忘れ得ぬことどもII

NHKドラマ『坂の上の雲』

I

 今年(2011年)もNHKで『坂の上の雲』が始まりました。日曜は出かけていたので、録画した物を今朝になって見ることができました。
 日曜夜の大河ドラマを早めに切り上げて、年末近くになってからスペシャルドラマとして放映することを3年かけておこなうという、珍しい方式の作り方になっています。今年はいよいよ最終シーズンということになります。
 主題歌がだんだん手の込んだ形になってきているのが面白く思いました。最初の年はヴォカリーズ(母音唱)だけの独唱で、2年目は歌詞がついた独唱となり、今年はさらに合唱の加わったアレンジとなっています。それぞれのヴァージョンがいつ作られたのか、少々興味のあるところではあります。最初から3パターン作ってあったのか、それともこちらも3年かけてアレンジし直してきたのか……
 ともあれ、じっくり時間をかけて制作したドラマであることは確かでしょう。最近は大河ドラマでも、室内劇の部分が多くなって、時間も予算もケチっているなあと思うことがしばしばですが、その点ではずいぶんとしっかり作られていると思います。

 『坂の上の雲』は言うまでもなく司馬遼太郎の畢生の作品で、氏は40代のほとんどをこの作品に費やしたそうです。
 日露戦争を扱ったこの物語は、最初は秋山好古真之兄弟と正岡子規という、明治期を生きた3人の人物に焦点を当てた小説として書かれはじめましたが、次第にそれだけではおさまらなくなり、小説の枠を超えた一種の叙事詩として拡がってゆきました。作者自身も途中から、

 ──小説でも史伝でもない。ただの書き物だ。

 と言い出しました。
 戦国期や幕末期と違って、明治期の軍人というのは言ってみれば「軍事官僚」です。戦国大名とか幕末志士といった「個人」の思想や行動が戦争や歴史を動かしてゆくという色合いが、当然ながらきわめて薄いため、秋山真之がいかに天才的な戦術家であったとしても、一軍事官僚に過ぎない彼個人を描くだけでは、日露戦争全体を俯瞰することはできなかったと言うべきでしょう。
 叙述の中心は、3人の若者たちから、もっと上部で戦争指揮をおこなっていた児玉源太郎などに移ってゆきますが、後半はそれもまた点景に過ぎなくなり、まさに「戦争」自体が主人公、と呼ばざるを得ないような内容になります。その点では、ナポレオン戦争の全象を描ききったトルストイ『戦争と平和』と双璧を成す文学作品になり得ていると思います。
 それまでの日露戦争ものの文学作品と違うところは、ロシア側の史料をも大量に渉猟していたところでしょう。双方の長所短所を容赦なく活写しつつ、決して熱がこもりすぎずにある意味坦々と叙述を続けてゆく有様は、敏腕新聞記者上がりならではの執筆態度と言えるでしょう。事実、『坂の上の雲』は、歴史や戦争を描くにあたってジャーナリスティックな視点を持ち込んだという点で、わが国の歴史文学に画期をもたらしたと評価されています。

 またもちろん、戦前はすべてが暗黒で悪意に満ちた時代であった、日清戦争も日露戦争も日本の帝国主義的な侵略行為であった、と必要以上に自虐的になっていた戦後日本人に、自信を取り戻させた作品であったことも見逃せません。
 変に煽るような文章でなく、本当に透明感のある坦々とした文章で書かれていたのが、かえって良かったと思います。日本軍の良かったところも公平に書いているので、一時期「右翼御用達」みたいに言われたこともあるようですが、今ではそんなことを言う人の品性のほうが疑われるようになりました。

