忘れ得ぬことどもII

「使わないための」軍備

 尖閣諸島をめぐる中国による領海侵犯も、ひとまず下火になってきたようです。大規模な反日デモ……というより暴動が駆けめぐり、一時は千隻の漁船が尖閣海域に向かうという話もありましたが、「デモ」は当局がひと声かけるとたちまち鎮まり、千隻の漁船もどこかへ散ってしまいました。要するに全部官製のお仕着せ行動であったことがはしなくも露呈したわけです。
 その後も国連で日本を「強盗」扱いして批難したりしましたが、珍しく日本側が負けておらずに2度も反論したため、向こうも意外だったらしく、最近はだいぶトーンが下がっている感じです。
 要するに、まだ実力をもって尖閣を奪うには時期尚早だと判断したのでしょう。諦めたわけでないのはもちろんです。さすがに南沙諸島で相手にしたフィリピンヴェトナムなどの東南アジア諸国に較べると、日本はまだ手強いと思われているようです。まあ、実際にはUSAが手強いと思われているのでしょうが。
 フィリピンなどは、米軍基地を追い出した途端にやられたのですから、その轍を踏むわけにはゆきません。USAとの同盟は堅持すべきでしょうし、いろいろ苦々しいことがあっても基地を無くすことはできないと思われます。

 純粋に軍事技術的に見れば、中国海軍よりはまだ日本の海上自衛隊のほうが強いという話も聞きますが、何しろ法整備ができていません。軍事力を行使するべき事態が発生した非常時の法律というものが無く、自衛隊を動かせるのは平時の法律だけです。ミサイルを相手艦に撃って沈没させたとして、その時に死者が出たら、撃った自衛官が殺人罪か業務上過失致死罪に問われるというばかなことになっています。中国軍はもちろん殺る気満々で攻めてくるはずですから、これではいかに強くとも両腕を縛られているようなもので、勝負になりません。
 少なくとも非常時対応の自衛隊法が整備されるまでは、USAと手を切るわけにはゆきません。鳩山氏の大ボケはもちろん、小沢一郎氏の「日米中正三角形論」も机上の空論であることがわかります。
 日本の政治家は、以上の事情をしっかりと国民に説明した上で、自衛隊の法整備や装備向上、そして米軍駐留についての理解を求めるべきなのですが、なかなかやろうとしません。民主党政府もさることながら、それ以前の自民党政府もほとんどやってきませんでした。
 まあ、少し前までは、そもそも軍事について論じること自体がヒンシュクを買うような状況でしたから、無理もありません。民主党のメンバーなどは、まさにそのヒンシュクしていた側に居た人が多いのですから、政権をとったところで急に考えが改まるわけはないのでした。

 鳩山氏が沖縄に行って、「米軍が抑止力になっていることがはじめてわかった」とボケた発言をして失笑を買ったのはまだ記憶に新しいところですが、これは必ずしも鳩山氏を笑って済ませられる問題ではないような気がします。
 「抑止力としての軍備」ということがわかっていないのではないかと思われる人は、まだ世の中にたくさん居そうです。「戦争を起こさないために軍備を整える必要がある」などと聞いても、なんだかうさんくさい、きなくさい印象を受けてしまう人が多いのではないでしょうか。軍備拡張論者の詭弁のようにさえ思えるかもしれません。われわれは戦後ずっと、そう思わされてきました。
 日本が少しでも軍事力を持てば、必ず戦争をおっぱじめると信じさせられてきたのです。それも滑稽な話ですが、もうひとつ、

 ──日本が戦争を始めさえしなければ、日本は決して戦争に巻き込まれない。

 という、どこから来たのかよくわからない信念を、大多数の国民が持っていた時代も長くありました。この東アジア地域で、戦争などというけしからぬことを始めるのは、根っから戦争好きで武器を持てばすぐ人殺しを始める悪者の日本の他にありようがなく、だから日本さえ戦争の手段である軍事力を持たなければ、東アジアに決して戦争は起こらない……と、いま思えば狂っているとしか考えられないような強固な「信仰」を、つい20年ほど前までは多くの人が持っていたものです。私自身も、多少の疑問符付きながら、漠然とそう思っていました。
 なぜそう思ってしまったのか、不思議でなりません。第二次大戦後、東アジアといえども決して平穏ではありませんでした。朝鮮戦争があり、ヴェトナム戦争がありました。このふたつについては、

