忘れ得ぬことどもII

北杜夫氏の訃報

 北杜夫氏の訃報が伝えられました。2011年10月24日に84歳で亡くなったそうです。
 最近はあまり読んでいませんでしたが、一時期ずいぶんと入れ込んで愛読したことがある作家なので、やはり感慨を覚えます。もう84になっていたのかという驚きもあったりしました。昭和2年生まれですから、勘定してみれば確かにそういう年齢です。

 北杜夫氏は、躁鬱(そううつ)という病気を人口に膾炙(かいしゃ)させたことで知られます。確か『あくびノオト』という本の中だったかで躁鬱病であることをカミングアウトしたのだったと記憶しています。その後さかんに自虐ネタのごとく自分の症状をユーモラスに書き綴りました。ゆゆしき精神症状ではありますが、そのおかげで一般の人々がわりと身近に──とは言わないもののあまり恐れずに受け容れるようになりました。
 最近はそれが行き過ぎて、鬱病という病名を安易に使いすぎる傾向があるようです。以前ならせいぜいノイローゼ(神経症)と診断されたであろう症状が軒並み鬱病扱いされ、悪く言えば怠ける口実を与えているようにさえ見えます。ここまで来ると、北さんもいささか不本意だったのではないかと思ったりするのですが、ともあれ精神病に対する偏見をある程度取り除いたのは確かでしょう。北さんの芥川賞受賞作『夜と霧の隅で』はまさにその、精神病に対する偏見を告発した作品でしたから、ある意味では初志を貫き通した生涯であったとも言えそうです。

 私が北杜夫の名前を知ったのは、父が仕事でタヒチなどへ出張するにあたって、事前の下調べのつもりで買ってきたらしい『南太平洋ひるね旅』がうちにあるのを発見した時でした。確か小学3年くらいの時だったと記憶しています。
 『南太平洋ひるね旅』を自分で読んだのは1、2年あとのことだったと思いますが、ユーモアあふれる語り口にたちまち夢中になりました。
 それから上記の『あくびノオト』、『へそのない本』『どくとるマンボウ昆虫記』『マンボウぼうえんきょう』などのエッセイ集を自分で買って読み始めたのだと思います。
 ただ、これらのエッセイ集の中には、必ずしも捧腹絶倒のユーモアエッセイばかりが含まれていたわけではなく、いくつか短編小説が入っており、時折奇妙に暗い雰囲気だったりすることにも気づきました。特に『へそのない本』には、あとで知ったのですがごく初期の──たぶん処女長編『幽霊』と同じ頃かもっと前の──短編が収録されていて、笑いあふれるエッセイ群とははっきりと異質な感じがしたものです。
 小学生だった私は、それらの暗い作品はあまり好みませんでしたし、その味もわかりませんでした。
 『怪盗ジバコ』を読んでいた頃、同級生に同好の士が見つかりました。
 (『怪盗ジバコ』は今は新潮文庫から出ていますが、当初は文春文庫で、遠藤周作氏が解説を書いていました。その解説の中で遠藤氏は「ジバコのモデル」として「スフレ・ド・パティスリィ」なるフランスの「実在の」怪盗を紹介していましたが、それ自体が狐狸庵主人の大ボラであったことに気づいたのはずいぶん後年のことです)
 彼はあくまで「ジバコ」ファンであって、北杜夫ファンというわけではなかったようです。その後私が『奇病連盟』を読んで話をしてもあまり乗ってこなかったのです。それでも、好きな小説について語れる友達ができたのは嬉しいことでした。

 小学校高学年から中学校くらいまでにかけて、私はずいぶんと北杜夫にのめり込んでいましたので、自分の書く文体まで影響を受けてしまったようです。
 なんと、学校に提出した作文を、担任の先生が家に帰って見ていたところ、たまたま私の文章を見た先生のお嬢さんが、

 ──この子、北杜夫のファンなんじゃない?

 と言ったという話を聞きました。他人に見抜かれるほど影響を受けていたらしい。
 考えてみれば、私はその頃、あくまで遊びですが「個人雑誌」みたいなものを作ろうとしたことがあって、そこに「連載小説」のつもりで『怪盗ジバコ』の最初の話の半分くらいをそのまま書き写した記憶があります。文章の筆写というのは、実は文章力の鍛錬には非常に役立つもので、宮城谷昌光さんなども『史記』を全篇筆写したことで中国古代ものの書き方を会得したそうです。私は知らず知らず、作文の練習をこなしていたのでした。
 ギャグっぽいところだけでなく、北杜夫氏の文章には、ちょっと古風な、しかし美しい表現がよく出てきます。「あまつさえ」「なかんずく」「むくつけき」などという副詞や形容詞を憶えたのは北作品からでした。中学の国語の非常勤の先生が『白きたおやかな峰』の「たおやかな」にえらく感心していたことも思い出します。
 「ここで『たおやかな』なんて言葉は、普通の人には決して使えないよ」

 エッセイやユーモア小説ばかりでなく、少しはシリアス系も読まねばと思い、叔父の家にあった『楡家の人びと』を借りてきて読み始めましたが、この大河小説はさすがに中学生には荷が重いことでした。一応最後まで読了はしたものの、何を読んだのやら自分の中でさっぱり整理がつかない気分でした。
 とはいえ、それまでに純文学系とは知らずに買って、読んでもよくわからなかった短編集『星のない街路』『遙かな国 遠い国』『天井裏の子供たち』などは、私の年齢が上がるにつれ、徐々に理解が届くようになったように思います。
 それでもやはり、『さびしい王様』『父っちゃんは大変人』といったユーモア系のほうが私は好みでした。『大結婚詐欺師』になるとちょっとやりすぎな気もしましたが。
 ただ、その後のエッセイを読んでいて、北杜夫氏が「純文学作品」と「ユーモア作品」を分けて考えており、しかもユーモア系をはっきり下に見ているらしいことがわかって、少々幻滅を感じたのを憶えています。他人の作品についても「しょせんは高級エンターテインメントに過ぎない」というような評しかたをしているのを目にしました。
 さらに、精神科医時代の同僚であったなだ・いなだの影響でもあったものか、「日本は戦後アジアの諸国に一度も謝罪していない」というようなサヨク(「左翼」ではなく)そのままのいい加減な文章を書いているのに驚かされました。その頃はもう私は大人になっており、かつて私淑した作家でもある程度批判的な眼で見ることができるようになっていました。北杜夫作品をほとんど読まなくなったのは、そのあたりからだと思います。

 自分の中で訣別はしていたものの、やはりかつて夢中になった作家が亡くなったというのは、ひとつの区切りのようなものを感じます。
 今朝の新聞に載っていた三浦朱門氏による追悼文によると、晩年はほとんど人づきあいも絶っていたようで、ずっと鬱状態だったのではないかとのことでした。気むずかしい老人になっていたのだろうかと想像します。『幽霊』に代表される初期のどうにも胸苦しい、閉塞感に満ちた世界観が、結局最後まで北杜夫という作家をとらえ続けていたのかもしれない、と思ったりするのでした。   

(2011.10.27.)

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