忘れ得ぬことどもII

東日本大震災 起こる

 その日、私は在宅中で、マダムとふたりでちょっとした買い物をしに行こうと思って支度をしている時でした。
 揺れ始めた時は、まさかそんな大地震であるとは露とも思わなかったのですが、なかなか揺れが止まず、それどころかだんだん大きくなるようだったので、これは容易ならぬことだと考え始めました。
 そのうち、棚の上に天井近くまで積み上げられていた雑誌がばらばらと落ちてきました。今までそんなことは無かったので、どうやら私が今まで体験した中ではいちばん大きな地震であろうと思いました。揺れはなかなか止まず、はたしてそのまま沈静してくれるのか、もっと大きな揺れが来るのかがわからないうちは、やはりかなりの不安を覚えました。
 幸い、私の家ではそれ以上の大ごとにはならず、ひとまず揺れがおさまったのでほっとしました。その後も断続的に何度も余震があったものの、本震より強くなることはないでしょうから、一応は安心し、さほどの被害も受けなかったことをマダムとことほぎ合いました。
 台所の戸棚の戸が開いていたにもかかわらず、中の食器類は、多少向きが変わったものはありましたが、外に飛び出て割れるというようなことはありませんでした。本棚にぎっしり詰まった図書類も無事です。
 テレビをつけてみると、どの局も地震特報になっていましたが、津波の警戒を訴えているところばかりで、私の住んでいる埼玉県南部がどのくらいの揺れであったかを知るには、いささか時間がかかりました。まあ、津波はこれから必ず訪れることですから、まずはそちらを念入りに周知しなければならないのは当然です。
 ようやく各地の震度が映し出されました。埼玉県南部は震度6弱。震源に近い宮城県あたりでは7に達していたようです。
 「うわあ、6かあ」
 と思わず叫んでしまいました。ただし、あとでネットでピンポイントの震度を見てみたら、「県南部」というくくりでは6弱でしたが、私の住む川口市は5強ということになっていました。まあ「5強〜6弱」ということで良いのではないかと。

 6弱にしろ5強にしろ、私が未体験であったことに変わりはありません。
 私は昭和39年生まれですから、ちょうど生まれた年に新潟地震が起こっています。自分の記憶としていちばん古いのは昭和47年八丈島東方沖地震だったと思います。それから53年宮城県沖地震、58年日本海中部地震、もちろん平成7年阪神大震災16年中越地震などが記憶に大きく残っている大地震です。
 ただ、自分自身の体験としては、それらのどれも直接には知りません。新潟地震は生まれた年とはいえ、誕生の2ヶ月前に起こったものですし、他の地震も、多少の揺れは感じたものの、いわばニュースとして知ったに過ぎません。ともかく、私がこれまでに体験した最大の震度は4でした。うまく大地震を避けて生きてこられたと言えます。上記の大地震を、ふたつ以上体験した人だって、少なくはないでしょうから、幸運であったと思います。
 今回も震源から遠かったとはいえ、この震度はもはや「大地震を体験した」と言っても大言壮語にはならないのではないでしょうか。

 地震のエネルギーの大きさであるマグニチュードは、最初8.4と発表されましたが、その後8.8に上方修正されました。
 いま地震の年表をざっと見てみると、8.8というのは日本史上最大であるようです。
 もちろん、古い時代のものは推定値に過ぎないので、確実とは言えませんが、とりあえず過去最大と思われるのは1707年の宝永の大地震で、この時はマグニチュード8.7だったとされます。
 前にも書いたことがありますが、マグニチュードの数値はルート1000を底とする対数です。つまり、マグニチュードが2上がるとエネルギーは1000倍になることになります。この計算で行けば、宝永の大地震の8.7と、今回の地震の8.8の差である0.1というのは、1.4倍ほどのエネルギー差に相当します。過去最大の大地震であった宝永の倍とは言わないまでも、ほぼ1倍半に近い規模ですから、どれだけ大きかったかがわかります。
 ちなみに関東大震災のマグニチュードは7.9、阪神大震災は7.3だそうです。マグニチュードはあくまでエネルギーの大きさで、地表での揺れの大きさや被害の大きさとは違います。同じマグニチュードでも、震源が浅ければ揺れは大きくなりますし、人口密集地で起こればそれだけ被害が大きくなります。今回震源に近かった宮城県あたりでどの程度の被害が発生しているか、まだ検証はこれからと思われますが、何百人という死者が発生しているようではないので、まずは「大震災」というほどのことにはならなさそうで安心いたしました。もちろん、少数とはいえ亡くなられたかた、お怪我をなさったかたに対しては心よりお悔やみ申し上げます。

 我が家では雑誌が崩れたくらいで、もともと震災に遭ったみたいな雑然とした部屋でしたので、さほどのダメージも無く済んだのを確かめてから、予定通り買い物に出かけました。
 近くの小学校からは、迎えに来た親に付き添われた小学生たちが、みんな防空頭巾をかぶって出てきていました。公園などに一時避難していた人もけっこう居たようです。
 いくつかの店はブラインドを下ろして営業を中止していました。角の美容院では、店員も客も、店内のテレビに釘付けになっていました。
 消防車が停まっているのを2箇所で見かけました。火災は起こっていないようですが、商店街で壁の崩落した建物があったのです。片方は3階から崩落した壁が、1階の煎餅屋の日除け幕の上に落ちていました。もう片方は4階あたりの壁で、こちらは途中で遮られることなく、地面に激突して粉々になっていました。下に人が居たら大惨事になるところでしたが、幸い怪我人は居なかったようです。
 川口市は埼玉高速鉄道の地下路線を掘る時に、実際に掘ってみたら予想より地盤がゆるかったので、補強工事のため開通が1年遅れたという土地で、決して地盤が強靱な地域ではないのですが、建物の被害がその程度のもので良かったと言うべきでしょう。東海大地震の恐怖でさんざん脅かされてきた関東地方の耐震施工は、充分にその威力を発揮したと言うことができるかもしれません。
 なんと言っても火災がごく少なかったのは良かったと思います。15時ちょっと前という、あまり火の気を使わない時間帯だったのが不幸中の幸いでしょう。

 交通機関はほぼ麻痺しているようです。私のところは幸いふたりとも在宅していましたが、たいていの人は勤めに出ている時間帯で、帰宅が大変なことでしょう。また、家族と連絡が取れずやきもきしている人も多いと思います。くれぐれも落ち着いて、冷静に行動していただければと念じます。

 宝永の大地震の49日後、富士山が噴火しています。今回は場所が違うので、同じ経緯をたどるわけでもないでしょうが、ここしばらくは、何か二次的な大事件が起こらないかどうか、警戒が必要かもしれませんね。

(2011.3.11.)

【後記】これが東日本大震災当日の様子です。まだ津波の被害状況などが伝わっておらず、揺れは大きいもののあまり死傷者は報告されておらず、まさかあれほどの大ごとになるとは思っても居ませんでした。妙に呑気な感じの当日報告でした。
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