 ──他の超大国の干渉によって起こった代理戦争に過ぎない。アジアの人たちは本当はみんな平和主義者のはずだ。悪いのはアメリカでありソ連なのだ。

 と言い訳もできましたが、中越戦争となるとその理屈は通らなくなります。なぜ共産圏同士の、しかもアジア同士の中国とヴェトナムが戦わなければならないのか、左翼系の論客はここで途端に歯切れが悪くなりました。というか、そもそも見て見ぬふりをしていた気配があります。
 国同士の戦争だけでなく、内戦もいやになるほどありましたし、カンボジアのような自国民の大量虐殺も起こっています。日本さえおとなしくしていれば何も起こらないなどと、どこを見ればそう信じられたのでしょうか。
 その頃の人々がバカばっかりだったなんてわけはありません。やはり情報経路が限られていたことが問題なのでしょう。当時、ほとんどの情報は新聞とテレビによって伝えられており、それ自体にバイアスがかかっているとは思いもよりませんでした。なにせ朝日新聞がクオリティ・ペーパーなどと呼ばれていた時代です。
 ネットの情報というのは玉石混淆であてにならないものも多いのですが、とにかく新聞やテレビの「嘘」が暴かれるようになったことだけは、無条件で支持したいところです。

 行き着くところ、非武装中立論なんてものがもてはやされたりしました。
 中立というのは難しいものです。対立する陣営のどちらからも敵と見なされることが珍しくなく、当然両方から恫喝や脅迫が寄せられるでしょう。
 中立を維持するためには、それらに屈せずはねのけられるだけの強大な「力」を持つ必要があります。中立国ということで「東洋のスイス」を目指そう、などという人が居ましたが、もちろんスイスはよく知られているように国民皆兵と言って良い体制であり、全家庭に武器が装備されています。また強力な金融力を、かなりえげつなく使うしたたかさも持っています。
 そういうことが知られるようになって、スイスを見習おうという人は減りました。要するに中立であっても、武装中立はダメで、非武装ということにしなければカッコ良くなかったわけです。
 もちろんその当時でも、
 「非武装にしてしまって、どこかの国に攻められたらどうするんだ?」
 と反論する人は居ました。その頃はソ連が想定されていました。すると非武装論者が決まって言うことには、
 「いったいどこの国が日本を攻めるというんです? 日本を攻める国なんかありっこないじゃないですか」
 私が非武装中立論なるものに見切りをつけたのは、あるテレビ番組でまさにこのやりとりがあり、「日本を攻める国なんかありっこない」と得々と答える非武装論者の、半ば「逝っちゃってる」眼を見た時でした。

 ──こりゃ、無理だろう。

 と直感してしまったのです。

 「攻められたらゲリラになって戦うから、自衛隊は要らない」
 などというお馬鹿さんもちょくちょく居ました。
 戦闘訓練を受けていない寄せ集めのゲリラなど、ものの役に立たないのは言うまでもありません。正規兵なら上官の言う通りに動いていればそれで良いのですが、非正規兵であるゲリラはみずから判断しなければならない場面が多く、正規の軍人よりはるかに戦術能力が必要になります。
 また、ゲリラは武運拙く敗れても、捕虜になる資格がありません。いや、捕まえられることはあるでしょうが、戦時国際法で定められた捕虜としての待遇を受ける資格がありません。
 正規の捕虜の扱いは非常に厳しく定められており、いささかなりとも虐待があったりしたら、あとで大変なことになります。しかし、ゲリラは正規の捕虜になれませんから、言ってみれば煮て食おうが焼いて食おうが相手の思うままということです。問答無用で銃殺されても、むごたらしく拷問されても、変な薬品の実験台にされても、どこにも文句をつける場所はないのです。
 また、ゲリラ戦をやられると、敵軍ははなはだしく神経質になります。靴磨きの少年や花売りの少女がいきなり爆弾を投げつけてきたり、民家の陰からいきなり狙撃されたりしますから、気が気ではありません。それで撤退してくれるなら良いのですが、そんなに甘い軍隊というのは滅多に無く、たいていは予防措置として村民皆殺しみたいな行動に出ます。もちろん罪の無い一般人が大量に巻き添えになります。ジェノサイドを惹き起こしやすいという点において、ゲリラは絶対にやってはいけないことなのです。

 さらに意気地無く、「攻められたらすぐ降伏すればいいじゃないか」という向きもあります。向きがあるだけでなく、いくつかの市町村は本気で「無防備都市宣言」を出したりしています。どこが攻めてこようが、手向かいせず降伏します、という宣言です。降伏するから殺さないでください、ということですね。
 一見、これは人が死なない良い方法であるように見えます。
 しかし、そうやって街を占領した敵軍が、現在の日本政府より寛容であるという保証はどこにもありません。いや、寛容だなどということはあり得ません。
 敵軍がなんのために街を占領するかと言えば、軍費や食糧などを確保したり、要塞化して軍事拠点とするためでしょう。当然、住民には重税がかけられますし、要塞工事には駆り出されますし、その工事のために土地は接収されますし、場合によっては徴兵されて前線に送り込まれることになります。
 ところで、無防備都市宣言をしたのはなんのためだったかと言えば、軍事費に充てられる税金を納めたくなかったり、徴兵される羽目になりたくなかったり、家を壊されたくなかったりするのが理由だったはずです。
 あれ?……ということになりますね。
 日本政府がやらなくとも、そういったことは占領軍が残らずやってくれることでしょう。敵に占領されるというのはそういうことです。