 影響力が大きかった作品なので、当然ながらアンチも少なくはありません。司馬氏が亡くなって間もなく、何冊か反論本みたいなものが出たのを書店でざっと立ち読みしたことがありますが、おおむね枝葉末節の事実誤認を指摘している程度のことのようで、この作品の価値を否定し去るほど納得できる反論にはまだお目にかかりません。
 例えば、司馬氏は乃木希典という人物についてかなり辛い評価を下していますが、それについて、
 「乃木が何度も自殺的にさえ見える旅順総攻撃をおこなったのには、それなりの理由がある。犠牲は大きかったが、あの攻撃があったからこそ旅順は落とせたのだ」
 というような反論を読んだことがあります。これなどは見当はずれの見本のようなもので、「旅順は別に落とす必要は無かった」というのが司馬氏の作戦評価だったのですから、そもそも議論が咬み合ってさえいません。
 日露戦争前の陸軍も、旅順は落とす必要が無いという前提で作戦を立てていました。ただ旅順港に逃げ込んだロシア艦隊を掃討しなければならなかったため、港を見下ろせる高地(これが203高地でした)を奪取して、そこから大砲を撃ち込んで艦船を沈めて貰いたい、という要望が海軍から出されたので、急に旅順を攻めることになったわけです。
 当初は203高地の防備は薄かったので(後ではロシア側も203高地の重要性に気がつき防備を厚くしましたが)、そこに全兵力を集中すれば奪取は容易だったし、あわてたロシア軍の攻撃を寄せ付けない陣地を構築するのも簡単だったでしょう。そこから旅順艦隊を沈め、沈めたあとは最初の戦略どおりに、旅順要塞からの出撃を抑えるだけの防衛線だけ残してとっとと満洲方面軍に合流すればそれで済んだはずです。旅順攻めに使われていた兵力と火力が大部分加わっていれば、遼陽会戦奉天会戦も史実よりだいぶ楽になっていたことでしょう。
 それが、何がなんでも旅順要塞を落とすという作戦になってしまったのは、ありていに言えば陸軍のメンツの問題であって、そのために何万という死傷者を出したということについて司馬氏は批判しているわけです。それを「落とすためにはあの攻撃が必要だった」などと言ってみたところで、反論にもなっていないのは明らかでしょう。

 個々の人物の描かれかたが一面的だという批判もあります。確かに乃木軍の参謀長であった伊地知幸介などは、これでもかというほど頑迷固陋で無能な人物にされていて、まだ子孫なども現存しているでしょうから、そういう人たちにとって面白くはないかもしれません。
 が、これはまあ文芸作品としての宿命というものでしょう。人物によって彫琢に差があるのは仕方がありません。脇役全員に公平な扱いをするのは無理というものです。作者自身が述べていたように、これは史伝ではないのですから。
 文芸作品の価値は、いかに「事実」を伝えるかというところにはありません。いかに読者の心にくっきりとしたイメージを映し出すことができるかが問題なのであって、『坂の上の雲』は明治という時代、日露戦争という事件の全体的なイメージを、どんな解説書や戦史にも増して明確に描き出してくれました。その意味での価値を否定することは、おそらく誰にもできないだろうと確信しています。 

 司馬遼太郎の作品は、その多くが映像化されています。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『花神』『最後の将軍』『翔ぶが如く』『功名が辻』はNHK大河ドラマになっていますし(大河ドラマの原作者としては最多です。なお『最後の将軍』はドラマのタイトルは『徳川慶喜』で、他のいくつかの作品も原作として使われています)『梟の城』『風神の門』といった忍者小説から、『燃えよ剣』『新選組血風録』などの幕末もの、『菜の花の沖』のような少々地味めの作品も連続ドラマや映画になっています。単発ドラマなどではもっといろいろ使われているでしょう。
 当然『坂の上の雲』も、生前映像化のオファーはあったのではないかと思いますが、司馬氏は全部断っていたという話です。日本海海戦を映像化することに危惧があったのだと聞いたことがありますが、本当かどうかは知りません。
 司馬氏が亡くなって15年以上経ち、CG技術の進歩もあって、おそらく戦闘シーンは迫力ある画像を作り得るのではないかと思います。ただ、司馬ファンとしては別の危惧がありました。
 NHKがはたして、司馬氏の意図するところをちゃんと汲み取ったドラマ作りをしてくれるかどうか、そこがいちばん心配なところでした。
 というのは、最近のNHKは、韓国の(かなり偏った)史観をほぼ無批判に垂れ流すかのようなドキュメンタリー番組をしばしば作っており、従来にも増して自虐的になっているように見えるからです。そういえば大河ドラマでも、豊臣秀吉が肯定的に描かれることがほとんどなくなりました。台湾における日本人を悪しざまに描こうとするあまりに、台湾人をも侮辱するような内容の番組を作って訴えられたのも記憶に新しいところです。
 どうしてそんなことになってしまったのかよくわからないのですが、相当反日的なスタンスのプロデューサーが少なからず入り込んでいるのは確かでしょう。もちろんそんな人たちばかりではないと信じたいところですが。
 今までのところ、日清戦争関連のくだりで、森本レオ演じる何やらえらく横柄な軍人が出てきて、清国人たちや従軍記者に威張り散らしているというシーンがネットで話題になっています。
 そんな軍人が当時皆無であったとは言いませんが、当時の日本の軍人の規律正しさ、清廉さについては各国の無数の証言があることでもあり、何より原作には一行も無いシーンであり、挿入する意味がまるで感じられないエピソードでした。日本軍が横暴だったということを言いたいがためだけの、NHK側の都合による脚色としか思えません。
 ロシア側は原作より良く描かれているようです。原作とて、ロシア側を大変公平に、良いところは良いところとして書いてあるのですが、ドラマを見ていると、皇帝も、皇妃も、宮廷人たちも、いずれも物分かりがよく穏和な人物ばかりになっており、なんでこんな好い人揃いのロシア宮廷が革命で斃されなければならなかったのか理解できなくなりそうなほどです。
 やはりある程度のバイアスがかかってしまっているような気がします。

