忘れ得ぬことどもII

超高速ニュートリノ

I

 ニュートリノの速度が光速を上回っているという衝撃の観測結果が、追試でも確認されたそうです。
 これがすぐにどうこうという話ではなさそうですが、ついワクワクを禁じ得ません。
 私は理系人間ではないと思いますが、科学の話は大好きで、講談社の科学叢書であるブルーバックスも100冊以上持っています。ジャンルは数学、物理学、天文学、生物学など多岐にわたっており、あまり無いのは化学や地学くらいでしょうか。数学で言えば無限論とか、物理学で言えば素粒子論とか量子力学とか、少々浮世離れしたような題材が好きなので、現実に密着した部分の多い化学や地学への興味が薄いということかもしれません。
 もちろん地道にちゃんと勉強したわけではないので、理解の程度はブルーバックスレベルがせいぜいです。この叢書は、「ちょっと科学好き」程度の、まあ素人の読者を想定してやさしく書かれており、数式なども必要最小限にとどめられていますから、何冊読んだところでまさに一知半解というところです。それでも、今度のような新発見があったりすると胸が躍るくらいの感性は持てるようになりました。

 ニュートリノというのは謎の多い素粒子で、普通の物質とはほとんど干渉せず、星の中でさえ楽々と通り抜けてしまいます。だからそもそも、検出することからして非常に困難です。理論的にはずっと以前から予言されていたものの、実際に検出されたのは1987年のことでした。富山県神岡鉱山跡に作られたカミオカンデという施設で、2002年小柴昌俊博士にノーベル賞が与えられたのはこの功績によるものです。
 2004年には、ニュートリノに質量があることも確認されました。当初は、ニュートリノは質量を持たないのではないかとも言われていました。私が中学生くらいの頃の科学読み物には、疑問符付きとはいえそう書いてあったように記憶しています。質量を持たないので、光速で運動できるとも書いてありました。
 物体はスピードが上がり光速に近づくと、質量がどんどん増えてゆきます。増えかたについてはローレンツ変換式という、中学生でも充分理解できるわかりやすい数式があります。それによると、光速と等しくなると質量は無限大になるので、質量のあるものは決して光速にはなれないというのが常識でした。
 ニュートリノに質量がある「かもしれない」ということは実は1960年代から言われていたそうですが、もし質量があるのならニュートリノは光速では動けないことになるのではないかと私は考えたものです。それが確認されたので、きっとニュートリノは光速よりほんの少しだけ「遅い」スピードで飛び回っているのだろうと思いました。
 それが、ほんの少しだけ「速い」とわかったのだから驚きです。

 今回の観測結果は、ぎりぎり「誤差ではない」と結論できるくらいのもので、追試も精度を高めたとはいえ、同じ研究者たちが、同じ施設で、同じ方法を用いておこなったわけなので、まだ半信半疑の人が多いようです。特に時間の測定にGPSを使っているため、そちらに誤差があったのではないかと疑う人も居ます。
 こんな大がかりで微妙な観測をおこなえる研究者や施設は、世界にもそんなには存在しないので、別の研究者が、別の施設で、別の方法を用いて追試するというのも難しいかもしれませんが、これはぜひやって貰いたいものです。
 本当に光速より速いということになると、これは「タキオン」という種類の粒子になります。
 タキオン──!
 SFファンなら胸が熱くなるようなタームです。私はかつて「スタートレック」の原作本の一冊ではじめて知りました。その後ブルーバックスでも何度もお目にかかりました。
 光速より速く動ける、いや正確に言うと、光速より遅くは動けない粒子のことをそう呼びます。
 物体の速度は光速を超えられない、というのは、言うまでもなくアインシュタイン相対性理論に基づく原理ですが、その相対性理論が、別にタキオンの存在を禁じてはいない、と知った時はワクワクしたものです。

 上記のローレンツ変換式は、m=m0/√(1ーv2/c2)というもので、mは質量、m0は静止質量(つまり速度がゼロの時の質量)、vは速度、cは真空中の光速です。vとcが等しくなる(つまり光速になる)と、ルートの中が0になり、従って分母が0になるのでmは無限大(数学的に厳密に言えば不能解ですが、事実上は無限大と見なして良いでしょう)、だから物体は光速では動けない、という理屈は中学生でもわかりましたが、タキオンになると高校生レベルの知識が必要になります。
 光速より速いわけですから、ルートの中がマイナスになります。つまり分母が虚数になります。
 しかし、m0を虚数ということにしてやると、虚数分の虚数で、mのほうは実数になります。タキオンのm0、つまり静止質量が虚数であるとすれば、超光速の存在は許されることになります。

 ──静止質量が虚数? そんなことがありうるのか?

