忘れ得ぬことどもII

震災二年

 また3月11日がやってきました。メディアも震災がらみの記事・番組が目白押しです。
 記憶を薄れさせてはいけないということかもしれませんが、あまりそれ一色になっていると、私のようなアマノジャクはちょっと食傷気味になってきます。何しろ被災地の復興はちっともらちがあかない状態が続いており、決して「終わった事件」ではありません。現在進行形でなんとかしなければならないところへ、年1回だけメディアがスポットライトを当てるのは、かえって他の期間への意識が覆い隠されるようで、不適当なのではないかという気がしてしまいます。むしろ帯番組にでもして、毎日どこかの様子を映し出すなどとしたほうがまだマシなのではないでしょうか。
 まる2年経ってもいっこうに復興が進んでいないというのは、わが国としては驚くべき遅滞であるように思えます。日本という国は、これをやらなければならないというコンセンサスが出来上がると、雪崩を打つようにみんながそちらへ向かって走り出すのが常で、普通なら復興にそう何年もかかるはずは無いのです。民主党政権の無策のせいにすることは簡単ですが、それだけではないでしょう。官僚機構が老化、硬直化して、機敏な施策がとれなくなっているのが主な原因とは言えないでしょうか。そうだとすると現体制(政権ではなく、現在の統治機構そのもの)の亡びも近いと言えそうです。
 何しろゴミ=瓦礫を片づけないことには、何を計画するにしても話がはじまらないわけですが、そのゴミの片づけかたさえメドが立っていない状況です。

 なんでも、瓦礫の処理を受け容れてくれるところがちっとも増えないので、自治体が受け容れるかどうか検討するだけでも、その成否にかかわらず復興予算から補助金を出すというばかな宣言を政府が出してしまっていたそうです。こういうあとさき考えない施策は、もちろん民主党政権の時期のことです。
 その結果、大阪の堺市が、結局受け容れないことになったのに86億円も受け取ることになったと話題になっていました。堺市は新しいゴミ処理施設の建設を予定していて、もともと40億円を国からの交付金で賄い、46億円を地元負担としていたのですが、瓦礫受け容れの検討をおこなったということで、その46億円も復興予算の枠でいただいてしまうことにしたとか。
 誰が考えても、これは変な話だと思いますし、市議会でも疑問の声が上がったようですが、市長は「財源の確保は首長の責務。ありがたくいただきたい」と答弁した由。
 記事には、同じように交付を受けた自治体として、私の住んでいる川口市の名前も上がっており、ひとごととは思えません。川口市が結局瓦礫の受け容れを承知したのか断ったのか、その点については記事に書いていないので、自分の住んでいる町がけしからん真似をしたのかどうかはまだわかりませんが、貰った以上はしっかり受け容れて欲しいものだと思います。川口市は高性能の焼却装置を自慢にしているのですから、こういう時に世の中の役に立てれば、住民としても鼻が高いというものです。堺市も、新造成ったゴミ処理施設で瓦礫を鮮やかに処理して、施設の優秀さをアピールすれば良いのにと、老婆心ながら考えたりします。
 瓦礫の受け容れがなかなか進まないのは、福島原発事故の放射線を懸念してのことでしょう。原発事故で流出した放射性物質など、重い元素が多いので、昨今のPm2.5などとは違い、そうそう風に乗って広域に拡がってしまうなどというものではありません。福島県の瓦礫はちょっと……と思っても、宮城県・岩手県のそれらに関しては別に問題は無いはずです。どこの海岸の瓦礫にどのくらいの放射線量があるのかということを、学術的にきちんと検証していないのが、まずもって信じがたい疎漏と言わざるを得ません。それとも測定はしたけれども風評被害をおもんぱかって結果を発表していないとでも言うのでしょうか。
 まあいずれにしろ、原発事故が無ければ瓦礫処理がこれだけ遅れることも無かっただろうと考えると、やはり東京電力の責任は重いようです。

 瓦礫が片づいたとしても、それはゴミを掃き出したというだけのことに過ぎず、復興はそこからようやく始まると言っても良いでしょう。
 復興という言葉は、関東大震災の時から言われ始めたことで、単なる復旧とは違うニュアンスが込められています。元に戻すという意味ではありません。
 関東大震災の時は、「大風呂敷」の異名で知られた後藤新平がほどなく復興院総裁に任命され、大規模な帝都改造計画を打ち上げました。後藤は大風呂敷ではありましたが、とにかく企画力のある政治家だったと思います。彼は思いきった区画整理、道路の拡幅、緑地帯の設置などを計画し、次の大地震があってもびくともしない都市造りをめざしました。予算の関係で、その計画はごくわずかな部分しか実現しませんでしたが、それでも銀座の大通りなどは後藤の遺産と呼ぶべき成果です。
 今回の震災で復興すべきは、都市もありますが、むしろ日本の海岸線をどう護るかという発想が必要になりそうです。ある意味では後藤新平以上の柔軟な構想力と企画力を持った人が音頭をとらないと、結局ちびちびと予算をつけながら、抜本的な対策など何ひとつおこなわれないままのただの復旧になってしまいかねません。私は石原慎太郎氏が、国会に復帰したりせず、平成の復興院総裁(?)に就任してくれれば良いと思っていたのですが、なかなか期待通りにはゆかないものです。

