忘れ得ぬことどもII

日本の広さについて

 東日本大震災以来、外国に友達が居るような人のところへは、

 ──こっちに避難してきたらどうだ。いつでも受け容れる準備はあるぞ。

 というような誘いが来ていることが珍しくないようです。西日本に住んでいて、地震も津波も原発事故もまるで関係なかった人のところにまでそんな連絡が来たというような話も聞きます。
 特に福島の原発事故が世界的に報道されるにつれ、そういう誘いも多くなったようです。私は友人と呼べるほどの海外の知人はおりませんので、そんな話は来ませんが、知り合いの中には誘いが来た人も居ます。中には、

 ──おまえんとこだって地震国じゃないか。

 と思わずツッコミを入れたくなるような、中南米やら東南アジアやらから声がかかったケースもあるとか。
 友人というもののありがたさを感じるのはこういう時かもしれませんが、それにしても海外にはだいぶ大げさに伝わっているらしく、相手が親身になってくれているだけにかえって困惑してしまうことでしょう。

 確かに悲惨な映像が繰り返し配信されたために、日本中があんな状態になっていると勘違いする人も多かったでしょう。また、放射能についてはいささか過敏な反応を示しがちかもしれません。ドイツのように国策を変更してしまう国まで出るありさまです。
 実際のところ、震災後しばらくの海外の報道はかなりヒステリックというかセンセーショナルというか、過剰な表現が多かったように見受けられます。当事者である日本人のほうから

 ──少し落ち着け。

 と言いたくなるような状態でした。
 だから海外の人たちが、日本の被害状況を実際より過大にイメージしているのは無理もありません。
 ただ、彼らの受け取り方に関しては、もうひとつ要因があると思います。
 日本が「小さな島国」である、という意識が強すぎたのではないでしょうか。

 欧米人から見ると、日本はどうしても「小さな島国」と思えてしまうようです。
 またわれわれ日本人も、「小さな島国」であることに甘んじている観があります。文芸作品にしても評論にしても、われわれが日本という国を論じようとすると、どこか「小さい国」「島国」というところから出発しがちです。
 いみじくも司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」の冒頭を、

 ──まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。

 と書き始めました。まことに小さな国、世界という場から見れば粟粒のように小さく頼りない国、というイメージが、私たちの自意識のどこかに巣くっているようです。そして、外国人とつき合う時も、

 ──なんせ小さな国なものですから。

 という引け目のようなものがなんとなくあり、その意識が微妙に日本人の態度を消極的なものにしているような気がします。いちばん有名な交通標語といえば、

 ──せまい日本、そんなに急いでどこへ行く?

 ではありませんか。日本は狭くて小さな国だという意識が、ほとんどの日本人の中に刷り込まれていると言って良いと思います。
 その自意識は、言わずとも相手に伝わるもので、ついつい外国人も、日本とは小さな国なのだろうと感じてしまっているのではないかと思います。

 確かに、日本の隣には中国という、圧倒的存在感を持つ大国が鎮座しています。日本人は長い歴史を通じて、どこか中国の周辺国であるという気分を持ち続けてきました。時に反撥して独立独歩を決め込もうとしたり、精神的優位を主張する論が現れたりもしましたが、いずれにしても多かれ少なかれ、この巨大な隣国を意識しなくては国が立ちゆきません。それは現在でも同じことだと思います。中国の存在を思う時、私たちはどうしても小国意識を感じざるを得ません。
 不幸なことに、日本の鎖国の扉をこじ開け、近代という世界にひきずりだしたアメリカも、その近代世界で一本立ちしようと努力していた日本の前に立ちふさがったロシアも、少なくとも面積で言えば日本の20倍以上もある、中国に匹敵する超大国でした。こういう国々と常に渡り合わなければならなかった日本人が、さらに小国意識を持ってしまったのもやむを得ないことだと思います。私たちが自分らを小国の民だと考える時に、視座を置いているのは中国であり、アメリカである(ロシアということはないにせよ)と言えるのではないでしょうか。そうであれば、