 とひっかかる人が多いし、私もしばらくは理解できなかったのですが、考えてみれば光速より速いということは、決して静止できないという意味であり、そうなれば静止質量が実数にならなくても構わないわけです。静止質量が虚数というのは、絶対に静止できないことの数学的表現と言っても良さそうです。
 この場合でも、vがcに近づくと共にmの値は急上昇し、v=cとなれば無限大となります。つまり、タキオンは光速より遅い速度では動けないことになり、普通の物体(ターディオンと呼ばれます)と同じく、光速を超えることはできないのでした。遅いほうからも、速いほうからも、光速という壁がでんと立ちはだかって、お互い行き来できないと考えると良いでしょう。
 相対性理論で禁じられていないということは、まじめな議論の対象になりうるということでもあり、タキオンの存在についてはSFの中だけではなく学界でちゃんと検討されました。しかし、タキオンが存在すると仮定した時に起こるはずの現象が一向に確認されないため、研究者の興味も下火になり、最近ではほぼSFタームとして残るだけになっていたようです。
 しかし、今やニュートリノがタキオンである可能性が強くなってきました。これがワクワクせずにおられましょうか。
 (なおニュートリノの確認された質量というのは、もちろんローレンツ変換式で言えばmの値であり、m0ではありません。虚数の質量が検出されたわけではありませんのでお間違いなきよう)

 今回の報を受けて、「アインシュタインは間違っていた!」とか、「相対性理論が書き換えられなければならない時が来た!」とか騒いでいる人たちも居ますが、上記の通り、相対性理論は超光速を禁じてはいませんので、そんなことにはなりません。今まで見つかっていなかったタキオンの実在が確認された、というだけのことに過ぎません。
 ただ、光速が最高速であるという前提で構築されていたいくつかの理論は書き直さなければならないでしょう。
 また、タキオンが存在するとすれば、理論的必然として、時間を逆行する可能性が出てきます。すぐさまタイムマシンが可能になるわけではありませんが、情報を過去に送る、あるいは未来から情報を受け取る、ということができるはずです。
 さらに、宇宙を自由に飛び回ろうとすれば、光速でも遅すぎるのは確かです。隣の恒星まで4年もかかっていたのでは間尺に合いません。SFの世界では、タキオンが難しそうだということになってから、ワープが主流となりました。時間の無い世界を通って、いわば近道して目的地に行くのがワープですが、どうもタキオン以上に扱いづらそうな気もします。ことほどさように、宇宙もののSFでは超光速の移動方法が不可欠になっているわけです。
 タキオンが見つかったからと言って、光子力推進すら実現していない現在では、それを移動方法に用いるなど夢のまた夢ではありますが、情報を送る手段くらいにはなりそうです。
 つかまえることすら容易でないニュートリノを、情報を託せるほどに制御できるのだろうかとも思えますが、一旦理論が確立してしまえば、あとは技術の問題になりますから、いずれはクリアできる時が来るのではないでしょうか。
 まずは他の研究者による追試が成功し、ニュートリノがタキオンであるという事実を確立していただきたいものだと思います。事実となれば、それに伴ってまたさまざまな魅惑的な理論が提唱されることになるに違いありません。門外漢ながら、私は胸をときめかせながら待っていたいと思っています。

(2011.11.19.)

