造形作品などが典型的な例でしょう。オタク文化の上っ面だけをすくいとって「アート」と称していると、村上氏はさんざん叩かれてもいますが、ある意味では150年前と同じようなことをしていると言えるのかもしれません。

 無料にしては、たいへん濃い内容の企画展でした。マダムも堪能した様子です。
 最初に書いたとおり、三館共通入場券は3ヶ月有効だと知ったので、企画展を見終わってから購入しました。時間的に、もうひとつくらいしか観る余裕はなさそうです。
 隣の「紙の博物館」で、故吉澤章氏の創作折り紙作品展をやっていて、マダムがそれも観たいというので、飛鳥山博物館を出ました。こちらの企画展は、3階のかなり奥まったあたりで開催していたので、流れで常設展示もひととおり見学しました。製紙会社の新入社員研修らしきことをやっていて、スーツ姿の若者たちが老学芸員に引率されて説明を受けていました。こちらもこちらで面白かったし、折り紙展は目を見張るような素晴らしいものだったのですが、詳しく書き始めると終わらなくなるので、割愛いたします。
 紙の博物館を観終わった頃に、閉館の音楽が流れ始めました。残りの2館は、また日をあらためて行ってみようと思っています。

(2013.4.12.)

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