 原作でいちばん愉快だったのが、ロジェストウェンスキー提督率いるバルチック艦隊の航海記にあたるところでした。司馬氏はこの部分、従軍技師の手紙や、一海兵として従軍していたプリボイ「ツシマ」などを参考に、かなり戯画的に書いています。作者も愉しんでいたのではないかと思えるほどです。
 高圧的ですぐかんしゃくを起こし、小役人根性の権化とも言うべきロジェストウェンスキーが、読んでいるうちになんとも愛すべき存在に思えてきます。
 ドラマでは、今週の回の末尾で、いよいよバルチック艦隊が出航しました。これから最終回の日本海海戦に向けて、少しずつ航海のエピソードも描かれてゆくのでしょうが、ロシア側を原作以上に美化しているこのドラマにおいて、ロジェストウェンスキーのこういう性格がちゃんと顕れてくるのかどうか、少々の心許なさを感じながら、楽しみにしていたいと思う次第です。

(2011.12.7.)

II

 NHKドラマ『坂の上の雲』の第3シーズンが完結しましたので、とりあえず視聴後感も書いておきます。
 ロジェストウェンスキー提督率いるバルチック艦隊の航海記の部分が、原作でいちばん愉快だったということに触れましたが、遺憾ながらドラマではほとんどノータッチでした。ここを描かないでどうするんだとさえ思えるのですが、出航シーンのあとは、マダガスカルノシベ港で足止めを食っているシーンがワンカット挿入されただけで、次にはもう日本近海まで来てしまっていました。
 当然ながら、ロジェストウェンスキーの性格などもほとんど描かれていません。記号的な敵将としてしか登場していなかったと言えるでしょう。
 司馬遼太郎がバルチック艦隊航海記をかなりの紙数を費やして詳細に書いたのは、この地球を半周するような航海そのものが、おおげさに言えば文明史的な出来事であったと感じたからでしょうが、当時日本と同盟していた英国が、実に効果的にバルチック艦隊にいやがらせをしていたという点を見落としたくなかったという点もあったと思います。
 英国は、きわめて誠実に同盟国としての実を果たしました。自国の植民地に属する港湾からバルチック艦隊を締め出したのはもちろん、他国の植民地の港湾であっても、なかば恫喝して艦隊への冷遇を強いました。ロシアに比較的好意的だったのはドイツですが、後発帝国であったドイツにはさほど多くの植民地はありませんでした。バルチック艦隊は、設備の整った港に停泊することがほとんどできず、上質の石炭も仕入れられず、食糧の補給さえ不自由な状態でアフリカを4分の3周し、インド洋を突っ切り、日本海を目指したのでした。このとき英国が尽力してくれなかったら、バルチック艦隊はあれほどよぼよぼな状態で対馬海峡を通過することもなく、戦艦・巡洋艦の何隻かは日本軍の追尾を振り切ってウラジオストックまで逃げ延びたかもしれません。
 絶え間なくそんないやがらせを受け続ければ、ロシア側に厭戦気分が出てきても仕方がありませんし、ロジェストウェンスキーが怒ってばかりいたのもやむを得ないというものです。仮にもNHKが映像化するのであれば、そこまで描写して欲しかったと思うのですが、多くを望みすぎでしょうか。
 確か、日英同盟を結ぶまでの経緯は、かなり細かく描いていたように記憶しています。戦争の描写が始まると、英国などいちども出てこなくなってしまったのは、何やら龍頭蛇尾の観があるようです。