II

 つい先ごろ、ニュートリノが超光速で飛ぶというのは誤りであったという報道がありました。「超光速」を言い出した、名古屋大などを中心とする測定チーム自身による正式な撤回ですので、まあこの件は決着がついたということになるでしょう。
 どんな誤りだったかと記事を読んでみると、測定用の時計をつなぐケーブルの接続部に隙間があったという、なんともお粗末なミスだったのでした。当初から、測定にGPSを用いている点を疑問視する声は上がっていましたが、やっぱりそこに落とし穴があったわけです。隙間は1.5ミリくらいだったそうですが、ナノ秒(10億分の1秒)単位の精度が要求されるこの種の測定では、そのわずかな隙間が致命的だったのでした。
 私は、ニュートリノがタキオン(超光速粒子)かも、とワクワクしていたのですけれども、その可能性は残念ながらついえたことになります。
 測定チームの科学者たちも、当初「超光速」と見える結果が出た時は、おそらく内心はワクワクしたことでしょう。困惑もあったでしょうが、「すげえ! やった!」と心の中では呟いていたに違いありません。測定ミスとわかってがっかりしたのは、私のような野次馬以上に当事者たちのほうが大きかったでしょうが、それでも潔くミスを認めて撤回したのは良心的な態度であったと思います。

 タキオンの存在は、今度もまた夢に終わりましたが、前にも書いたとおり、タキオンは理論的に存在を禁止されているものではありません。
 今回の撤回の記事をいくつか読んだ際、

 ──質量を持つ物質は光速を超えないとするアインシュタイン相対性理論に反しており

 とか、

 ──光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論

 とかの記述が眼につきましたが、科学部記者といえども相対論をきちんと理解しているわけではないのだなあ、と嘆かわしく思いました。
 いや、私だって素人ですから、相対論をきちんと理解しているなどと豪語するつもりはないのですが、タキオンの問題は、「ルート」がわかっていれば充分に理解可能な特殊相対論の範疇に属しており、積分の知識が必要で理解も難しい一般相対論とは無関係です。少し考えれば、相対論が「光より速いものはない」などと言っているわけではないことくらいわかりそうなものだ、と思うのです。

 特殊相対論の骨格になっているのはローレンツ変換式と呼ばれる公式です。上にも書きましたが、この公式は

 m=m0/√(1ーv2/c2

 というものです。実はローレンツ変換式には他にもバリエーションがあって、この形でないものも眼にすることがありますが、とりあえずいまはこういうことにしておきます。
 mは物体の質量、m0はその物体の静止質量、vはその物体の速さ、cは光速です。物体がまったく動いていなければ、mとm0は同じ価になりますが、運動を始めると右辺の分母がだんだん小さくなり、従って質量が増えてゆくということ、そしてその増えてゆく割合を表した式です。
 物体(例えばロケット)が光速の半分(秒速15万キロ)で飛んだとすると、v2/c2は1/4になりますから、それを1から引いてルートをとると、0.866くらいになります。飛んでいない時のロケットが10トンだったとすると、この速度での質量は11.55トンくらいになります。
 光速の半分でも1割5分くらいしか増えないのですから、速度を時速で計る程度の、新幹線だの飛行機だののスピードでは、ほとんどmとm0に違いはありません。女性の皆様、飛行機に乗ると体重が増えるのではないかなどとご心配されるには及ばないわけです(むしろ上空を飛ぶために地表よりも重力が弱まり、体重計の針は小さいほうへ振れる可能性が高いでしょう)
 しかし、スピードが光速に近づくにつれ、ルートの中は急激に小さくなります。光速の3/4だと約0.66に、9割だと約0.436に、99%だと約0.14になります。それにつれて、mとm0の比率も、1.5倍、3倍、7倍とどんどん増えてゆきます。99.99%で70倍となり、99.9999%で700倍となり……そして、もし光速と一致したとすれば、ルートの中、つまり分母が0になってしまい、右辺は無限大(正しくは不能解)となります。静止質量が10トンだろうと10グラムだろうと10ナノグラムだろうと同じことで、無限大の質量を動かすことは不可能ですから、「質量のある物体は光速に達することはできない」という結論になります。ここまでは中学生レベルの数学で理解でき、わかりやすいですね。