 後藤新平の構想は、実現した部分の何十倍も大がかりなものだったはずです。多くの人は、たぶん実現は無理ではないかと思いながらも、その構想に鼓舞され、元気が出てきたに違いありません。いま被災地に必要なのは、その元気ではないでしょうか。
 そういうことになると、役人というのはあんまり役に立ちません。実現不可能なことを言わないのが「良い役人」であって、人々に夢を見させるのは彼らの仕事ではありません。何か新しいことを提案しても、山のような「できない理由」を並べ立てるのが役人というものです。また、何かを進める際には、極力平等に、一律に、横並びでやりたがるのが彼らの習性です。「平等」や「一律」が図れない、という理由で実現していない事案や提案がどれほどあるものか、想像するだにうんざりします。別に一律でなくとも良いから、とにかく早くなんとかして貰いたいというのが、被災地の本音だと思いますが、官僚組織というのはそういう具合にできていません。
 関東大震災の後は、後藤の大風呂敷があっただけではなく、復興景気もすぐに訪れました。社会全体がまだ柔軟性や躍動性を失っていなかったのでしょう。
 それと対比できそうなのが、宝永の大地震です。元禄の好景気のあとに起こったこの大地震は、被害の範囲の大きさも、死者の数も、東日本大震災とよく似た規模でした。この時は引き続いて富士山の噴火なども起こり、18世紀はじめのことゆえ、人々はただ恐れおののくしかなかったことでしょう。幕府もなんら有効な対策を打てず、ただなんとなく「浮かれてはいられない」というような退嬰的な空気ばかりが世を覆い、日本は長い長い停滞期に入ってゆくことになります。
 復興が遅々として進まない東北地方の様子を見ていると、いまの日本は、関東大震災後よりも、宝永大地震後に似ているのではないかという危惧を覚えずにはいられません。杞憂であればよいのですが。

 あれだけの揺れにもかかわらず、地震で倒壊した家屋がほとんど無かった、という事実は、もっと世界的に宣伝しても良さそうな気がしています。日本の耐震建築のクオリティの高さが、事実をもって証明されたのです。倒壊した家屋は、そのほとんどが津波によるもので、これはまた別の話になります。
 地震の多い地域は他にもありますし、そういう国々に対して日本で培った耐震技術を提供すれば、今後どれほど多くの人命が救われることでしょうか。ビジネス的にも非常な可能性を秘めていると思います。しかし、それを他国に大いに売り込んでいるという話は聞きません。政府も企業も、何をやっているのかと不思議でなりません。
 震災後の被災地の人々の冷静な行動に世界中が驚愕しました。軽い窃盗くらいはありましたが、掠奪や強盗などがほとんど起こらなかったというのは、ちょっとした偉観だったわけです。こんなことも、普通の国だったらいくらでも外交上の武器にできるように思えます。日本人はつくづく自己宣伝が下手だと思わざるを得ません。良い意味でも悪い意味でも「職人気質」なところがあって、「そんなわざわざ、自分で自分の良いところを宣伝しなくても」とつい照れてしまうのかもしれませんが、もったいない話です。
 日本人は本来、「禍を転じて福と成す」ことが得意な民族であるはずで、いままでの歴史上幾度も変革を経験していますけれども、つねに「前の時代よりも幸せになった」と感じられる結果となっています。もちろん個人としては没落したり生命財産を失ったりして不幸に見舞われた人も少なくありませんが、トータルでは「前より良くなった」と感じる人のほうが多くなっています。その点、理想的な世の中をいつも太古の時代に求めている中国人などとはまるで異なるメンタリティを持っていると言えます。ベストでなくとも、わずかでもベターになればけっこう幸せを感じることができるという得な性格ということもできるかもしれません。そのわずかなベターを積み重ねてきた結果、どこよりも暮らしやすい社会を作ってしまいました。わずかなベターしか無いので、主観的には「まだまだ」と思えてしまい、国民の感じる幸福度は決して高くはないのですけれども、それでも「前の時代よりはまだマシか」と思う人が多いのは確かです。
 だから本当なら、もうそろそろ東日本大震災という禍を、福に転じようという動きが出てきても良さそうな頃なのです。それを阻んでいるのが何なのか、みんながじっくり考えるべき時に来ているように思えてなりません。

(2013.3.11.)

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