 無防備というわけではありませんが、「攻められたらすぐに降参すれば良い」という政策を国の方針として立てた例は歴史上にちゃんとあります。中国の春秋時代(てい)という国です。
 この国はいわゆる「中原」のど真ん中にあり、春秋時代初期にはずいぶん強勢を誇りました。当時の天下王朝であるの軍隊と戦争して堂々撃破するほどの強さでした。「春秋五覇」というのは桓公からはじまると言われていますが、鄭の荘公が最初の覇者であると主張する人も居ます。
 鄭は中国のいちばんおいしいところを領していただけに、生産力も高く、文化的にもすぐれていましたが、逆に言えばフロンティアが小さく、伸びしろがあまりありませんでした。そのうち、北に、南にという超大国が勃興して、鄭はその2大国にはさまれる位置となってしまいました。
 それこそ中立を保てるほどの強力な軍事力は持っておらず、その後の鄭は、晋か楚のどちらかについて保護を受ける立場となってしまいました。当然ながら、晋につけば楚に攻められ、楚につけば晋に攻められるのですから、心安まる時もありません。そして、晋と楚が戦う時には、鄭軍は必ず先鋒として駆り出され、多くの死傷者を出すことになりました。
 簡公の時の宰相職であった子駟(しし)は、これはたまらんというわけで、「とにかく攻められたらすぐ降伏しよう」という方針を採りました。晋軍が来れば晋に降伏し、楚軍が来れば楚に降伏します。そうすれば、とにかく人民の生命だけは損なわずに済むという判断でした。
 しかし当然ながら、鄭の国際的な信用はがた落ちとなりました。なんの信念もない日和見な国として、諸国から軽蔑されるようになったのでした。また、降伏するということはただ頭を下げるだけではありません。晋や楚のそこまでの軍費を弁償しなければなりませんし、貢ぎ物を捧げなければなりません。人命こそ損なわれませんでしたが、経済的な損害は甚大なものになりました。
 なおいけないことに、鄭の国民自身が、まったくやる気を無くしてしまいました。ほとんどモラルハザードのような状態に陥ってしまったのです。その結果、子駟は反対者のクーデターによりあっけなく暗殺されてしまいます。
 とはいえ、後継の宰相たちにもうまい案があるわけではありません。鄭はしばらく迷走を続けます。
 この迷走を断ち切り、鄭の国を建て直したのが、天才政治家と言われた子産でした。しかし、子産が再建に成功したのは、晋と楚が歴史的な和睦をおこない、その後南北戦争のようなものを起こさなくなったという国際関係の状況変化のおかげでした。晋と楚があいかわらず競り合っていたら、いかに子産といえどもどうしようもなかったことでしょう。
 ともあれ、「攻められたら降伏すれば良い」というのは、この鄭の道を選ぶということです。失われないのは人命だけで、あとは財産も、自由も、誇りも、外からの評判も、全部失くすことになります。こんな状態で生きてだけいることに、どれほどの意味があるのでしょう。

 最近はさすがに「日本を攻める国なんかありっこない」などとお花畑なことを言う人は少なくなりました。
 しかし、USAが守ってくれるのだから日本が軍備を拡張する必要はない、という意見の人はまだ少なからず居るようです。日本は軍備を持てば必ず戦争を始める好戦的な国だという固定観念が、まだどこかに残っているようです。
 近代になってから日本が遭遇した3つの大戦争が、いずれも受け身の形で始まったということを少しは考えるべきでしょう。どれも先制攻撃をかけているので、日本が好戦的だと思うのでしょうが、どうしても戦わなければならないのであれば緒戦でまずひっぱたいておくのが得策、という戦略によって先制攻撃をおこなったまでのことで、それまではぎりぎりの段階に至るまで戦争回避を試みています。
 戦争を避けようとするあまりに相手に譲歩を続けた結果、相手が余計かさにかかって要求をエスカレートさせ、こちらはもう譲歩の余地が無く戦わざるを得なくなった、というのが、日清・日露・第二次大戦に共通する開戦事情でした。
 「こちらが譲歩すれば、向こうも少しは手加減するだろう」という、国際場裡ではあまり通用しそうにない甘い見通しを、性懲りもなく何度でも持ち続けた外交音痴ぶりを批難すべきとはいえ、誰も好きこのんで戦争を始めたわけではないということは、史実として押さえておくべきところでしょう。
 戦後もその姿勢は変わっていません。こちらが譲歩すれば向こうも譲歩するだろうという見通しは、「三方一両損」の伝統のある日本人同士でしか通用しないということを、われわれはいつになったら学ぶのでしょうか。
 こちらに手を出したら痛い目を見るよ、と相手に思わせるのが抑止力というものです。抑止のために、つまり使わないために使う軍事費というのは、確かに無駄なように思えますが、使うはめになった時の国費の損失に較べれば微々たるものであるはずです。そういう大局的な議論を深める政治家を期待したいところです。

(2012.10.13.)

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