忘れ得ぬことどもII

編曲という仕事

 編曲という作業は、決して自分の主な仕事であるとは思っていないのですが、私の業績としては作曲よりもはるかに多量なものとなっています。作品リストを眺めただけでも、よくもまあこれだけ編曲をやってきたものだと思います。
 刊行楽譜も編曲もののほうが作曲より多いわけで、他人からは「作曲家」というより「編曲家」と見なされているのではないかと危惧したりします。実際、あるところで「編曲家」と紹介されたことがあり、しばらく落ち込みました。
 作業、と書きましたが、ほとんどの場合、編曲というのは私にとっては「作業」としか感じられないことなのでした。創作意欲をかき立てられるようなケースは稀です。最近はyoutubeの動画を見ながら耳コピしつつ編曲するような仕事も多くなりましたが、そうなると余計に「作業」感が強くなります。
 同じ曲を何度も扱うはめになることも少なくありません。「紅葉」「上を向いて歩こう」「スターダスト」あたり、何度編曲したか憶えていないほどです。以前編曲したものをそのまま活用できれば良いのですが、微妙に編成が違ったりするので、やはり譜面としては新たに作らなければなりません。手書きの頃は本当に面倒くさかったことで、パソコン作譜するようになってからはコピー&ペーストを使えるのでかなり楽になりました。

 編曲というのは、「音楽作品を(特定の編成で)演奏できるようにする」作業で、本来はかなり範囲の広い概念です。
 バロック時代の作曲家などは、楽譜には必要最小限のことしか書いてくれていませんので、演奏にあたってはいろいろ補わなければならないことがあります。補いかたは解釈によってさまざまですが、ともあれ編者の解釈を交えて作られた譜面のことを編曲版と呼びます。例えばバッハであれば、ブゾーニとかケンプとかの高名なピアニストや研究者が、それぞれの編曲版を発表しています。私はバロックのオーソリティではありませんので真似はできないでしょうが、同じ編曲でもこういう作業ならけっこう楽しいだろうな、などと思います。
 リストなどは自分のオリジナル作品と同じくらいの分量の編曲作品があります。ベートーヴェンの9曲の交響曲を全部ピアノ用にアレンジしたのが有名ですが、「愛の夢」とか「ラ・カンパネラ」とか、代表作と見なされているような曲も実は編曲ものです。「愛の夢」は自作の歌曲のピアノ用編曲、「ラ・カンパネラ」はパガニーニのヴァイオリン協奏曲の編曲です。リストの意図は、当時世にあった音楽作品をすべてピアノで弾けるようにすることにありました。だからジャンルを問わず片っ端からピアノ独奏用にアレンジして行ったわけです。いささかワンパターンに思われるところもあるとはいえ、こういう確乎とした理念に基づいて編曲をしているのであれば、これはこれでやり甲斐のある仕事だったろうとも感じられます。
 ポピュラー音楽の場合は、作曲者がアレンジまでおこなうこともありますが、多くの場合は専門のアレンジャーが手を加えて「売り物」になるようにします。USAなどではアレンジャーの権力がなかなか強く、駆け出しのシンガーソングライターなどはアレンジャーの機嫌を損ねると簡単に潰されてしまうそうです。
 「ラブソングができるまで」という映画で、落ち目のソングライターが作品をトップシンガーに歌って貰う段取りができたものの、不本意なアレンジをされて腐り、素人の作詞者に励まされて、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで抗議する──というくだりがありましたが、ことほどさように、USAのポップス界では、アレンジに文句をつけるというのは勇気の要ることであるようです。こんな力のあるアレンジャーであれば、悪くないかもしれません。
 私のポピュラー音楽にまつわる仕事は、ポピュラーものを合唱用や小アンサンブル用に編曲するというのがほとんどで、ポピュラー音楽におけるいわゆる「編曲」はやったことがありませんが、それに近いものとして、素人さんの作った「歌」にピアノ伴奏をつけたことがあります。童謡に近いような歌でしたので、伴奏も簡単なものでしたが、簡単なわりにはこれはなかなか楽しい仕事でした。自分の創意によって曲そのものが生きも死にもするわけで、責任も大きいですが、やり甲斐という意味ではけっこう充実感があったように記憶しています。

 編曲の仕事が多いのは、そのほうが需要が多いというだけの理由であろうと思いますが、私の編曲がある程度水準を保っているせいでもあるでしょう。こう書くと自慢しているみたいですが、下手に器用だとかえって自分のやりたいことがやれないという実例とも言え、どうも痛し痒しという観があります。
 依頼するほうにとってみれば、作曲よりは編曲を頼むほうが気安いのでしょう。元ネタがあるので出来上がりの予想がつけやすいし、予算も少なくて済むという気分があるものと思われます。実際のところ、作曲の報酬というのは頼むほうも見当がつけづらいようですし、私のほうからも額を提示しづらいものがあります。その点編曲だと、なんとなく相場のようなものがあって、交渉しやすい気はします。
 それにしても作曲の依頼がもっと来ないのは、やはり一般に流通している作品が少ないせいでしょう。作品数はけっこうあるのに、大半が一度限りの演奏で終わっており、世の中の人々が接する機会が無いわけなので、私がどんな曲を書く人間なのかわからず、オリジナルの作品を依頼するのに躊躇するのも無理はありません。面識が無いのに、ホームページに掲載されているMIDIなどを聴いてオペレッタの作曲を依頼してきたLa Canorのかたがたはまったく奇特なことこの上なかったと思う次第です。

 大学の作曲科に入る前、和声法とか対位法とかをずいぶん勉強しますが、いったいこれが自分の創作活動にとってどんな役に立つのかと疑問に思う受験生は多いようです。
 私の経験から言うと、対位法はどんなジャンルの作曲をするのであってもマスターしておいたほうが良いと思います。簡単に言うとメロディーの組み合わせかたの理論ですので、たとえポピュラー系の仕事をするにしても、いわゆる裏メロを作るのに役立ちます。受験段階ではほとんど学習フーガを書くことだけに集中してしまいがちですが、対位法はもっと広範囲に応用できます。
 それに較べ和声法のほうは、現代においては、実際の作曲にあたってはむしろ足枷になることが多いような気がします。和声法の準拠している機能和声というものがすでに音楽の絶対的な体系とは呼べなくなっているのに、和声法の課題ばかりやっていると、かえってそこから抜けられなくなりかねません。もちろん極めればそれなりに良いこともあるのですが、受験段階でそんなに極めていることは無いでしょう。
 とはいえ、無駄かと言えばそうではありません。和声法というメソッドは、基本的に無伴奏混声合唱のスタイルを基本にしているので、合唱編曲の仕事をする上ではほとんどそのまま応用できるのです。和声法はメロディーにコードをつけるだけではなく、パートの動かしかたということも学びますから、充分に役に立ちます。
 合唱編曲というのはかなり需要の多い仕事ですので、和声法をマスターしておくことは、創作にはともかく、お金を稼ごうとするならば有用なことと言えるでしょう。私の仕事をしてきての実感です。

 編曲は気分として「作業」とはいえ、そんなに途切れずに仕事が入ってくることには感謝しなければならないでしょう。
 しかし、少しずつ「作曲」の比重が大きくなってくれないものか、と、つい思ってしまいます。
 作家に喩えるなら、翻訳やらエッセイやらの仕事ばかりで、なかなか自分の本領と思っている小説の依頼が来ないというようなものかもしれません。贅沢なようですが、表現者の欲望というのは概してそんなものなのでしょう。

(2011.11.16.)

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