忘れ得ぬことどもII

楽譜とロシア語

 私のやっているいろいろな仕事のうち、移調譜作成というのは作業としては楽なほうです。元の譜面をそのままFinaleで打ち込み、移調機能を使えばほぼワンタッチで作業を終えることができます。
 ワンタッチで済まないことは当然あります。例えば調を変えたことで、臨時記号のシャープやフラットなどのつけかたが違ってくることもあります。特に「親切臨時記号」と呼ばれるものが要注意です。
 記譜法の規則として、臨時記号はその小節いっぱい有効で、次の小節になると効力が無くなるというルールにはなっていますが、実際に演奏しようとしてみると、うっかり見落としたりつけ忘れたりということがちょくちょく起こります。それをなるべく防ぐため、間違いやすいところに本当は必要の無い臨時記号を添えてあげるのが「親切臨時記号」です。これが、調によってはつけかたが変わってくることがあるのでした。
 調号が変わらないのに実際にはずいぶん遠い調へ転調している曲なども、移調機能で済ませるわけにはゆかない場合があります。ダブルシャープ、ダブルフラットと言った、見慣れない臨時記号が次から次へと出てきかねません。私の経験だと、ピアノを弾いていてひとつの和音にダブルシャープやダブルフラットがひとつだけ含まれている分にはなんとか対応できますが、ひとつの和音にふたつ以上ついていると、ちょっと考えてみないと正しい音を弾けなさそうです。これらが多用された楽譜は実に読みにくくなるので、そういう場合は異名同音を使って書き直す必要があります。

 そんなことはままあるとはいえ、私にとってそれほど大変な作業ではないので、Music Shopでも1ページ千円くらいで手軽に引き受けています。けっこう利用者も多く、常連的にしょっちゅう頼んできてくださるお客様もおられます。
 頼まれるのは、今のところ歌の曲がほとんどです。元譜がC管というマイナーな調律で書かれているクラリネットのパート譜を、現代では標準となっているB管やA管用に移す、というのはやったことがありますが、おおむね器楽では移調ということをする必要があまり無いと言えましょう。
 その点、歌のほうは融通無碍というか、元の曲のキーを自在に動かして歌うことがよくあります。ある曲を歌いたいんだけど音域が合わない、という場合、歌い手はその曲を諦めるということはせず、曲のキーを変えて歌おうとするのです。さすがにオペラのアリアなどではそういうことをすることは少ないようですが、歌曲などではごく普通におこなわれています。初級者がよく使うイタリア歌曲集などでも、高声用、中声用、低声用がそれぞれ市販されており、同じ曲が違う調で収録されています。

 ──それはおかしい。作曲者ははっきりした意図があってその調を選んでいるのだから、歌い手が勝手に変えて良いものではない。

 と厳しいことを言う人が居ないわけでもないのですが、あまり大きな声にはなりません。私の思うに、シューベルトはまだ良いとして、シューマンなどはかなり意識的に調を決めているように思われるので、変えないほうが良いのではないかという気もします。しかし、歌の先生は弟子の声域が曲に適わないと見るや、いとも簡単に「もう少し下げなさい」と言ったりするようです。
 そういうわけで、歌曲の移調依頼は断然多いのでした。歌うだけなら譜面を作らなくとも良いのですが、歌にはたいていピアノ伴奏がついており、伴奏者に「下げて」と言ってもそう簡単に対応できないことがあります。ヘ長調の譜面を見てすぐさまニ長調で弾けるようなピアニストはごく限られており、たいていの場合は移調した譜面を要求されることになります。
 以前は、歌い手自身が四苦八苦して移調譜を手書きすることもよくありました。作曲家と違って、演奏家は譜面を書くのにそれほど馴れていない場合があるので、これがかなりの重労働だったようです。1ページ千円で済むならプロに頼んでしまおう、と思う人がけっこう居る程度には大変だったのでしょう。