 そういえば、ロシア側の描写は、ロジェストウェンスキーに限らず、戦争が始まってしまってからは極端に少なくなったような気がします。戦前の宮廷の様子などはずいぶんシーンが宛てられていたのですが。
 旅順の司令官であったステッセルも、野戦軍司令官であったクロパトキンも、ほんの時々出てきて命令を下すだけの存在でした。
 乃木希典とステッセルのいわゆる「水師営の会見」などは、小学唱歌になったほどの名場面なのに、かけらも出てきませんでした。まあこれについては、司馬氏の原作でもわりと淡泊な触れかたしかしていませんでしたが、小説が発表された当時は、ある程度以上の年齢層の大人なら誰でも知っている場面であったがゆえに、あえてさらりと触れるにとどめていたものと思われます。しかし、現在「水師営の会見」など知っている人がどのくらい居ることでしょう。
 また、クロパトキンの異常とも思える行動、ほとんど勝ちかけていたのに急に奉天から撤退するという動きについては、クロパトキンの性格を考慮しないとわかりづらく、その性格を視聴者に納得させるためには事前に彼の出てくるシーンを積み重ねておく必要があったと思われますが、それがほとんど無かったため、ただの無能将軍に見えるはめになってしまいました。
 実際にはクロパトキンは、その当時世界でも屈指の秀才将軍でした。机上の戦術家としては、日本軍の誰よりもすぐれていたことでしょう。ただ、いかんせん実戦経験に乏しく、実際の戦闘において発生する不測の事態に対応しきれず、自分の想定と違うことが起きると安易に後退戦術に持ち込んでしまったところが失敗だったわけです。いわば、完璧主義の秀才ならではの失敗で、その意味では第二次大戦時の日本軍の参謀たちにも通じるものがあります。
 そういう点を丁寧に描いて欲しかったとも思います。これも望みすぎというものでしょうか。

 第1シーズン、第2シーズンで、かなり詳細で緻密なドラマ作りをしていたわりには、最終シーズンは、戦闘シーンこそ派手とはいえ、どうも粗雑であったというのが、見終わっての感想です。
 NHKとしては、時間が限られているので仕方がない、と弁解するかもしれませんが、そのわりにはあらずもがななシーンもずいぶん多かったように思われます。
 大体、戦闘シーンにそんなに時間を割かなくても良かったのです。旅順戦の場面などは、戦争の残酷さを描くと意図があったのでしょうが、いささかくどくて間延びしていたような気がします。もうここはいいから、話を進めてくれ、と何度も言いたくなりました。
 秋山家の留守家庭の様子などをしばしば挿入するのも、それなりに意図するところはわからないでもないとはいえ、他に描くべきシーンがあるだろうというのが正直なところでした。
 戦争が始まってからのロシア側の様子を丹念に描くとなると、当然ながらロシア側の悪いところ、弱いところも描写しなくてはなりません。どうも、それを避けたのではないかと邪推したくなります。それだから、ステッセルも、クロパトキンも、ロジェストウェンスキーも、書き割りの敵将でしかなくなってしまいました。司馬氏は決してそんな描きかたをしていないはずです。
 ポーツマス条約に反対する人々が日比谷焼き討ち事件を起こしたなんてのも、確かに史実ではありますが、このドラマでわざわざ触れる必要があったかどうか。そんな話よりも、凱旋してきた軍艦が港内で汽罐爆発を起こして、日本海海戦そのものよりもずっと多くの死傷者を出してしまったという、司馬氏が附記している愚かしい事件を入れるほうが、輝かしい勝利の負の面を描くには、より効果的だったでしょう。

 なお映像作品として見た場合、画面が往々にして暗すぎるのも気になりました。人の顔がほとんど見えないことがちょくちょくありました。
 ただこれはこの作品だけでなく、日本映画を見ていてよく感じることです。洋画だと、夜のシーン、暗闇のシーンでも、人の顔がわからないなんてことは滅多に無く、巧みに照明を当ててシャープな映像を作っているのですが、邦画はどうしてああ暗くなるのでしょうか。ああしないとリアリティを感じられないと監督が考えているのだとすれば心得違いと言うべきで、そんなリアリティなどつまんで捨ててしまいたいくらいです。
 この作品はテレビドラマなのですから、そんな邦画の通弊など踏襲する必要はありませんでした。それなのに、屋内のシーンはことごとく暗すぎて、誰が発言しているのかさえ定かでなく、非常にわかりづらかったと思います。
 結局、『坂の上の雲』という作品を充分にドラマ化し得たか、という問いに対して、私としてつけられる点数はせいぜい60点というところでしょうか。50点以下というほどひどくはないにせよ、70点80点をつけるのには躊躇します。
 視聴された他の皆様の採点はいかがでしょうか。

(2011.12.26.)

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