 ところで、光速よりも速い物体を考えた場合、ルートの中はマイナスになります。ご存じのとおり、マイナスの数のルートは、虚数と呼ばれる概念になります。虚数なんか数ではないと切り捨てる向きもあるようですが、実数と同様に演算規則を立てることができますから、まあ広義の数であるには違いありません。波動関数のように虚数(というか複素数)を用いないと成立しない物理法則もありますから、ただの概念とばかりは言い切れないでしょう。
 虚数同士を掛け合わせると実数になります。マイナスの数同士を掛け合わせるとプラスの数になるのとちょっと似ています。
 同じように、虚数を虚数で割ると、実数解が出てきます。因数分解して虚数単位i(=√(-1))をはじき出して考えればわかりやすいと思います。
 そこで、分母が虚数になったのだから、分子のm0のほうも虚数ということにしてやると、あら不思議、その速度での質量mは実数になります。
 この段階で、「虚数の質量なんかあり得ない」と思ってしまうから、「超光速などあり得ない」という誤解につながってしまうのですが、そうではありません。
 確かに、虚数の質量というのはなんのことだかわかりませんし、そんなことがあり得るとも思えません。しかし、注意しなければならないのは、虚数になるのはm0であってmではないという点です。m0は「静止」質量、つまり速度が0である時の質量です。
 速度が0になることが決して無い、原理的にあり得ない、ということであれば、静止質量が虚数であることにはなんの問題もありません。そもそも静止しないのですから、静止した時の質量がどのくらいかと考えること自体意味がありません。
 タキオンというのは、ローレンツ変換式のこういう解き方から生まれてきた仮想粒子だったのでした。
 光速より速い、というよりも、光速より遅くなれない、というのがタキオンの定義です。ふたたびローレンツ変換式をじっくり眺めてみると、やっぱり光速に近づくほどルートの中が0に近づき、mは増大し、無限大に向かってゆくのがわかります。
 このように、タキオンの存在は相対論により禁止されているわけでも、相対論に反しているわけでもありません。それどころか、相対論の理論的な解のひとつであるに過ぎないのです。科学部の記者なら、素人の私にでも理解できるその程度のことはわかっていていただきたいと思う次第です。

 ──そんなことはよくわかっているけれども、説明し出すと長くなるし、紙数の関係で「相対性理論に反する……」等々とざっくり書かざるを得なかった。

 という事情であることを願います。

 そんなわけですので、超光速が「あり得ない」と断言する物理学者はほとんど居ないだろうと思います。「まあ、実際には無さそうだ」というのがおおかたのところでしょう。タキオンが存在すると仮定した時に、おそらく観測されるであろうと予測される現象が、いまだにひとつも確認されていないのです。しかしもちろん科学において、「確認されていない」イコール「存在しない」ということではありません。
 ニュートリノが超光速かもしれないという報に接した時、最初に思ったのが、上記の「予測される現象」はどうだったんだろう、ということでした。多くの科学者がはじめから懐疑的であったのは、その現象に関する言及が無かったからかもしれません。もちろん、その現象が起こっていなかったとしても、可能性としては「超光速ではなかった。従って予測される現象も起こらなかった」「超光速だった。その現象が起こるであろうという予測が間違っていた」というふたつの解釈があり得ますが、とにかくその点がクリアにならないと、そう簡単に信じるわけにはゆきません。
 上で「ワクワクしている」「胸が熱くなる」とか書いたので、MICはニュートリノ超光速説を信じたのだろうと思ったかたが多かったかもしれませんが、実はそういうわけではありませんでした。「本当に超光速だったら面白いな」と思っただけのことです。それと同時に、「アインシュタインは間違っていた」だの「相対性理論を書き換えなければ」とか先走ったことを言い出す人々に物申したかったというのが正直なところです。
 ニュートリノは残念ながらタキオンではなかったようですが、私はタキオンが存在しないとは思っていません。まだ人類は、「光速を超えた世界」を覗くためのツールを持っていないというだけのことで、遠い将来、例えば恒星間通信・恒星間飛行が必要になる時代になれば、かならずそのツールも手に入ることだろうと信じています。

(2012.6.14.)

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