 ──まことに小さな国。

 という、心許ないほどにはかなげな表現が生まれてくるのも、ごく自然なことです。

 しかし、日本という国は地政学的には「小さな国」かもしれませんが、客観的に見れば決して小さくも狭くもありません。私はすでに何度も書きましたし、機会があれば口頭でもよく発言しているのですが、もし日本と同規模の国がヨーロッパにあったらどうだろう、と設問してみたいのです。
 ロシアは別格として勘定に入れないとすれば、日本より面積の大きな国はヨーロッパ全土でもわずかに4つしかありません。ウクライナフランススペインスウェーデンです。そして人口ではどの国も太刀打ちできません。現在のロシアとさして遜色ない人数が暮らしています。
 ドイツポーランドイタリア英国も、、日本よりずっと狭いのです。オーストリアチェコ北海道と同じくらいの面積しかありません。スイスオランダベルギーに至っては九州と同じくらいです。
 日本と同じ面積、同じ人口の国がヨーロッパにあったなら、これはおそるべき大国です。どの国が国家戦略を立てるにしても、この国を計算に入れないことには何ひとつ決まらないだろうと思えるほどの存在感があるはずです。もちろんそこの国民も、自分らが小国だなどとはつゆほども思わないでしょう。広い国土圧倒的な人口を武器に、ヨーロッパ全体の覇権を握ろうと野心を燃やすに違いありません。
 地政学的位置というのは、これほどに重大なことなのです。

 ついでに言えば、日本が小国であるというイメージは、地図のせいでもあるように思えます。
 世界地図によく使われているメルカトル図法は、高緯度地方ほど面積が大きく描画されるという性質を持っています。だからグリーンランドが南米と同じくらいの大きさに見えますし、スカンディナヴィア半島はオーストラリアくらいの面積があるように見えます。
 昨日のテレビのクイズ番組で、

 ──日本よりタイのほうが面積が広い──マルかバツか?

 という問題が出て、回答者はあっさり玉砕していましたが、地理には強いつもりの私も少し迷いました。答えはマルで、タイは日本の1.35倍ほどの面積を持っています。うちのトイレに貼ってある世界地図を見ると、やはりどう見ても日本よりずっと小さく見えるのですが、これももちろん、タイが赤道近くにあって小さく描画されているからに過ぎません。
 同様に、日本よりだいぶ高緯度にあるヨーロッパ諸国から見ると、日本という島国はごく小さく見えると思われます。しかも欧米で使われている世界地図は、大西洋を中心にしていますから、日本は地図の右端ぎりぎりに描かれることになります。視界の焦点効果もあって、さらに小さく感じられるかもしれません。
 そんなに違うものなのかと思われるかもしれませんが、試みに世界地図上で、東京から左側に水平な直線を引いてみて下さい。ヨーロッパのあるあたりで、その線がどういう都市に近いかを見てみると、たいてい唖然とします。ヨーロッパでこの線より下(つまり南)に国土があるのはマルタただ一国です。スペインのジブラルタル海峡付近がかろうじてひっかかるかもしれません。
 陽気な南国のイメージが強いナポリ函館と同じくらい、ローマ札幌ミラノ稚内とほぼ同緯度です。緯度だけから言えば、ヨーロッパ人から見ると日本はまごうことなき「南の島」なのです。札幌オリンピックの時、あんなところに雪が降るのかと疑った関係者がたくさん居たそうです。
 これだけ緯度が違うと、メルカトル図法上での描画はだいぶ違ってくることがわかります。
 福島の原発事故で、あたかも日本全土が放射能に覆われているかのごときイメージを持たれているのは、地図の図法が大きな原因のひとつであると私は思うのです。

 日本は自他が思うよりも広い国です。しかも、中緯度帯を北東から南西へと細長く伸びているので、多くの気候が入り交じっています。インドネシアなど日本よりはるかに大きな島国ですが、全域が熱帯多雨気候なので、どこへ行ってもさほど自然の景観に差があるわけではありません。しかし日本は、北海道、本州日本海側、本州太平洋側、九州、南西諸島や小笠原諸島と、ほとんど同じ国の中とは思えないほどに景色や気候が異なっています。特に冬季の落差はびっくりするほどのものです。
 友人が、春先にドイツから列車でシンプロントンネルを通ってイタリアに抜け、その陽光の差に驚き、
 「はじめて『君知るや南の国』って気分がわかったよ」
 と述懐していたことがありましたが、冬場に大清水トンネルを通って新潟県から群馬県に抜けるほうが、差はずっと大きいと思います。
 北東にある北海道と、南西にある九州がだいぶ違うことくらいは、外国人にも見当がつくかもしれませんが、わずか200キロ前後の幅しかない日本海側と太平洋側でこんなに違っているというのは、想像を絶することなのではないでしょうか。

 ──こっちに逃げてきたらどうか。

 と言ってくれる海外の友人には、その好意を謝しつつ、

 ──いや、日本は広いから、うちは大丈夫だよ。

 と胸を張って答えられる日本人でありたいと念じます。

(2011.5.24.)

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