 歌曲というのはそんなに長くない場合が多いので、1ページ千円で受けても、大した収入にはなりません。まあ小遣い稼ぎといったところで、私の手間の面から言ってもまさに小遣い稼ぎ並みと言って良いと思います。まあ、片手間にできるという感じです。
 ところが、意外な落とし穴があることに昨日気づきました。
 頼まれた歌曲は、ムソルグスキー『死の歌と踊り』という曲集の中の1曲でした。
 曲そのものもなかなか一筋縄ではゆかない譜面です。変ホ短調という、フラットが6つほどついている部分から始まり、調号の無い部分を経て、ニ短調で終わっています。これを、依頼者の希望するように移調するには、5度ばかり下げる必要がありました。調を5度下げるというのは、シャープ系ならひとつシャープが減り、フラット系ならひとつ増えるということに相当します。ところが、すでに6つのフラットがついている調を7つにするのは、譜面の見た目が大変複雑になります。フラット7つの調、つまり変イ短調というのは実例もありますが、かなり特殊であることは否定できません。
 だからここは異名同音を利用し、変イ短調と同じ音階になる、嬰ト短調というシャープ5つの調に移すことにします。
 中間部の、調号の無い部分は、ハ長調とかイ短調とかいうことではなくて、要するに調が定まらなくて調号をつけようがないので無くしてあるだけのことです。機械的に移調するとフラットひとつの調(ヘ長調かニ短調)になってしまいますが、ここは移調譜でも調号を無くしておくのが妥当でしょう。こうなると、冒頭に述べた臨時記号の問題が、けっこう注意深さを必要とする事態になります。
 まあそんなこんなで、いつもの調子よりは頭を使いました。
 それに5度も下げると、ピアノ伴奏も少しいじったほうが良いところが出てきます。低すぎて響きが悪いだけならまだしも、そもそもピアノに存在しない鍵盤を要する箇所もあったので、そういうところは1オクターブ上げたりします。ずっと上げっぱなしだとこれまた不都合ですので、上げるところと下げるところを按配よく決め、その移行に無理がないようにしなければなりません。
 が、まあそれも、著しく大変な作業というわけではありません。
 問題は、歌詞を入力する時に起こりました。

 ムソルグスキーはロシア人ですし、この曲の歌詞も当然ロシア語です。
 そしてロシア語と言えば、そう、キリル文字です。
 これが厄介なのでした。
 Finaleというソフトは、楽譜を作成するには至れり尽くせりなのですが、文字入力についてはややお粗末なところがあります。日本語・英語は問題ないのですけれども、フランス語やイタリア語、ドイツ語を入力しようとすると、アクセントやウムラウトを伴った文字の入力に困ることになります。楽語としてかなり頻繁に使う「Più」(イタリア語で「もっと」)という言葉がありますが、このuの上のアクセントをつけるために、ちょっと面倒くさい操作を必要とします。
 ましてやキリル文字などには、まったく対応していないと言って良いでしょう。
 イタリア語などの歌詞を入力する際、アクセントのついた文字が出てくると、ATOKの文字パレットからその都度貼り付けています(しかも文字パレットの「確定」コマンドでは出てくれず、いちいちコピーとペーストをしなければなりません)。
 キリル文字もそれをやるしかありません。しかし、欧文コードから貼り付けてみると、見事に文字化けし、何が何やらわからなくなりました。
 和文コードにもキリル文字は含まれています。フォントをMS明朝にし、和文のキリル文字を貼り付けたところ、今度は大丈夫でしたが、あいにくと全角文字であるため、やたらと横幅をとります。譜面の体裁がだいぶ悪くなりそうです。
 それにしても、一文字一文字貼り付けなければならない面倒さは筆舌に尽くしがたいものがあります。昔の植字工なんかはこんな気分だったのかと思いつつ、かなり長い歌詞を綴ってゆきました。
 もともと馴染みのないキリル文字ですが、活字にした場合に形の似た文字が多いのも難関です。лпъьшщなど、元譜の細かい活字で、しかもコピーのため不鮮明だったりするので、何度も見直さなければならず、少々眼がしょぼくなってきている私にはしんどいものがありました。しょっちゅう登場するниも、手書きなら間違えようもありませんが、活字になるとそれぞれの横棒・斜め棒が細線になるので、目立つのは縦の2本棒だけとなり、時々迷いました。
 ちなみにнはローマ字のHに似ていますが、エヌと読み、当然ながらNに相当する文字です。そのNに似ているиのほうは、イーと読み、Iに相当します。母音ですから実にしばしば出てきます。
 何年か前にロシア旅行をして、ある程度キリル文字にも接していたから、まだ良かったと言えます。ひとつの音符に当たっている文字列の中に、少なくともひとつは母音字があることになり、それを手がかりにしてゆけば、ある程度間違いを防ぐことができます。母音字も子音字もわからない状態だったら、手に負えないところだったでしょう。
 何時間も文字の貼り付け作業をやっていたら、クリックのしすぎで肩は凝ってくるし、眼はかすんでくるし、しまいには頭がクラッときて、これはやばいと思いましたが、なんとか終えられました。
 楽譜の歌詞としては、やはり全角文字のため字間が空きすぎて、いささか見づらいようです。ロシア歌曲の譜面作成は体裁が悪くなる、とMusic Shopに注記しておいたほうが良いかもしれないと思いました。
 ネットで調べてみたら、やっぱりfinaleで半角キリル文字が使えないことに憤慨している人が居たので、苦笑してしまいました。
 キリル文字の歌詞を貼り付けてゆくのでは、1ページ千円ではとても引き合わないようでもあります。と言ってこの譜面の体裁の悪さでは、別料金を取るのも申し訳ない気がするし、どうにも悩ましい状態です。最近の流行語で言うならば、まさに「想定外」でした。

(2012.4.13.)

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