忘れ得ぬことどもII

古文の教えかた

 学校の古文の授業というと、あまり好きではなかった人が多いのではないでしょうか。
 私も、日本人として日本語の古典を知らないのでははずかしい、という気持ちは大いにあったものの、テストではあんまり点を取れませんでした。
 いま考えてみると、古文のテストでは、どうも文法がらみの問題が多かったような気がします。
 古文の授業で文法を叩き込まれることにさほどの意味があるとは、今でも思えないのです。
 文法というのは、どちらかというと書く時に必要なスキルです。例えば英語でも、英作文をしようと思えば英文法をマスターしていないとうまくゆきません。
 しかし、読む時はどうでしょうか。
 英語なら、基本となる言語構造が全く違いますから、ごく基本的な文法──5構文など──は覚えておかなくてはならないでしょうが、古文の場合は同じ日本語です。多少の揺れはあっても、構文自体がそんなに異なることはあり得ません。
 係り結びがどうだとか、助動詞の活用がどうだとかいうことは、読んでいてわからなければその都度チェックすれば良いことで、一覧表で覚えるほどのものでしょうか。
 われわれが古文を用いて作文をしなければならないような状況は、まず考えられません。そうであれば、活用形などを系統的に覚える必要は、ほとんど無いような気がするのです。

 学校で古文の授業があるのは、別に学生全員が古文書を解読できるようになることが目的ではないはずです。
 おそらく、豊かな文芸遺産に触れることで、学生の教養や感受性を涵養するという意味があるのでしょう。
 それなら、枝葉末節にこだわらず、意味がわかってもわからなくても、どんどん読むことがいちばんだと思います。
 それも、音読するのが良いでしょう。
 明治期の文章にしても、眼で読んだだけではなんだかよくわからないものが数多くあります。それが不思議なことに、声に出して読んでみると、何やらわかったような気がするものです。江戸時代以前の文章なら余計にそうなっています。明治以後怒濤のように出現した、同音異義がやたらと多い漢語があまり使われていないので、耳から入ったほうがわかりやすいのです。
 繰り返し声に出していれば、そのうち意味もうっすらわかったような気がしてきますし、何よりも言葉のリズム感がこころよく感じられてくることでしょう。そして日本語の美しさということにも意識を向けることになるはずです。古文の授業の目的は、それだけで充分に果たされていると言えそうです。

 初等の教材に『伊勢物語』だの『土佐日記』だのを読ませるのも馬鹿な話です。
 これらは章立てのフレーズが短いので導入に良さそうだと判断しているのかもしれませんが、言語として今と違いすぎます。
 現代人がタイムマシンに乗って過去へ戻ったとして、通訳無しで会話ができるのはせいぜい室町時代くらいまでだと言われています。源頼朝に鎌倉幕府の方針をインタビューしようとしても、言葉は通じそうにありません。
 まして平安時代初期の上記作品など、外国語を読むのと変わりません。いきなりそんな千年以上前の文章をぶつけられては、授業の最初でつまづいてしまう学生が多いのも当然です。
 もっと近い時代の文章を選ぶべきでしょう。

 私のお薦めは、『東海道中膝栗毛』です。
 滑稽本なので、学校の先生は眉をひそめるかもしれません。教材にはもっとまじめな本を使うべきだと考えるのではないかと思います。
 しかし、古文に限らずいろんな学問の導入段階で必要なのは、何よりも「好きにさせること」でしょう。
 『膝栗毛』は19世紀はじめの作品ですから、語彙その他、現代人にとってもさほどの違和感はありません。道中記だけに今も残っている地名がたくさん出てくるので、理解できるひっかかりも多いのです。そして何より、笑いのセンスにもそう大きな差が無いのです。
 もうひとつ、大半が会話で進められているのもとっつきやすいところです。会話はほとんど口語そのままですので、先生がたは
 「口語では、古文の勉強にならないじゃないか」
 と思うかもしれませんが、おかげでサクサクと読めます。私が読んだ時も、現代の小説を読むのとほとんど変わらないスピードで読めましたし、笑えました。古典がこんなに面白いものなのか、と思わせれば、それだけで導入としては成功です。
 それから、随所に挿入されている狂歌
 これなどダジャレ、語呂合わせ、パロディの連続ですから、ちょっと水を向ければ子供でも大笑いできます。
 例えば冒頭に出てくる品川宿の狂歌──

 海辺をばなどしな川といふやらん さればさみずのあるにまかせて

 山手線品川が当時は海辺にあったこと、「素水(さみず)」は真水の古語であること、京浜急行鮫洲(さめず)という駅があり今は運転試験場で知られていること、などを補足しさえすれば、子供でもすぐ理解できます。
 「海辺だってのに品『川』というのはなんでだろう? ──そりゃおめえ、『さみず』があるからヨ」
 え? さみず……さみず……さめぃず……さめず
 と、わかった途端に、
 「うわ、苦しすぎ!」
 と爆笑しながら叫ぶ子供が居るかもしれません。『膝栗毛』の狂歌は、この手の「苦しい」ダジャレに満ちています。
 『膝栗毛』ではありませんが、作者十返舎一九辞世の句なども面白いですね。

 この世をばドリヤおいとまにせん香のけぶりとともにハイさやうなら

 「この世をば」藤原道長本歌取り、「おいとまにせん(しよう)」と「香」が掛詞(かけことば)、「(線香の)けぶり」と「ハイ(灰)」が縁語です。とぼけた中に、実は和歌の代表的な技法が3つも含まれているわけです。これを手がかりにして古歌を教えてゆけば、万葉集古今和歌集もいかにダジャレだらけであるかに気づいて、古典が大好きになること請け合いです。
 問題があるとすれば、ややシモネタが多いことくらいでしょうか。

 『膝栗毛』の次は同時代の『浮世風呂』とか、少し時代をさかのぼって近松門左衛門の戯曲などでも良いかもしれません。江戸期の人々は、近松の芝居や浄瑠璃のセリフで「正統な日本語」を学んだと言います。その意味ではまさに「日本のシェイクスピア」とも呼ぶべき存在だと思います。『曽根崎心中』の道行きの場面の文章は、荻生徂徠が脱帽したと伝えられるほどに格調が高く、近世日本語の粋と言ってもよい名文です。学校で心中物を教えるなど躊躇する先生も多そうですが、ぜひ扱って貰いたいものです。
 そうして徐々に昔のものへと遡ってゆけば、さほどの抵抗無しに『方丈記』『源氏物語』に辿り着けると思うのです。むしろ、早くそういうビッグネームを読みたくて仕方がなくなるかもしれません。そうなればしめたものです。
 文法を扱わないと、期末テストの設問がしづらくなるかもしれませんが、テストのための授業などはつまらないものです。古典というのはそういうものではないと、先生がたも腹を据えるべきでしょう。

 ところで英語でも、英米の教育者は
 「まず詩から読ませるべきだ」
 と主張しているそうです。マザーグースなどが良いかもしれません。外国語学習の最初で大事なことは、リズムをつかむことであって、語彙の意味とか文法などはあとで良いという考え方は、まことにもっともだと感じます。しかし日本の先生はあいも変わらず文法から始めて、英語嫌いの生徒を増やしています。
 英語にしろ古文にしろ、さまざまなまっとうな意見が出されていないはずはないのに、どうして教え方がさっぱり変わらないのか、不思議でなりません。

(2011.5.28.)

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